2025年10月18日

『埋められた子供』

Pit昴/サイスタジオ大山第一での劇団昴公演(10月3日から19日)、サム・シェパード作『埋められた子供』広田敦郎訳、桐山知也演出を観る。

実は最近というか観劇の直前まで、ひどい咳に悩まされ(実際、9月にはそのために『ヴォエツェク』を観ることができなかった)、しかも、この芝居、ドッジ/金尾哲夫という70歳代の家父長が最初から激しく咳き込み、薬代わりにウィスキーを飲み、煙草も吸うため、最後あるいは最期まで咳が治ることはないために、なおのこと、つられて私も咳き込むのではないかとかなり心配はした。幸い、咳の発作もおさまって快方にむかっているようなので、上演中、私は一度も咳をすることはなかった。ほんとうによかったとしかいいようがない。

なんとか咳もおさまったようなので、あきらめかけていた、ブレヒトの『プンティラ旦那と下男のマッティ』を来週、観劇することにした。

サム・シェパードの芝居は、いくつか読んだり、舞台(翻訳劇)で観たこともあるのだが、『埋められた子供』は、読んだことがあるような気がするのだが、内容はすっかり忘れていたので、今回は予習のつもりで読んでみた。Revised editionだったので、初演とどこがどうちがっているのかは気になったが、確かめてはいない。そもそも、今回の演出は改訂版をもとにしたということでもあるので。

劇中に「ヒットラーだってヴェジタリアンだった」というセリフがある。今でこそ、有名な事実だが、私がはじめてこの作品を読んだときには、その事実を知らなかった。というかそういうセリフがあることを覚えていなかった。最初はどうしたのだろう? 変なセリフだと思いつつ読み飛ばしたのだろうか。そもそも決して難しい英語ではないのだが、ひっかかると先にすすめなくなるので、忘れて先にすすんだのだろうか。

ヒットラーはヴェジタリアンで、ナチスは環境にも配慮していたことは、アニマルスタディーズやエコロジー界隈では衝撃とともに受け入れられたのだが、ヴェジタリアンやエコロジストがファシストということではないだろう。私などは、むしろあっけらかんと、ヒットラーの個人的好みあるいは利用できるものはなんでも利用するナチスの策略(そもそもナチスは、共産主義者を弾圧するいっぽうで社会主義を標榜していたのではなかったか)と気にしてはいないのだが。

そのようなことがあったにせよ、今回の上演は、私が原作を読んで想像した舞台と、そんなに変わっていなかったので、充分満足した。もちろん私の想像と合致していた舞台ということが、優れた上演ということにはならないだろうが、それにしても、丁寧に原作を英語で読んだ一観客である私が、原作との相違に驚いたり、苛立ったりしなかったのは、翻訳者の正確で丁寧な訳文と、演出家の原作へのリスペクトにあふれた上演ゆえであるとまちがいなく言えるだろう。

またこの作品は、リアリズムであるとともにマジック・リアリズムで、堅固な現実に裏打ちされているようで、不安定な幻覚的要素もあり、複数の世界線が共存する、ある意味、とらえどころのない作品ながら、同時に、劇的な衝突は、劇場的なリアルとなって、けっこう私たち観客を揺さぶるところがある――端的にいうとよくわからないながら、迫力に圧倒されるのである。

それを確信させてくれるのが舞台での俳優たち(家父長ドッジ/金尾哲夫、妻のハリー/一柳みる、長男ティルデン/佐藤洋杜、次男ブラッドリー/中西陽介、三男のヴィンス/赤江隼平、ヴィンスのガールフレンド・シェリー/高橋慧、牧師デュイス/宮島岳史)のすばらしい演技で、正直言って、劇が終わったらスタンディング・オベイションをしてもよかった、あるいは私以外の誰かがそうしてもよかったと思うのだが、幕切れが、そうした熱狂をやや場違いなものにするものであったので、千秋楽でもないので、誰も立ち上がることはしなかったのだろう。【金尾哲夫のドッジは、咳をしていても、あるいは咳をしているからこそ、そして破綻者であっても、あるいはそうであるがゆえに、強烈な存在感で舞台を引き締めていて、すぐれた人選というか当然の配役だと思うのだが、金尾氏は、映画やドラマでエド・ハリスの吹き替えをしていたとのことで、それでドッジ役に選ばれたのかもしれない2016年の上演ではドッジをエド・ハリスが演じていたのだから】

今回予想しなかった舞台構築として、原作では二階につづく階段がある。小劇場とかスタジオでの上演が一番しっくりくるような作品だが、その舞台装置は、けっこう多彩で、たとえ二階というか階上のようすは示されることがなくても、舞台に階段をもうけることは、それなりに大きく広い舞台を必要とすることがわかった。今回、サイスタジオ大山第一の舞台では、階段を舞台に設けることはできなくて、階段状の客席の中央通路を階段にみたてる演出だった。

それはいいとしても、不気味だったのは、部屋があり、アメリカンなスクリーン・ドアがあり、そして玄関ポーチがあるのは、原作どおりなのだろうが、部屋の背後に壁はないために、家の外であるはずの空間が、見えてしまう。というか本来ならそこに雨空あるいは翌朝の青空がみえるところ、あるのは劇場の壁でしかない。しかもその壁の、あくまでも劇場の壁の、窓とかドアがあるらしきところに板張り枠が貼り付けてあり、外部の光景を遮断している(本当は窓などないのだろうが、板張り枠をつけることで、そこに窓があるかのような錯覚をあたえる)。ここには演出上の工夫があるのだろう。たとえばこの舞台での家族たちは、実は、この廃屋というか納屋あるいは物置小屋に住み着いている幽霊ではないかという。もちろんほかにも解釈はあろうが、そこは原作にはないかなりエキサイティングな解釈となっているとはいえるだろう。

ちなみに、『埋められた子供』とほぼ同時期(10月11日から18日)に、水道橋のIMMシアターで、清水邦夫原作『狂人なおもて往生をとぐ』を上演していた。もちろん両作品は異なる作品で、『狂人』のほうは原作を読んだかぎりでは、メタドラマ的二重構造というか、一周回ってもとにもどるという構造で、『埋められた子供』とは趣向が異なるのだが、ただ、両作品とも家族物語である。ともに家父長が破綻者であり、そしてどちらも二階に通ずる階段がある(IMMシアターでの公演には行かなかったし、行く予定もなかったので、確かめることはできないが、階上へと続く階段を使ったのかどうかわからないが)。そしてあえていえば、どちらの作品にも近親相姦がある(『埋められた子供』もどこに近親相姦がと思われるかもしれないが、それは解釈上の問題)。ふたつを比較しながら論ずることは面白いのではないかと思うが、それはいずれ、チャンスがあれば。


posted by ohashi at 22:11| 演劇 | 更新情報をチェックする