2025年09月15日

『ヘヴンアイズ』

現在、上演中の演劇作品なので、ネタバレ的なことあるいはネタバレそのものは書いてはいけないので、まずは観劇記を。作品そのものについては、いずれ上演終了後に書いてみたい。

9月12日より「すみだパークシアター倉」で、デイヴィッド・アーモンド作、高田曜子翻訳、荒井遼演出の『ヘヴンアイズ』を上演中(9月17日まで)。

デイヴィッド・アーモンドは日本でも人気のある小説家・児童文学者で、『ヘヴンアイズ』ももとはジュヴナイルあるいはヤングアダルト小説。日本語訳も存在している。『へヴンアイズ』金原瑞人訳(河出書房新社2003)――もう絶版か品切れと思われる。ちなみに『ヘヴン・アイズ』という表記もみられるが、正式の書名としては『ヘヴンアイズ』。

私は原書で読んでいたが、基本的にジュヴナイルなので、英語は難しくない。ほんとうにas easy as easyでas lovely as lovely【←こういう英語のフレーズはありません。良い子はマネしないで】。小説としては、孤児院の子供たち3人が脱出する話で、けっこうスペクタクル。これをどう舞台化するのだろうかといぶかった――もちろん脚本家、劇作家に、できないことはないので、やってしまえるとは承知のうえで。今回は、原作者アーモンド自身が舞台化しているので、もちろん省略や変更はあるのだが、原作の小説の流れをうまく組み込み、原作の特質を失うことなく見事な劇化をしていた。

けっこう予想外の展開をする原作の小説の構成を演劇版でもなぞっているので、観客としてもその展開を楽しむことができる。また原作小説のスペクタクル性は、さすがに舞台では再現できないのだが、しかし、それでもむりのないかたちで、また観客が誤解したり戸惑ったりすることないかたちで、スペクタクル性も温存していたのは特筆に値する。

作品についての議論はここではしないが、小説版の時間と空間を、省略と変更を加えたうえでひとつの舞台に設定することで、小説版にはない圧縮性と重層性が生まれ、それが小説版では潜在していたかぼんやりと示唆されていた主題を浮上させた。これは演劇版をつくった原作者の技巧の妙か、演出家の荒井遼氏の手腕か、おそらくその両方だろうが、リアルでありまた不思議な世界がそこに生まれていた。

原作の小説版の読者なら、小説のあらすじを語ることができる――事件は一応リアルなかたちで展開し、謎やサスペンスも最後には回収される。と同時に、そうしたあら筋ではすくいきれない不思議なこともいっしょに起る。この小説の二重構造は、舞台ではひとつになる。リアルな出来事が展開しつつ、不思議なこともいっしょに起る。観客は、限られた舞台装置のなかで、認知力と想像力の両方を働かせて劇行為を受け止めるのだから。

「すみだパークシアター倉」は、劇場のウェブサイトによれば、JR総武線/錦糸町駅(北口)より徒歩15分、都営浅草線/本所吾妻橋駅(A2出口)より徒歩13分、都営浅草線・京成線/押上駅(A2出口)より徒歩14分、半蔵門線・東武線/押上駅(B2出口)より徒歩15分、とうきょうスカイツリー駅より徒歩12分という実に不便なところにある。私はとうきょうスカイツリー駅から南下したのだが、劇場までの道筋は簡単でわかりやすい。

「すみだパークシアター倉」の「すみだパーク」というのは存在しなくて、「(墨田)区立大横川親水公園」のこと。スカツリーから南下する場合、この大横川親水公園に沿って歩くと面白い。春日通の下(上を車が通っているのに、橋の下は、どういうわけか一瞬、無音の静寂の世界となる)をくぐるとそこに小広場がある。この小広場、あるいは横川に向かって「すみだパークシアター倉」が建っている。翻訳者の高田曜子氏がパンフレットに書かれているように、「この作品にぴったりな劇場」である。

【数日前に東京を襲った豪雨による水害が、この横川周辺には及んでいなかったのは幸いであった。もし水害になったら、これはこの演劇作品の世界そのものともなって、冗談ではすまないところだった。】

「すみだパークシアター倉」の内部の観客席については、ネット上のサイトに写真があり、それをみていただければわかるのだが、客席の傾斜も急で、これならどこに座っても舞台がよく見えるよい劇場である【唯一の欠点は、トイレが少ないこと。男子トイレも女子トイレも開演前には長蛇の列ができる】。

ただし例外もある。私が観劇したときは、劇場はほぼ満席で、これはたんに演者の人気だけでなく、演出家の荒井遼氏の仕事が高く評価されていることのあらわれかと思った【荒井氏が23年に演出した『これだけはわかっている』の舞台では、若い観客層が目立ったのだが、それは南果歩、栗原英雄といった有名人のせいではなく、山下リオが出演していたからだろうと思った。今回も、ハロープロジェクトを卒業した石田亜佑美のファンらしき観客もいたが、そうではないだろうという観客も多く、荒井氏の舞台の人気のほどが知れた。】

ただ、それにしても、私の前の列の2つの座席がずっと空席になっている。満席状態を考えると、その席だけが売れ残っているということは考えられないので、なにか事情があってこれなくなったのかなと思っていたら、開演直前に娘と父親の二人連れがやってきた。そして私の前の席に座った。父親、でかい。まるでヘヴンアイズとグランパだ【何を言っているのかについては原作か舞台を参照のこと】。グランパではなくパパのようだが、それにしてもでかい。そして私の視界の多くが遮られた。

舞台の奥とか中ほどは見えるのだが、フロントステージが見えない。背伸びしても見えない。体をくねらせて横からのぞき込むようにしないとフロントステージがみえない。この傾斜が急な客席で考えられないことである。

この「グランパ」は悪意があるとか意地悪をしているわけではない。ただ天がよい体格をあたえてくれただけだ(隣の「ヘヴンアイズ」は小さな女の子なのに)。そして私が天から意地悪をされているだけなので、誰も責めるわけにはいかない。

体をくねらせてみるのは疲れるので、また舞台の内容はわかっているので、一定期間、試しに、その場で目をつぶって声だけを聴くことにした【これは危険な行為で、下手をすると眠ってしまう可能性がある。ひょっとして私も気づかぬうちに意識を失ってしまったかもしれないが】。すると主役の石田亜佑美の台詞(彼女は劇中人物だが、その台詞はナレーションもかねている)が実にうまい。美しくまた鮮明である。ちなにみ、この作品では、彼女の演ずるエリンは――実は彼女だけが大人だといいたいが、まあそれはほめ言葉にはならないかもしれないのでやめておくとして――他の人物や大人たちを超越している「永遠の少女」である(このブログで映画における少女物のジャンルを指摘したが、これは演劇における少女物である)。

そして他の俳優たち――渡辺碧斗、湯川ひな、野口詩央(原作では男子だが、幼さをだすために女性の俳優を使ったのだろうが、彼女が演ずる男の子に違和感はなかった)、里内伽奈、岡島洸心、そしてグランパの大谷亮介(グランパが聖人に回収されるという展開は、小説版にはない劇場版独自の設定なのかもしれないが、なるほどと腑に落ちた。ちなみに私の前に座った男は、このグランパよりも大きい)――誰も芝居がうまくて、良質な演劇空間がまぎれもなくそこに誕生していた。

今回は、終演後、舞台装置を撮影してもよいということだったが、荒井遼氏の演出の舞台は、毎回、洗練された舞台美術が魅力のひとつを形成している。今回、原作小説を読む限り、派手なスペクタクルシーン以外に舞台美術の見せ場はないのではないかと思われたのだが、レトロでノスタルジックな空間が、古道具屋の片隅に眠っている魅力的な廃物たちの輝きを際立たせていた。

パンフレットによると演出の荒井遼氏は、他のアーモンド作品も上演したいとのこと。実現されることを心から願う。アーモンド作品は、舞台に載せることで、そのリアルで不思議な世界の可能性を広げることになると思うので。またそこに荒井氏の手腕が発揮できると思うので。
posted by ohashi at 11:51| 演劇 | 更新情報をチェックする