この記事は、上映が終わる26日以降にアップしようと思ったが(その理由は、記事を読んでいただければわかる)、しかし、ブレヒトのこの劇は、パブリックなパフォーマンスとしては、おそらく日本では2度目くらいであり、さらにはブレヒトについて、また主従をめぐる劇について、いろいろ考えさせてくれる貴重な機会を提供してくれるということもあり、宣伝もかねて、ここにアップする次第。とはいえ誰も読まないだろうとは予測しているのだが。
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『プンティラ旦那と下男のマッティ』17日から26日まで、座・高円寺1で上映中のブレヒト作『プンティラ旦那と下男のマッティ』(構成/演出:松本修)を観てきた。
ブレヒトのこの作品の上演をこれまで観たことはないし、そもそも読んだこともなかったので、今回、上演にあわせて岩淵達治先生の翻訳を予習のために読んでみた。
タイトルからして、一幕物のみじかい喜劇あるいは笑劇かと思っていたが、読んでみると全12場の本格的な長編作品である【岩淵達治個人訳の『ブレヒト戯曲集』(未來社)の第5巻には「肝っ玉…」と「ゼチュアン…」とこの「プンティラ…」の三作品が収録されているが、「プンティラ…」は他の二作品に質量ともに匹敵する】。しかもフィンランド亡命中にフィンランドの女性作家ヘラ・ウォリヨキとの共作というかたちで書かれたこともあって、フィンランドを舞台にして地方色が濃い。
はたせるかなフィンランドの豊かな自然の風景が喚起されるのだが、それと同時にしっかりフィンランドの黒歴史も語られる。第二次大戦中にはソ連とドイツの侵攻を受け苦境に立たされたフィンランドの苦難の歴史は、全世界的に憐憫の情を喚起したのだが、しかし、そのようなセンチメンタリズムなど踏みにじる――そして作品の随所で語られる――国内の反体制勢力弾圧の歴史が、資本家と庶民の分断の歴史がフィンランドには紛れもないかたちで存在していることを、ブレヒトは容赦なく暴露する。愛されるフィンランド。だがフィンランドよ、おまえもかという嫌悪されるフィンランドがそこにあった。
今回の上演では、「構成/演出:松本修」とあったので、この長い芝居を適当にアレンジして2時間以内に収めるのだろうと思っていたが、上演前に示された配役表をみて驚きまた期待がたかまった。全12場すべてを上演するのである。細かな省略やアレンジはあるにせよ、作品全体を観られるのはすばらしい。上演時間も休憩をはさんで2時間半近くに及んだ。
このところ、誰のせいでもないのだが、最近観る演劇の私の座席がすべてが見切り席みたいになってしまい、視界が前に座った観客のせいで遮られていたのだが、座・高円寺1は客席が傾斜が急な階段状でどこに座っても、またすぐ前にどんな巨漢が座っても、視界が遮られることのない、よい劇場である。小劇場の客席だが、舞台は、中劇場並み、いや大劇場といってもいいくらいに大きい。
そして上演が始まると、舞台の両脇には椅子が並べられ、そこに演者が座っている。演技する者と演技しない者とを同時に見ることのできるこの上演法は、演劇性を意識させる仕掛けであって、この作品のもつ、演劇性をしっかり照射するものであった。【ブレヒトにとっては、貧乏人もひとつ演技であり、どの芝居か忘れたが、私は、貧乏人のスプーンの持ち方というのをブレヒト劇から学んだ。】
先に述べた配役表にはエヴァ(プンティラの娘のこと)とあったが、岩淵達治訳では「エーファ」となっている。そこは変えたのだろうと思ったし、訳文自体も、「構成/演出」の松本修氏がつくったのだろうと考えた(翻訳者の名前は明記されていないので)。しかし、どうも岩淵達治訳を、ほぼすべてにわたって使っているような気がした。
それは「焼酎」というセリフからもうかがえる。あたりまえのことだがフィンランド人は「焼酎」を飲まない。ブレヒトは「美食家」とか「美食的演劇」を嫌っていたのだが、美食的もしくはそこまでいかなくても飲食物にこだわる人物やセリフはけっこう多い。ブレヒトの『男は男』だったか定かでないが、岩淵訳のなかに「生のビフテキ」というセリフがあって、なんだその不気味なものはと驚いたことがあるが、英訳で、それが「タルタルステーキ」であったことがわかった――「おまえなんぞタルタルステーキにして食ってしまうぞ」というようなセリフ。当時は「タルタルステーキ」と訳しても観客は誰もわからなかったのだろうからやむをえない処置(「生のビフテキ」)なのだろうが、「焼酎」もなんとかしてほしかった。
とはいえ、その他、舞台装置も工夫がこらされていて、この大きな舞台を立体的に活用していて、演出家の力の入れようも理解できたのだが……。
全体として、最後まで、はじけることのない舞台だったのが残念だった。
そもそも、これはいうまでもないことだが、〈主人と召使〉物は、ボケとツッコミの漫才パタンのひとつであって、面白くないはずがない。
この作品、大地主のプンティラとそのお雇い運転手マッティの話は、一応、漫才のボケとツッコミの拡大版として予想できるパタンがある。英国演劇でいえば、また日本でも人気のある、ロナルド・ハーウッド『ドレッサー』(The Dresser, 1980.映画化は1983)がある(『ドレッサー』のほうが、『プンティラ…』から影響を受けたかもしれないのだが、ただ、『プンティラ…』の場合、その原型はディドロの『運命論者ジャックとその主人』が指摘されている)。第二次世界大戦中、横暴でわがままな老シェイクスピア俳優と、彼をコントロールするその付き人が、『リア王』を上演中の楽屋でくりひろげるやりとりは、暴君的な老俳優と狡猾な付き人との笑いあり涙ありの活力ある舞台を出現させた。このパタンは基本的に舞台をはじけさせる。
そうしたダイナミズムは、最近の例としては映画『ベートーヴェン捏造』におけるベートーヴェンとその秘書アントン・シンドラーの関係にもみることができる。ベートーヴェンにパパゲーノとバカにされ解雇されるシンドラーだが、最終的に楽聖ベートーヴェン像を捏造する――それはベートーヴェンへの復讐かもしれないが、同時に愛でもあった。つまり、主人と召使のパタンは、劇的要素が詰まっていて、喜劇にも、時には主従逆転でスリラーにもなりうる(たとえば映画『召使』(The Servant、1963、ロビン・モームの小説をもとにピンターが脚本を書いた)。そうしたものを期待した観客には、あるいはとくに期待しなかった観客にも、今回の上演は、やや物足らなかった。
俳優の方々は、みんな、それなりにベテランでもあって、実際、みばえもいいのだが、こうした演劇(喜劇、ブレヒト劇、主従劇)をはじめて演ずるようにみえる(そうではないとしても)。数年前に近畿大学舞台芸術専攻の卒業公演で、この劇を上演したとのことだが、学生演劇一般の質の高さを私は充分承知しているし、その卒業公演をみたわけではないので、あくまでも学生演劇を観たことのない一般観客の偏見に満ちた物言いを想定しただけのことだが――今回の上演は、下手な学生演劇の舞台のようにみえなくもない。
プンティラ/孫高宏とマッティ/小谷真一のふたりは、最初は違和感があったのだが、慣れてくると、それもなくなって、実際とくに不満はなかったのだが、いかにも暴君的な主人と狡猾な運転手というこの二人は、役柄をかえて、プンティラ小谷、マッティ孫としても、芸達者なふたりは、それなりに別様の主従関係を見せてくれるのではないかとふと思った。役割を変えるというこのブレヒト的「処置」は、他の俳優たちにも適用すれば、でくの坊的男性俳優たちは、活気のある女性俳優たちと交代しては面白いのではないかと思った。ジェンダーの逆転が、この作品を活性化してくれるかもしれない。作品中の「外交官」は、物語のなかでは浮いているが、かといって舞台で浮いていいとは限らない。デルソ・ユリスは見栄えもよく力演なのだが、いくら物語レベルで浮いている道化的人物だからといって、舞台で「異人化」する演出はいかがなものかと思った。
ただし、このブレヒト劇のむつかしさが舞台から活気を奪ったということもあるだろう。いかにもありそうな主従関係物語なのだが、こうした劇の例にもれず、悪辣な主人の方が魅力的で人間的にみえてしまうのは避けられない――たとえ酩酊するときに限り人間的になるとしても。そして召使の側の活躍が、この劇ではいまひとつ地味である。ただし、あまり活躍しすぎると、トリックスターとしての魅力はますが、同時に、召使の側が、犯罪者にみえてしまい、作品がスリラー化あるいはホラー化する。主人を聖人化しないために、また召使を悪魔化しないために、どうすべきかは、舞台にこの作品を載せる俳優たちや演出家にとっての難題である。
幸か不幸か、現在では、プンティラ的気前の良さと横暴さと冷酷さ、まさに暴君的大地主・資本家の自己中心的暴走は、トランプの予測不能な(だか同時にいかにもという)言動を思い起こさせ、同情の余地なき不快なものである(少なくともトランプ支持者以外の人間にとっては)。したがってマッティが最後にプンティラに背を向けることは必然的成り行きのように思われる。プンティラがどうなろうが知ったことではない。
プンティラのもとを去るマッティの最後の台詞、召使がよき主人をみつけるのは、みずからがよき主人になったときであるという趣旨の発言は、階級闘争の真実をみごとに要約している。それはけっしてブレヒト流の解釈ではないと思う。つまり召使がよき主人を探そうしても、けっしてみつからない。みずからがよき主人となるしかない。階級闘争には和解も融和もそして休戦もない。あるのは勝つか負けるかである。勝つしかない。勝ってみずからが主人となるほかはない。そのときは、苦しみぬいた召使たち、庶民や労働者や農民たちは、愚劣で残忍な主人ではなく、よい主人となっているだろう。召使の学びとは、主人のようになるのではなく、主人のようにならないことなのである。脱・模倣、脱・まなびが求められる。あらゆる主人、あらゆる教師は、反面教師なのである。
はたしてこのブレヒト的学びを、この難題を、いいかえるとブレヒト的叙事演劇の要諦を、俳優や演出家はうまく伝えるような試みは何度もなされるべきだろうか。ペシミストは、イエスというだろう。オプティミストはノーというだろう【ミスプリントではなく、パラドックス--原作を参照のこと】。
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これは今回の上演とはまったく関係のない話だが、以前、ブレヒト劇をみたとき、上演前の劇場の床、それも席と席のあいだ(たとえば横に広がるA列とB列の間の空間のようなところに)にうつぶせに横たわっている観客がいたのを私は発見した(すぐ後ろの列の席に座ろうして)。驚いて、どうしたものかと一瞬戸惑ったが、すでにこの異変に気付いた観客が係員に通報したらしく、係員がとんできた。係員に声をかけられたそのうつ伏せの観客は、腰が痛くて、こうしていと楽なのでと話して周囲を驚かせた。かなり大柄な客だったが、立っていても座っていても腰が痛い、床にうつぶせになっていたら痛くなくなる? そんな病人なら、芝居なんかみにくるか。早く家に帰って安静にしておけと心の中で思ったのだが、その後、その男は移動して自分の席にもどったようだ。自分の席の近くの床のにうつぶせになっていたわけではなかった。なんだこの男は、とあきれたが。
今回、私は座・高円寺1の劇場で、遮ることのない視界を大いに満喫したが、隣に座ったクソジジイが、大きな咳をするは(マスクは着用していない)、自分の禿げ頭や足をさすったりする。勝手にそうすればいいのだが、ただその都度、揺れが私の座席にも伝わってきて、舞台に集中できないことが多かった。さすがに我慢できなくなって、横にいるそのクソジジイをにらみつけ、「こんな奴は死んでしまえと言えばいい」と思った瞬間、その足元が目に入った。地下足袋のように指先が二股に別れている革靴なのである(いわゆる仕事用の地下足袋とは異なる)。え、こいつ、二股の蹄、悪魔あるいはバフォメットかと思わず息をのんだ。と同時に、まさか悪魔であるはすがないので、なにか足に障害をかかえている人かもしれないと思い、「こんな奴は死んでしまえと言えばいい」とは思わないことにした。障害者をせめるのは絶対によくない。しかし、帰宅してから調べてみると、おしゃれで地下足袋型のブーツをはくこともあるとのこと。やはりあのクソジジイは、足に障害を抱えているのではなく、たんにおしゃれでそのようなブーツをはいていたのだ。一瞬、悪魔かとひるんだ私は大バカだったが、それにしても、そんなに体調が不良なら劇場に来るな。しかもどうしてもブレヒト劇を観たいから劇場に来たというのではまったくないようなのだが。ブレヒト劇は体調不良者を呼び寄せるのか、神様いや悪魔が、私に意地悪をしているのか。
2025年10月23日
『プンティラ旦那と下男のマッティ』
posted by ohashi at 14:46| 演劇
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