「彼は世俗の逸楽に浸りきった教会を刷新し、使徒的清貧に立ち返らせることを期待されたが、教皇庁とフランス王国との関係を清算できず、さらに枢機卿ベネディット・カエターニに騙されて数か月で教皇を忌避、ベネディットが教皇ボニファティウス八世になった」(*1)
まるで参議院選挙から石破おろし、そして石破首相の辞任宣言に至る一連の騒動を彷彿とさせる出来事ではないか。
石破は、「石破らしさを失ってしまった」と考える日本国民は多いと思う。裏金問題に代表される自民党政治の金権体質を払拭・根絶するために、旧安倍派を中心とする守旧派と対決し、実態解明をして再発防止に努め、企業団体献金の禁止も実現していれば、「石破らしさ」も表に出て、政治とカネの問題で自民党、ひいては日本の政治も変わるという希望も生まれていたはずが、その見込みがないことは国民誰もが知るところとなり、自民党は、参院選の大敗をまねたことになる。
改革派の先鋒だった石破は、結局、党内融和を優先し、旧安部派に反撃することもなく、最終的に辞意を表明することになった。自民党内では石破は裏切り者だったかもしれないが、国民からみれば石破はある意味希望の星でもあったのに国民を裏切った。彼は二重の裏切り者になりさがった。
石破首相=教皇ケレスティヌス5世の退任に対する人々の落胆は大きかった。許しがたい変節とみなす人びともいよう。石破は国会内で少数与党でもあったが、自民党内でも少数派という、二重の少数与党でもあったのだから、やむをえないと感ずる人もいよう。
だが、許せないと怒ったのがダンテ・アリギエリである。石破首相に対してではない。退任した教皇ケレスティヌス5世に対してである。
『神曲』の地獄篇第三歌――ウェルギリウスとともに、かの有名な地獄門をくぐった詩人は、そこで呪われた亡者の群れに遭遇する。「死があれほど多くの人間を滅ぼしていたとは」(*2)というT.S.エリオットが『荒地』で引用した有名な一行のあと、そこに見覚えのある一人を発見する。
怯懦ゆえにかの致命的な拒否をした卑怯者だとわかった。
Poscia chʼio vʼebbi alcun riconosciuto,
vidi e conobbi lʼombra di colui
che fece per viltade il gran rifiuto.(58-60)
A few I recognized. And then I saw –
and knew beyond all doubt –the shadow of the one
who made, from cowardice, the great denial.
【原文も、英語訳も、ネットから適当に拾ってきたものなので権威というか厳密なものではない】
臆病=怯懦ゆえに、その任を全うしなかった卑怯者と、ダンテは石破首相のことを非難しているのである。言いえて妙ではないか。
ただしダンテは実名を出していないので、これが教皇ケレスティヌス五世のことか、石破首相のことかはっきりしない。まあ諸説ありというところか。
また教皇ケレスティヌス五世はダンテによって地獄門の近くで苦しみあえぐ亡者たちの群れに入れられているのだが、「このような者どもは死滅する望みも持てぬ。/その盲目の人生はあまりに下劣であるゆえ、/どこであれ他所への配流をうらやむ。//この者どもの名は地上に一片も残らず、/慈悲、また正義も一顧だにせぬ。/我らはこの者どものことは口にはせぬ。ただ眺めて過ぎればよい」と、ぼろくそに言われている。
そうした亡者の一人が、名を口にするも汚らわしい、歴史に名を残すこともない、石破首相いや教皇ケレスティヌ五世なのである。
だがここまでいうのは石破首相に対して無慈悲すぎる。むしろ反日組織である旧統一教会とも結託していた旧安部派の復讐攻勢の前に道半ばにして敗れた悲劇の主人公が石破首相かもしれない。その意味で彼は聖人あるいはヒーローと呼ばれるに値する。
事実、教皇ケレスティヌス五世は退任後、非業の死をとげるのだが、死後、1313年5月5日に聖人とされた。ケレスティヌス五世のかつての敵対勢力が追放されたという政治的理由もあったのだが、その裏金作りや企業献金を当然のこととする体質とは無縁の清廉潔白な姿勢が高く評価されたということでもあろう。
ならばダンテが、もしそれが教皇ケレスティヌス五世のことだとすれば、なぜそこまで毛嫌いしたのかというと、その後任となった教皇ボニファティウス八世こそが、何を隠そう、ダンテの文字通り天敵だったからである。
つまり教皇ケレスティヌス五世が5か月余りで退位しなかったら、ベネデット・カエターニ枢機卿が教皇ボニファティウス八世になることもなかった(事実、ケレスティヌス五世の退位は、カエターニ枢機卿の姦計によるものだった)。
そしてこのボニファティウス八世こそが、金権政治と裏金作りを復活させ、またその覇権主義によって、フィレンツェの政治に介入し、やがてダンテ・アルギエリをフィレンツェから永久追放するのである。ダンテにとって、これはどんなに憎んでも憎みたりない悪党であった。
ダンテは教皇ボニファティウス八世をどうしたのかというと、地獄に墜ちた教皇(逆さまに生き埋めにされ、燃やされている)ニコラウス三世に、次にくる堕教皇として名指しさせている(第19歌52~54行)。
ダンテが『地獄篇』を執筆の頃に、教皇ボニファティウス八世はすでに死んでいたが、その悪行は万人の知ることとなっていた。であればこそ、教皇ケレスティヌス五世の早すぎる退位は、悔やまれてならない。退位さえなければダンテも永久追放されなかった。教皇ケレスティヌス五世に八つ当たり的に怒りがむいたのもわからぬわけではない。
石破首相は列聖され、いつか旧安部派は……。
注1ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』原基昭訳、講談社学術文庫、2014, p.523 。『地獄篇」の引用はすべてこの翻訳を使わせていただいた。【なおこの引用ではフランス王国との関係が清算できないと述べられているが、ケレスティヌス五世は、ナポリ王の傀儡と呼ばれたくらいにナポリ王国との関係が深かったのだが、そのこととはべつにフランス王国とも問題を抱えていたということか。】
注2 同書p.59には「T・S・エリオットはここの一文【ママ】を『荒地』の最初に引用している」との訳注があるが、その一行は、『荒地』の最初から60行目くらいのところにある。それを「最初」というのが適切かどうか疑問が残る。
付録:ネット上の資料 wikipedia日本版
教皇ケレスティヌス5世
教皇登位
1292年4月4日に教皇ニコラウス4世が死去し、後継者の人選をめぐってコンクラーヴェ(教皇選挙会議)が開催されたものの、有力な枢機卿や諸侯や諸君主の思惑から紛糾して後継教皇の選出が出来ず、教皇が空位という事態が2年も続くことになる。1294年3月になってナポリ国王カルロ2世がコンクラーヴェが開催されているペルージャ(ウンブリア州ペルージャ県)に赴き、その場に会した枢機卿たちに4人の教皇候補を記したメモを示して後継選出を促したものの、長きにわたる紛糾に疲弊していたせいもあって、枢機卿は特に関心を示そうともしなかった。ところがカルロがペルージャを発った後にローマで暴行事件が起こり、そこに(コンクラーヴェに出席していなかった)枢機卿らが関わったことで殺人事件から暴動へとエスカレートする。
この事態を見てピエトロ・ダ・モローネは、ペルージャに出席していた枢機卿の一人に手紙を出し、すぐにでも教皇を選出しなければコンクラーヴェに会する者どもには必ずや神罰が下るであろうと警告した。手紙を受け取った枢機卿はコンクラーヴェにこの手紙を披露し、いっそピエトロ自身に教皇になってもらったらどうかと周囲に提案、それを受けてその場にいた全員がその案を支持した。この展開はピエトロ本人にも意外であり、そのために一時は教皇位の辞退を望んで修道院から退去しようとする[2]。だが、ナポリ王カルロに制止されて教皇に就任するよう懇願され、ハンガリー王のアンドラーシュ3世やリヨンの大司教の説得によって、ようやく教皇になることを承知して戴冠式をおこなった[2]。
教皇退位
ケレスティヌス自身、不本意な形での教皇での擁立であり、なおかつ政争の具として利用された格好でもあり、本人にとっては一種の災難であった。在位数か月にしてケレスティヌス5世は、自ら「教皇の器にあらず」と述べて退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のベネデット・カエターニ枢機卿に相談した。カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ケレスティヌスは自ら「教皇に選ばれた者は、選出を拒否する権利を持つ」という法令を出し、結局半年たらずで教皇を退位した。ここに、存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した。
ケレスティヌス5世は、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実際のところカエターニ自身が、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて毎晩のように声を聞かせた上に、教皇を不眠症と神経衰弱に追い込んだ張本人であったと言われている。インドロ・モンタネッリ『ルネサンスの歴史』でも、すべてカエターニ枢機卿の仕組んだことだとして一連のできごとを記述している。
ボニファティウス8世(Bonifatius VIII, 1235年頃 - 1303年10月11日)は、13世紀から14世紀にかけてのローマ教皇(在位:1294年 - 1303年)。フランス国王フィリップ4世およびコロンナ家と争い、最晩年に起こったアナーニ事件の直後に「憤死」した。学術・文化の保護者としても知られる。
