2025年10月24日

『西に黄色のラプソディー』

フライングシアター自由劇場 第六回公演『西に黄色のラプソディ』(原作 シングThe Playboy of the Western World、脚色・演出・美術 串田和美、10月20日~27日)を吉祥寺シアターに観に行く(本日ではない)。

串田和美氏によれば、
この作品は今回で6度目の上演になるけれど、今までで一番、ぶっ飛んだ作り方をします。これまでは酒場のセットをポンと置いたんだけど、最初は何もない更地から始めようと。そしてだんだんノスタルジーというのが少しずつ具体的に浮かんできて〔中略〕。本当は全てが不確かなノスタルジーに包まれてるようにしたいんです(公演プログラムp.22より)

ということだが、なぜノスタルジーにしたのか、最初は、よくわからない。更地といっても、舞台には鶏(生きている本物)が動き回っているし(鶏のいつもながらの力強い歩行に開演前に見入ってしまった)。嘘と祝祭的狂騒を基軸として、振り返れば結局夢か現実か定かでなく、終わってみればむしろ物悲しくなるといった出来事を扱う戯曲は、なるほど、ノスタルジーと同じ構造をしているのであって、串田氏の炯眼には感銘を受けた。

そのためか、ぶっ飛んだ演出でも、劇の基本構造は損なわれるどころか、むしろくっきりと際立つことになり、これはまぎれもなくシングのThe Playboy of the Western Worldの、おそらく誰にでも勧められる舞台である。

The Playboy of the Western World。シングの有名な代表作だが、タイトルの定訳がない。『西の人気者』とか『西の国の伊達男』と訳されている。私が持っているのは大場健治訳の『西の国の伊達男』を収録したシング選集(戯曲編)である。

Western Worldというのは、アイルランドで大西洋側を向いている地域。イングランド側を向いている地域に比べて田舎で辺鄙なところなのだろう。Playboyがうまく訳せない。いわゆる「プレイボーイ」なのだが、たしかに主人公の若者にはそう呼ばれて当然の要素があるが、同時に、その語が示唆するような都会的で洗練された(そして堕落した)要素というのがあまりない。また主人公は運動競技にも優れていて、このプレイボーイはいろいろな競技をプレイするスポーツマンでもある。さらにはほら話や嘘を語り、真実とプレイ(戯れ)をし、その真実とも虚偽ともつかぬ話で周囲の者を手玉にとる(プレイする)、詐欺師でもあるいたずら者でもある――この場合、プレイボーイの同義語はトリックスターである。と、こうなると適当な一語の訳語というのがみつからないのである。

あと、アイルランド文学や文化の専門家ではない私でも気づくこととして記しておきたいことがある。シングとアイルランドというと、ローカル性や文化的後進性だけが強調されて、アイルランドの持つ文化的先進性なり先端性、そして脱ローカル的な文化が見落とされることである。

たとえばシングの最初の劇、一幕物の『谷の陰』は、どうみてもアイルランド版『人形の家』なのだが、たとえば上記『シング選集【戯曲編】』では、どこにもそのことが触れられていない。地方の老人から聞いた話が元ネタとのことばかりが強調されて、この文化的後進国のアイルランドの田舎作家シングには、ヨーロッパを席巻したイプセン劇も、またヨーロッパにおけるフェミニズムも無縁と思われたのだろうか。ちなみに『谷の陰』の主人公の名前は、『人形の家』の主人公の名前と同じノーラである(『人形の家』のノラは、ノーラとするほうが正しいらしい)。

つまりシングは、アイルランドの土着文化なりローカル色を強く出した作品を残したのだが、同時に、文化の最新の潮流について無関心どころか目配りをしていて、れっきとしたモダニズム作家なのである。そうであるがゆえに、その戯曲のいくつかは、アイルランドのローカルな生活を描いていながらも、アイルランドの田舎者たちに気に入られなかった。そのようなシングの先進性とモダニズム性を無視していいのだろうか。

もうひとつ、アイルランド文化はギリシア・ローマ文化と直結していた。そのため、時々ショートする。アイルランドのことを何も知らないT・S・エリオットという評論家・詩人が、あるアイルランド出身の作家の手になるダブリンの一日を描く小説について、現代社会のカオスを、ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』の物語になぞらえて秩序付けた快作と作者をほめたたえ、これこそがモダニズムの手法だと語って私たちをだましたのだが(しかもモダニズムの手法であるという勝手な断定が、その後、ほんとうにモダニズムの手法となった)、それはジョイスの特徴というよりもギリシア文化とショートしているアイルランド文化の特徴ではなかったのか。

ジョイスの『ユリシーズ』、オケイシーの『ジューノーと孔雀』というタイトル。そういえば、ブライアン・フリールの『トランスレーションズ』には、頭のおかしな男が、よりにもよってアテナ女神と結婚するという妄想を抱いていたのではなかった。

そしてシングのこの『プレイボーイ』。父親を殺したという若者の登場と、それにつづく狂騒は、まさにソポクレスの『オイディプス王』の世界――ただし近親相姦なし――ではないか。先に触れた『谷の陰』がローカルな伝承物語を『人形の家』とショートさせ、『人形の家』を基盤にして古い物語を読み解いた作品ともいえるのだが、もちろんそれはまた『人形の家』をアイルランドのローカルな伝承物語を鏡として読み解く試みでもあった。同じことは、『プレイボーイ』にも言えて、父親殺しの若者が英雄としてもてはやされるアイルランドの田舎の奇妙な出来事を『オイディプス王』という原型をもとに秩序付けたともいえるのだが、同時に、『プレイボーイ』は、『オイディプス王』に対する優れた注解(コメンタリー)ともなっている。

『オイディプス王』の場合、たしかに、ぶらっとテーバイにやってきたよそ者の青年が、どうして、後家の女性と結婚し、国王にまでなったのか、その間に何があったのかを考えると、オイディプス、やはりウーマナイザーというかプレイボーイではなかったか。それだけではなく、体力・知力にすぐれていなければ、国王になれない。彼はスポーツ万能のスポーツマンではないか。結局、ギリシア悲劇のオイディプスは、多義的な意味でいうプレイボーイではなかったのか。

しかもオイディプス、国王でありながら、最後には、父親を殺したことで罪人となり乞食の身となって追放されるのである。とはいえ、それはオイディプスが神に召される第一歩でもある。いっぽう『プレイボーイ』のほうでは、息子は民衆に殺されそうになるが、父親が生きていたことがわかり、父親とともに村を去るが、そのとき息子のほうは、象徴的に父を殺し、独り立ちをするのである。こうみてくると、『プレイボーイ』は、『オイディプス王』の、大胆かつ狡猾なアダプテーションとみえてくる。父親が死んだか死んでないか定かでないところは『オイディプス王』そっくりだし、後家のクイーンは、『オイディプス王』のイヨカステだし【それにしても後家のクイーンを演ずる銀粉蝶氏、歳をとられても、これ以上はないという美しさを示されて、今回の上演では、主役といってもよい圧的存在感を発散されていて、大いに感銘を受けた。ちなみに銀粉蝶氏とは、かつてブリキの自発団を立ち上げられた頃、一度だけお会いしたことがある――とはいえ、一言二言言葉を交わしただけで、会ったともいえないような出会いだったが――、以後、その活動は今日にいたるまで断続的だが追わせていただいている】、なんといっても、きわめつけは、この青年、劇の最後のほうでは足を焼かれそうになる――オイディプス同様に腫れた足首のなりそうなる。

幕切れは、老人(父親)と息子の出発だが、このとき三度殺されそうになる老人は、なにかオイディプスそのものとなり、その手をとって勇躍歩み出る息子は、オイディプスというよりも、目が見えなくなった父親(オイディプス)を導く娘のアンティゴネーのようにもみえる。さらにいえば、この親子は、旅芸人であり、行く先々で今回の出来事を語って観衆を楽しませることになるだろうから、この出来事は、エンターテインメント(演劇)の神話的起源ともなる。父親殺しの青年は、そのほら吹きといい、その身体的魅力あるいはカリスマ性によって民衆を魅了することといい、演技者、役者のメタファーである。
【嘘かほんとかわからないことをべらべらとしゃべり、その身体能力でみんなを魅了したあと、よその村や町へと父親とともに旅立っていったクリスティーを、一時はクリスティーとの結婚を考えていた居酒屋の娘ペギーン/那須凛はなつかしむところで原作は終わる。彼女はクリスティーのあとを追いかけてはいかない。だが、このクリスティーとその父親のプレイ(演技・詐欺・いたずら・遊戯)は、旅役者あるいは役者のメタファーそのもの、いやこの作品では、役者(プレイボーイ)そのものである。そしてペギーンのようにただなつかしむだけではなく、実際に、田舎町から、旅役者たちを追いかけていき、やがて自身も役者に、そして劇作家になった人物がいる。ウィリアム・シェイクスピアである。】

また出来事のカオスを『オイディプス王』によって秩序化したこの戯曲は、演技や演劇についての自意識性をにじませ、最終的に演劇の神話的起源ともなることで、ポストモダン的地平へと乗り出すのである――歴史的に回顧すると、当時のアイルランドの観客からの囂々たる非難をものともせず。

脚色・演出・美術の串田和美氏の舞台をすべてみているわけではないが、今回も含め、串田氏の舞台は(演出のことではなく、ご自身で出演されていること)、やはり違和感がある。
演技の質が違うのである。これをどう考えてよいかわからない。

もし独り芝居をされれば、癖のある独特の演技かもしれないが、違和感があるとか、演技の質が違うなどという感想をもつ観客はいないだろう。ところが他の演者にまじると、なにか違うのである。もし共演者たちが経験の少ないプロとはいいがたい俳優たちばかりだったら、串田氏の演技は、ずぬけて優れたものと言えるかもしれないが、今回のように、あるいはほかの場合もそうだが、共演者は、だれもが力のある、経験豊かな俳優たちであって、そのなかで、串田氏の演技だけが、下手とは思わないが、なにか異世界なのである。これをどう考えてよいかわからないのだ。

失礼を承知の上でいうと、串田氏は、こんなに優れた舞台を演出できたのだから――役者にどのようなかたちであれ演技指導され、役者もそれに応えて演出家の求める世界像にそった迫力あるドラマを生成できるのだから――、そして舞台美術もセンスのよさで際立っているともいるのだから、ご自身は舞台に立たなくてもよいのではないか。

しかし、むしろそこが面白いとことかもしれない。つまりこの劇『西に黄色のラプソディ』におけるように、よそ者は、なにか得体の知れない魅力のようなものを漂わせる――たとえその代償が周囲からの妬みや排斥願望だとしても。それと同じで、芸達者な演者のなかで、上手いとか下手というのを超越した異邦人的な串田氏は、その存在自体が、その違和感によって魅力となっている。なにか惹きつけるものをもっているような気がする。

今回、『西に黄色のラプソディ』では、主役は父殺し(と嘘をついた)クリスティーであり、串田十二夜という串田和美氏のご子息が演じられているのだが、作品上の主役・よそ者は、彼であっても、演技者のあいだでの、舞台での主役・よそ者は、串田和美氏であるように思われる。劇の内容のレヴェルでは、クリスティー/串田十二夜が主役だが、舞台レヴェル・演技レヴェルの主役は、クリスティーの父を演ずる串田和美氏ということである。そして、この劇作品『西に黄色のラプソディ』の内容は、串田和美氏(とその演技)を前景化する理論的根拠となっているという、ある意味、稀有な関係性を示している。劇の内容は父親殺しだが、演技レヴェルでは、息子が父親の存在意義を保証し補強しているのである。

であればこそ、今後も、串田和美氏の舞台をみてみたい――つまり演出家としての串田氏の舞台と、串田氏自身が劇中人物として登場する舞台を。

付記:
ここで宣伝をひとつ。このシングの『プレイボーイ…』について、短いながらもすぐれた議論を含むのがテリー・イーグルトン『悲劇とは何か』大橋洋一訳(平凡社1925)である。シングのこの作品は悲劇ではないので、どうせソポクレスの『オイディプス』の話がメインではないかと思われるかもしれないが、たしかに『悲劇とは何か』には、すぐれた刺激的な『オイディプス』についての議論があるが、シングのこの作品が論じられているのは「有益な嘘」と題された章である。今私が語ったこととは異なる観点から、シングのこの作品を鋭角的に論じているので、読まれて損はない、有益な本である。本の価格が5キロの米の値段とあまりかわらないのがこの本の唯一の欠点だが。
posted by ohashi at 23:01| 演劇 | 更新情報をチェックする