「宝」の字を共有、ともに3時間の長編映画でありながら、いまなお上映が続いている『国宝』と、主要な映画館からは上映がなくなった『宝島』とで、運命が二分された観がある。
原因については、いろいろ言われているが、それは映画の優劣の差ではないだろう。まあ、たしかに『国宝』の主要出演者、吉沢亮、横浜流星、高畑充希、森七菜、渡辺謙らと、『宝島』の主要出演者、妻夫木聡、広瀬すず、窪田正孝、永山瑛太らを入れ替えたら、つまり吉沢亮と横浜流星の『宝島』と、妻夫木聡、広瀬すずの『国宝』となっていたら、ひょっとして『宝島』のほうに人気が出たと思えなくはないのだが、それはともかく出演者、監督の優劣の差ではないと思う。では何が原因か。
それは『宝島』が「政治的」と思われているからだろう。これに対し『国宝』のほうは、同じく女性役の男性俳優の50年にわたる出来事を描く3時間の中国映画の『覇王別姫』と比べた場合、政治性は希薄というか全くない。『覇王別姫』が激動の中国史を背景にしているのに対し、『国宝』の50年は平穏無事で変化を感じさせない非政治的歴史となっている。また『覇王別姫』にあった同性愛は、本来、あってしかるべき『国宝』にはない。いっぽう『宝島』は返還前の沖縄史のなかの出来事であって、「政治的」であることが観る前からわかる。だから、観客、特に若い観客層の足を遠のかせた。
同じようなことは『ワン・バトル・アフター・アナザー』にもいえて、ポール・トマス・アンダーソン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の映画であっても、予想されたほどのヒットには恵まれていない。3時間近い映画だということも不人気の原因かもしれないのだが。これも「政治的」ということもあって若い観客層の足を遠のかせた。
昔は、おそらく今も、社交の場では政治の話をしてはいけないよくいわれてきた。せっかくの友好的な関係が、政治的立場なり支持政党が異なると険悪なものとなったり、論争が生じたりしかねない。政治的話題は忌避することが友好な人間関係を維持する秘訣ということになる。
しかし、若い世代の多くが、「政治的」を嫌うのは、そういうことではないだろう。そもそも与党も野党も、左翼も右翼も、よくわからない若い世代にとって(若い世代はそんなぼんくらばかりと私は本気で思っているわけではないが、ここでは選挙にすら行かない若い世代のことを考慮している)、政治的な話題で意見が異なるということはまずない。
『ワン・バトル・アフター・アナザー』に対する忌避は、3時間近い映画だということも大きな要因かもしれないが、非合法な反政府組織を主題としているというだけで恐怖もしくは嫌悪感が生まれるのだ。ごくふつうの基準からして『ワン・バトル・アフター・アナザー』は政治的な映画ではない。私などは、非合法の反政府活動を扱っているのに、この政治性の希薄感にむしろいらだった。政府と戦う反体制地下運動ごっこでしかない薄っぺらさが目立つし、実際のところ、この映画は観ればわかるのだが、諷刺性を凌駕するスラップスティック性が顕著で、政治的問題を考える気にもならない。
実は若い世代における「政治的」というのは隠語のようなもので、それは「反体制」「左翼」の言い換えである――もしこのような語を使うと、逆に、保守とか右翼とか極右のレッテルが貼られてしまう。そうではなくて、レッテルなき立場こそ、特定の政治的立場を標榜しない、普遍的に正しい立場であるというわけだ。
『宝島』も、その内容からして返還前のアメリカ統治下の沖縄における、反体制運動のようなものを扱っているとなると、左翼的映画として忌避感情が働くのである。革命、反体制、左翼という言葉なりレッテルに接すると、まるで洗脳されたかのように条件反射的に忌避感情が生まれる。『宝島』が若い世代に人気がでなかったのは、「政治的」つまり「反体制的」「左翼的」な映画であると判定されたためである。
逆に高市首相人気を考えてもいい。保守を通り越して極右的思想の持主である高市首相のその「政治的」なところに若い世代は嫌悪感を示すどころか、むしろ熱狂している。「政治的なもの」には、保守的・右翼的なものは入らないのである。左翼的政治性はだめだが、保守的政治性は問題ない、いや保守は政治的ですらない、正しい常識いや良識なのである。
20世紀の終わりにおいて、日本では顕著な右傾化がみられた。その成果は、21世紀を待たねばならかった。いま、洗脳は着実に若い世代に定着している。
