2025年09月16日

My name is

2025年9月26日(金)から10月5日(日)まで、東京の紀伊國屋ホールで、青年劇場第135回公演『わたしは、ダニエル・ブレイク』が上演される(脚本:デイヴ・ジョーンズ、訳・演出:大谷賢治郎)。

残念ながら私は観劇する予定はないのだが、青年劇場による感動的な舞台になるであろうことは予想がつくので、公演が成功することを確信している。

ケン・ローチ監督、ポール・ラヴァティー脚本、レベッカ・オブライエン製作による映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』(邦題)を原作とする演劇作品だが、問題は、バカな映画会社が原題I, Daniel Blakeを、あろうことか、「わたしは、ダニエル・ブレイク」というとんでもないタイトルをつけたことである。

正しくは、というか正しいもなにもケン・ローチのこの映画をみればわかるのだが、これは「わたし、ダニエル・ブレイクは」と訳すしかない。なぜならこのタイトルは、映画のなかでは、ダニエル・ブレイクが、人間の尊厳を軽んずる行政や自治体の貧困政策に抗議して、建物の壁にブラシで大きく記す抗議文――バンクシーの落書きを上回る衝撃的な抗議文――の書き出しなのだから。つまり「わたし、ダニエル・ブレイクは……に強く抗議する」という怒りの声明文の冒頭なのだ。

「わたしは、ダニエル・ブレイク」とのんきな自己紹介をしているのではない。いっそのこと「ダニエル・ブレイク」という人名をタイトルしておけばよかったのでは。「わたしは、ダニエル・ブレイク」というタイトルは最低のバカタイトルである。まあいろいろな事情もあったのだろうが、青年劇場だったら、映画の邦題など無視して「わたし、ダニエル・ブレイクは」としてほしかった。

ちなみに「わたしは、ダニエル・ブレイク」というのは自己紹介文としてもおかしい。英語なら「わたしの名前は、ダニエル・ブレイク」となるところだから。

しかし『池上彰のニュースそうだったのか!!』では、いつの回か記録していないのだが、最近の日本の英語教科書では自己紹介の際に“My name is . . . .”とは言わないようになったと紹介していた。『池上彰のニュースそうだったのか!!』は、毎回に観ているわけではないが、きわめて有益な情報と解説には感心することしきりで、まあファシストだけが番組を批判しているということは番組にとって勲章のようなものである。ただ時おり変な情報がある。それが英語の自己紹介では“My name is”とは言わない(と日本語の英語教科書にでている)という情報だった。

その情報がどこまで事実なのかわからないし、言わなくなった理由もよくわからなかったが、もしほんとうなら、どこのバカが日本の英語教育に介入してまちがった入れ知恵をしたのかとあきれる。

よくあるパターンは、日本の英語の教科書では、~のような表現をしているが、それは自然な英語、ごく普通に使われている英語表現ではないというような批判である。英語教科書の表現は不自然だからもっと自然な表現になおしたというのならわかる。

ところが今回の場合、英語教科書の自然な英語を、不自然な英語になおしたことになる。これはおかしいのだ。

そもそも「私の名前は~です」という表現は日本語としては不自然である。日本ではあまり使わない。芸能界を理不尽なかたちで追放されたフワちゃんが一時期テレビのCMで、「わたしの名前はフワちゃんです」と言っていたが、これは例外的なもので、日本語としては「わたしの名前は~」ということはあまり言わない。「あなたの名前は?」「お名前は?」と聞かれても「わたしの名前は」と返すことはなく、ふつうは、ただ「不破遥香です」「不破遥香と申します」というだけである。

一方英語ではMy name isというのは自己紹介をはじめる標準的なフレーズである。実際、もしあなたがアメリカで警察官に尋問をうけたら、へらへら、ただ「わたしはダニエル・ブレイク」なんて言っていたら強制送還されるかベネズエラに連れていかれるだろう。「わたしの名前は、XYです。観光客で、移民ではありません」としっかり言わないと、たいへんな目に合う。

My name is~という表現は日本語では珍しいが、英語では、日常的に、テレビや映画のドラマのなかで、あるいは小説や戯曲のなかでもふつうに出会う。ちなみに前回の記事で触れた『ヘヴンアイズ』の原作の小説の冒頭は“My name is Erin Law”(David Almond, Heaven Eyes)である――主人公が読者に語り掛けている。

My name isという表現が日本の英語教科書から消えたというのはフェイクか誤情報であることを願っている。

posted by ohashi at 22:05| コメント | 更新情報をチェックする