そもそも翻訳劇しか観ない私が、日本人がベートーヴェンや彼の秘書だったシンドラーを演ずるのは違和感があるなどといえた義理ではないが、実際、今回の『ベートーヴェン捏造』は違和感で息が詰まると思いきや、そうでもなく、すんなりと映画の中に入って行けたので、いったい違和感の臨界点はどこなのかと思いをはせることになった。
たとえば浅田次郎原作で、橋本一監督の映画『王妃の館』(2015)では、ルイ14世が寵姫のために建てたという『王妃の館』に宿泊した日本人作家(水谷豊)がルイ14世時代の出来事(ルイ14世と、その寵姫と息子をめぐる)について思いを巡らせるのだが、そのとき、作家の想像のなかに登場するルイ14世を石丸幹二が演じている(その他、主要人物を日本人が演じている)。せっかくパリまでロケにでかけ、ベルサイユ宮殿を一日貸切りでロケまでしたにもかかわらず、なぜルイ14世が、石丸幹二なのだ。
ただ理由がないわけではない。ルイ14世とその寵姫のことを調べた作家は、それをもとにミュージカル台本を創作しようとする。当然、その台本は、日本人の歌手たちがルイ14世その他を演ずることになる。石丸幹二=ルイ14世は、作家の脳内劇場のなかに登場したルイ14世を演ずる歌手、もしくは作家が完成させた日本語によるミュージカル台本によって実現した公演でルイ14世を演ずる歌手なのである。だからルイ14世が石丸幹二であることに納得できるかというとそうでもない。実際のパリの風景のリアリティは何物にも代えがたいのだが、それを日本人のルイ14世は損なうのである。
実は、この『王妃の館』の宝塚版をみたことがある。『王妃の館-Château de la Reine-』(2017年2 ~ 4月)の宙組公演で、作家を朝夏まなとが、ルイ14世の亡霊を真風涼帆が演じていた(いまや二人とも退団しているのだが)。これには何の違和感もなかった。たとえていえば、翻訳小説とか翻訳劇で、外国人の名前の登場人物が全員日本語をしゃべり、地の文というか描写もすべて日本語であっても、べつに違和感を抱かないのと同じである。
しかし、たとえば英語の小説の日本語訳のなかで、一人か二人のある特定の人物が、英語だけを話している(ローマ字で記載されている)としたら、あるいは逆に、英語の小説で、ある特定の人物が、日本語で話し、日本語を書いているとしたら、よほどの理由付けがないかぎり、違和感満載であろう。これと同じで、石丸ルイ14世は、日本人とフランス人が交流しているところに、突然、フランス人の格好とメイクをした日本人が出現するようなものであり、違和感はハンパない。
だが、ベートーヴェンの時代の人物全員を日本人が演ずる場合はどうか。翻訳小説と同じことなのだろうか。翻訳劇をみているようなものなのだろうか。
映画のなかでは山田裕貴扮する高校の音楽教師が、音楽室に忘れ物をとりにきた男子高校生に対してベートーヴェンの秘書だったアントン・シンドラーによる捏造事件について話をする。ちなみにこの高校生、シンドラーはベートーヴェン像を勝手にこしらえたのかもしれないが、それを語る音楽の先生のシンドラー像も、ある意味、想像の産物で捏造かもしれないと脱構築的に語るのが印象的だった。で、それはともかく、彼が音楽室に向かう途中に高校の教員の何人かに出会う。古田新太もその一人で、音楽教師/山田裕貴の語りのなかで、この古田新太がベートーヴェンとなる。その他、高校の教員の何人かが、ベートーヴェンやシンドラーをとりまく人々となる。むろん、山田裕貴が、シンドラーとなる。
これは音楽教師/山田裕貴の脳内劇場で、職場の同僚である他の教員に役を割り振ったということなのか。それならばベートーヴェンをはじめとして当時のドイツやヨーロッパの関係者が全員日本人なのも納得がゆく? むしろなぜ古田新太がベートーヴェンなのかと考えたときに、山田の高校での同僚だったという、それだけでは因果関係にはならないのだが、なんとなく関連性をにおわせることで、なんとなく観客を納得させるものかもしれない。
ただ、ここでいえるのは、音楽教師/山田裕貴が語るシンドラーによる捏造事件に、身近な同僚が登場しているということは、この遠い過去の異国の出来事を想像し再現するというきわめて困難な試みを前にして、おそらく慣れ親しんだものを基軸として、そこからアナロジーを駆使することにしたということだろう。つまり、身近にあるもの、手に入りやすいものなら何でも利用し、限られた材料や手段を可能な限り活用して、想像力を駆使したのである。この手仕事感、知のブリコラージュといってもいいが、それを映画の設定は前面に押し出している――音楽教師/山田裕貴の語りのなかに登場する欧米人がみな日本人であることで。
原作とされているのが、かげはら史帆『ベートーヴェン捏造―― 名プロデューサーは嘘をつく』(2018)というノンフィクション作品だが、映画のほうは、この著書に触発された、実話に基づく再現ドラマ映画である。再現ドラマというのが日本人ベートーヴェンの鍵となる。たとえばテレビの知的バラエティー番組において、再現ドラマは、実際に起った事件を簡潔にまた要点だけを示すために、外国の事件でも日本人俳優を使う。そのほうが手っ取り早くてわかりやすい。再現ドラマは実際に起った事件の再現である以上、主導権は事件のほうにある。再現ドラマは便宜的なものでいい――挿絵的なもの、写真、アニメ、CGでもいいのだ。そうした便宜的手法のひとつに、日本人俳優を使ったコント的なものがある。この映画は、実際に起った事件・実話に基づく劇映画というよりも、実際に起った事件をわかりやすく説明するための再現ドラマなのである。
と、まあ、こう考えれば、違和感は減少するかもしれない。逆に観客は、簡略的なコントでよいものを、けっこう力を入れてドラマとしても成立させたことに、感銘をうけるかもしれない。そしてさらにいうなら、音楽教師と男子高校生という枠物語の部分もまたコント的であって、映画全体が、長いコントとみることができる。ならば違和感はさらに減少するのかもしれない。
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なお『ベートヴェン捏造』に関して、まず語るべきは、こうした違和感についてであろうが、内容に即してみると、「嘘」の問題が次に語られることかもしれない。これについては、このブログで紹介しているイーグルトン『悲劇とは何か』についてで、語られることを参照していただきたい。
2025年10月08日
『ベートーベン捏造』
posted by ohashi at 13:44| 映画
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