メディアでは、橋幸夫について、
橋さんは「潮来笠」「霧氷」など数多くのヒット曲で知られ、西郷輝彦さん、舟木一夫とともに昭和のエンターテインメント史に燦然と輝く「御三家」の1人として人気を集め、一時代を築いた。
とか
……遠藤さんからは「舟木一夫」という芸名を聞かされていたが、デビューが実現せず、幻に。ビクターの師匠・吉田さんが提案したのは、本名の「橋幸男」から一字変えた「橋幸夫」だった。/デビューから3年後の63年、タクシーの車中でラジオから流れてきたのは「高校三年生」だった。「コロムビアからデビューした舟木一夫さん」というアナウンスに、ハッとしたという。/「聞いたことある名前で大笑いしちゃったよ。『舟木一夫』でデビューしていたら、全く違った人生になっていただろうね」/舟木さんとはその後、「御三家」として一時代を築く。橋さんは、運命のいたずらを喜んでいた。
とか
「御三家」の中で最年長だった橋さんは1960年に「潮来笠」でデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。哀愁を帯びた独特の歌唱スタイルで、正統派の魅力を確立した。
というぐあいに、「御三家」として活躍したという記述が必ず入る。
だが私にとって、当時の御三家は、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦ではなくて、西郷輝彦・舟木一夫・三田明の三人だった。
私の記憶違いかもしれないが、西郷輝彦・舟木一夫・三田明を御三家とみるのは根拠のないことではない。
橋 幸夫1943年〈昭和18年〉5月3日 - 2025年〈令和7年〉9月4日)
1960年7月5日「潮来笠」でビクターレコードからデビュー
舟木一夫1944年〈昭和19年〉12月12日 - )
1963年6月5日「高校三年生」で日本コロムビアからデビュー
西郷輝彦1947年〈昭和22年〉2月5日 - 2022年〈令和4年〉2月20日)
1964年2月15日「君だけを」でクラウンレコードからデビュー
三田 明1947年〈昭和22年〉6月14日 - )
1963年10月10日「美しい十代」でビクターレコードからデビュー
【Wikipediaの「三田明」の記事では、「御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)に比べると後発のイメージがあるが、御三家に劣らず大健闘した。また当時、この3人に彼を加えて「(昭和アイドル)四天王」とも呼ばれた」とあるが、上記の一覧から、三田明のデビューは西郷輝彦よりも早いことがわかり、後発でもなんでもない。
三田明を御三家から外すのは勝手だが、結局「昭和アイドル四天王」(ただしこの言い方については私には記憶がない)として加えるのは、やはり何か理由があったのかもしれない。そもそも、「橋幸夫」はいい意味で別格なのである。】
この一覧でわかるのは橋と舟木(ともに戦中生まれ)が一歳ちがい、西郷と三田が戦後生まれの同年齢(学年齢でいうと西郷のほうが一つ上)となって、御三家から三田がはずれる理由がわからない。デビューも三田のほうが西郷よりも早い。
この4人がテレビの歌番組に出演していた頃、「御三家」と呼ばれていたかどうかわからないが、私の記憶では、西郷、舟木、三田が御三家だった。舟木は年齢的に橋に近いのだが、デビュー曲が「高校三年生」で、学生服で登場して歌うことが多かったので、年下の西郷のほうが年上にみえた。年齢的に西郷・舟木・三田だった。
上記の引用では「橋さんは「潮来笠」「霧氷」など数多くのヒット曲で知られ、西郷輝彦さん、舟木一夫とともに昭和のエンターテインメント史に燦然と輝く「御三家」の1人として人気を集め、一時代を築いた」とあるが、そんなことはない。橋幸夫は御三家の一人ではなく、つまりトリオの一人ではなく、あくまでも独自の存在として一時代を築いたという記憶がある。
そもそも橋幸夫は、西郷・舟木・三田の兄貴分、先輩格であり、完全に別格だった。いまからみると橋と舟木は一つ違いで年齢差はなかったが、舟木は「高校三年生」のイメージがあって、実年齢よりもかなり若くみえた。とにかく橋幸夫はこの舟木以下の三人と御三家になるのではなく、完全一歩先をいっていた。アイドル御三家のひとりではなく、ひとりの大スターだった。
橋幸夫と西郷・舟木・三田との違いはいくつかある。歌謡曲といってもジャンルがちがう。
橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」は股旅物【諸国を股にかけて旅をする博徒・渡世人・芸人などが旅の途中で遭遇するエピソードなどを描いた小説、演劇、講談・浪曲、映画等映像作品やそれらをモチーフとした楽曲のこと】の演歌であって、「潮来笠」を「いたこがさ」と読める若い人は、昭和大好きの博士ちゃんくらいだろう。むしろいま風に(いま風かどいうかわからないが)、旅するマーヴェリックといったほうがわかりやすいか。
実際、橋幸夫は合羽に三度笠という渡世人のかっこうで「潮来笠」を歌うことも多かった。橋はデビュー時、高校生。これに対してデビュー時、高校生の年齢をすぎていた舟木一夫が高校生の学生服で歌をうたっていたことからも、二人の売り出し方のコンセプトの違いがみえてくる。
橋幸夫に対し西郷・舟木・三田は、橋の浪花節演歌とは一線を画す、新しいポップな歌謡曲のイメージがあった。舟木の場合、「高校三年生」に代表される抒情歌謡というような独自路線も歩んでいたが、ポップな曲も多く、たとえば舟木の歌うテレビ版『銭形平次』の主題歌は、演歌でもありポップスでもあるような不思議な味わいのある曲だった。とにかくデビュー当時のイメージでは、橋は時代劇、西郷・舟木・三田は現代の青春劇・恋愛劇であって、繰り返すが橋と西郷・舟木・三田との間には誰もが一線を引いていたと思う。
また、そもそも顔が違う。橋幸夫の和風・時代劇風・浪花節風の顔は、西郷の洋風の彫りの深い顔、舟木の純情な若い男性アイドル顔、三田明の、三島由紀夫が昭和天皇よりも好きだったという同性愛者好みの美形アイドル顔とは、完全にちがっていた。歌も顔も、ジャンルがちがっていたのである。
橋幸夫のWikipediaの記事によると、「2000年あたりに「御三家」はG3Kと名乗り、ユニットとして活動したこともある。その時『水戸黄門』第29部から第32部にかけて他の「御三家」の面々と共にテーマソング「ああ人生に涙あり」も歌った」とある。このころから私自身、御三家は「西郷・舟木・三田」だったのだが、どうして三田が除かれ、橋が入っているのかと正直言って憤慨していた。
往年の大スターの橋幸夫をもう一度売り出そうと、西郷と舟木とともに、勝手に御三家をつくったのではないかと考えた。そうなると歴史修正主義そのものであって、ありもしない御三家を勝手につくるなとも思いたくなった。
これはまたG3Kが水戸黄門の主題歌を歌ったことも関係があるのかもしれない。橋のみならず。西郷も舟木も、このころまでに時代劇とのかかわりがでてくる(時代劇に出演したり、主題歌をうたったり)。「星のフラメンコ」の西郷輝彦は、このころには大時代劇スターになっていた。そのなかで三田明だけは、時代劇とは関係なかったので、G3Kからはじかれたのかもしれないと思ったりした――ただしこれは私の記憶違いで、三田明も時代劇にはよく出ていた(たとえば『長七郎江戸日記』の蕎麦屋)、だから時代劇出演とG3Kとの関係性はないのだろう。
まあ、いずれにせよ、御三家を「西郷・舟木・三田」だというのは、私の記憶違いだったかもしれない。「橋・舟木・西郷」が御三家として当時のテレビの歌番組などでもてはやされていたのかもしれない。のちのG3Kは、そのリヴァイヴァルであって、決して、歴史的に捏造されたものではなかったのだろう。また三田が排除されたのも、レコード会社の関係とか所属事務所の関係によるものでもなかったのだろう。
しかし、同時に、「西郷・舟木・三田」を御三家とみるのは私の勝手な思い込みでもないことだけは断言しておく。当時、橋幸夫は別格の大スターであり、「西郷・舟木・三田」の三人がアイドル的人気を誇ったのは事実である。この三人が同じ歌番組で歌うことはごくふつうのことだったし、そこに橋幸夫が入ってくることはなかった。この三人は御三家と呼ばれていなかったかもしれないが、イメージ的にはアイドル御三家であったことはまちがいない。私よりも年齢が上の後期高齢者の方々なら私の見解に同意されるものと思う。
