こんな浅薄なことを書いているネット記事があった:
原作の同名ゲームは主観で進行してゆくため、プレイヤーが“見ようと試みたもの”のみが画面に映し出されるという特徴がある。同様に、今作では迷える男の姿をカメラが追いながら、彼が“ヒントを見つけようとする”姿を映し出してゆく。基本的に地下通路は、同じデザインの通路が右や左に曲がりながら作られている。さほど差異がないため方向感覚も鈍ってくるのだが、やがて同じ通路を繰り返し歩いていることを悟った男性は、無限回廊に閉じ込められているのではないか? との疑念を抱くようになるのである。重要なのは、状況を明確にしないことで、観客に対しても道に迷っている感覚を訴求させている点。それによって迷える男性も観客も、脱出するための<謎>を解くべく数少ない情報に注視し始め、本来は受動的な芸術であるはずの“映画”なるものに対して、無意識のうちに能動的になってゆくという(ゲームに興じることと近似した)快感を導いているのである。
嘘をつくなバカヤローと言ってやりたいのだが、この映画はゲームを映画化して、ゲームの快感を、あるいはホラーを観客に伝えることなど二の次だということがわかる。もちろん挑戦的映像表現の試みはあるだろう。だが最終的には、この映画は迷路とは何か、迷路から出ることができなくなるのはどのような心的メカニズムが働いているのか、そこが重要になってくる。また映画がその内容を伝える最良の手段(つまり現在の観客に受けること、興収を上げることを考慮した手段)として、著名な迷路ゲームが選ばれたということだろう。
そしてこの迷路ゲームのプレーヤーとして特定の背景をもつ人物を選ぶことによって、今度は、迷路ゲームそのものに意味を与えることになった。その意味付けは、ゲーム好きにはどうでもいいことかもしれないが、逆に川村元気監督に人間ドラマとしての要素を期待する観客にとっては、著名なゲームを利用して主題を展開するその手腕に感嘆することになった。
実際、映画冒頭から、満員の地下鉄で通勤する若い男(二宮和也)が、別れた恋人(小松菜奈)から妊娠していま病院にいるという電話がかかってくる。その恋人は出産するか中絶するかを別れた恋人に尋ねようとしている。男は、煮え切らないというか要領を得ない回答をしているうちに、迷路に迷い込んで地下道から外に出られなくなる。
この展開は、どこかのバカが書いていた「本来は受動的な芸術であるはずの“映画”なるものに対して、無意識のうちに能動的になってゆくという(ゲームに興じることと近似した)快感を導いているのである」と言えるのか。観客のなかにいる男性は誰もが、この映画の二宮のように煮え切らなくて、自分が父親になることに抵抗があるものの、それを女に言えないどうしようもない、なさけない男というのだろうか。
なお映画のなかの若い男がなさけない男だと語っても、その人物を断罪しているのではない。そうではなくて、こういうキャラクターを出されてきては、ゲームに興じることと近似した快感を得るどころか、映画の内容、人物そのものに気が散ってしまい、ゲームどころではなくなるのである。
なかにはこんなコメントもあった:
……可もなく不可もなくという印象でした。/ゲームのシステムは分かりやすかったです。
異変も分かりやすくてその点は面白かったかなと思います。/心情のストーリーはありきたりでよくある流れだなと感じました。/カンヌ正式招待作品だったので期待しすぎてしまったかな。と感じました。
ここまで書かれるとゲームの部分はかなり迫力があったと反論したくなるのだが、主人公(実際には迷える若い男、歩く男、少年の三つの視点から描かれるのだが)の若い男をめぐる人情噺とゲームの世界は適合性がないかのように感ずるのはわからないわけではない。むしろ映画は「心情のストーリー」(もっとまともな言い方はなかったのか)を語る点において卓越していたと思う。
またなさけない男に対する断罪は、私たちがするのではなくて、ゲームそのものがやってくれる。実際、若い男が出られなくなる迷路は、この煮え切らなさに対する罰であるかのように思えてくる。彼が別れた彼女に明確に回答できるまで迷路からは逃れられないということは、観客誰もが予想することであり、その予想はあたっている。
なぜ迷路があるのか。男はなぜ出られないのか。それは若い男にとって、この迷路が罰であるからである。このゲームは、皮肉な言い方だが「罰ゲーム」なのである。
異変に気付いたら引き返すというのがゲームのルールなのだが、その異変(天変地異的なものまで含む)は、すべて若い男のこれまでの人生とつながっている。だとすれば、ゲームにおいて異変とは、ゲーム・クリエーター(上位の支配者)が仕掛けるものだが、この8番出口罰ゲームにおいては、ゲーム・プレーヤーが、自身の人生のなかで抑圧したか排除しトラウマになっている記憶を実体化させたともいえる。となると異変に気付けというのは、「汝自身を知れ」というメッセージであるし、異変に気付いたら引き返せというのは、「異変」を通して内省・回顧せよということである――自身の人生を。
つまりこの地下の通路/迷路は、彼の記憶の世界あるいは心象風景といってもいい。この出口なき通路は彼の出口なき内面なのである。したがってそこで出会う人物たちも、彼の人生と何らかの接点をもっている。
歩く男(河内大和)は、毎日ロボットのように通勤するサラリーマンの若い男の鏡像あるいは分身といってもいい。しかしそれだけではない。歩く男は、過去において若い男を見捨てた父親の幻影かもしれない。そして歩く男が中心となる第二章において、彼は少年とともにこの迷路を歩むのだが、最終的に少年を見捨てることになる。そうなると、河内は二宮を捨てた父親と同じような存在、あるいは父親そのものかもしれない。
少年を捨てた河内に対して、二宮は、あれはもう人間でなくなっていると言い放つのだが、その根拠は示されていないことがかえって河内が二宮の子捨ての父親である可能性が浮かび上がる。
だが歩く男は、二宮の分身でもあって、二宮もまた子供を捨てようとしていた(妊娠した元カノに中絶を暗にすすめているのではないか)、結局のところ、二宮が子供の父親になるのを躊躇しているのは、自分を捨てた(おそらく海浜、もしくは濁流のなか)父親のような存在に自分がなってしまうのではないかという不安あるいは恐怖のせいだとわかってくる。自分も父親のようなクズになってしまうと、生まれてくる自分の子供がかわいそうだという理屈である。
途中からあらわれる少年についても、同じことがいえる。少年は、父親に捨てられた二宮自身でもある。しかし少年は、やがて生まれてくる二宮の子供でもある。二宮自身でもあるとともに二宮の子供でもある少年。それは少年が、現在(二宮)と未来(息子)の両義的存在であるからであり、彼が二宮以上に異変に敏感に気づくのは、少年が未来からの使者であるからだ。少年は二宮を出口へと導くことのできる救済的人間であるとともに(自分の父親にお守りを手渡すのだし)、未来からやってきたので結末を知っているということもいえる。
【実は、この映画の設定は、父を探す息子であり、また息子を探す父という、父と息子にかかわるテーマともつながっている。映画では自分、父親、息子の三人が登場する。息子を探す父親と父親を捜す息子のテーマは、有名なところでは、たとえばシェイクスピアの『間違いの喜劇』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』がある。ただ、これについては、いずれ語ろうと思う。】
若い男とこの少年とのかかわりは若い男を決定的に変えることになる。濁流に飲み込まれるという異変において、若い男は、自分を犠牲にして少年を助ける。ここには二重の意味がある。おそらく若い男の父親も、そのようにして自己を犠牲にして息子を助けて死んだのであって、若い男を見捨てたわけではなかった。少年を見捨てた歩く男(河内大和)は、若い男がいなくなった父親に投影した悪人像でもあったのだ。父親の自己犠牲を知った若い男は、今度は父親となって、自分の息子を助けるのである。それはまた元カノの妊娠と出産を祝福することでもあった。幻想なのかで、若い男とは、元カノとその幼い息子と海辺で戯れる。若い男は生まれてきた息子をおそるおそるかわいがる。濁流による溺死が海辺の親子の水遊びに昇華されたのである。
ちなみに、若い男が喘息持ちであるということは、演ずる二宮和也のアイデアで台本に付加されたとのこと。主人公に、喘息持ちという負荷をかけることで、緊迫感を増すことにしたという記事があったが、理由はそれだけではないだろう。若い男は、終始、濁流/記憶のなかで溺れかかっている、窒息寸前なのである。父親が濁流のなかで自分を見捨てたというトラウマのなかで溺死しそうになっていた若い男は、濁流のなかで自分を助けてくれたのだと悟ることで、窒息/トラウマから解放される。事実、喘息持ちの設定は映画の終わり近くになると消滅しているのである
映画のなか、この迷路のなかで若い男が出会う人たちは、彼の人生のなかでなんからの意味をもった人たちであったが、同時に、全員、彼自身の分身あるいは彼自身でもあった。この迷路のなかで彼は、自分と出逢っている――抑圧してきた、あるいは逃げてきた、あるいは怒りをぶつけてきた、自分自身と出逢っている。そして自分自身と和解すると同時に、彼の人生でかかわりあってきた人びととも和解する。
まさにこの8番出口へと向かう迷路は、彼にとっても罰ゲームであり、同時に、彼を人生と和解させる救済の無限回廊でもあった。
付記:
1映画としてみると、俳優が思いのほか素晴らしくて圧倒された。二宮和也の演技力は折り紙付きだし、河内大和のそれは、不気味さと人間らしさとのスイッチの切り替わりが見事で、あらためてその演技力に感嘆した。小松菜奈は、残念ながら役柄上、あまり見せ場がなくて、残念だったが、花瀬琴音、出番は少なくて不気味な役どころだったが、存在感があって惚れた。実は、以前、なにか映画でみたことがあると思っていたが、どこだか思い出せなかった(ドラマでは、「どこかで会った記憶があるがどこか思い出せない」という人物によくおめにかかるが、そういうとき、筋に関係する重要なことに決まっているから、じらさなくて、早く思い出せ、このバカヤローと心のなかで叫んでいるのだが、同じ叫びを自分自身に対して発することになった)。あとで調べたら『遠いところ』(23)の主人公。あの沖縄のリアルを描いた映画(このブログでも過去に絶賛している)の主人公だったとは。『九龍ジェネリックロマンス』を観に行くことにした。
2迷路のなかの異変として、電灯が消えて真っ暗になり、そこに不気味な生物がうごめくという、さすがに観ていて気味の悪さに声を出しそうになったのだが、あの超不気味な生物(腹に人間の耳が埋め込まれたりしていた)は、実は若い男が地下鉄のなかで観ていたネット記事に登場していた。この8番出口への連なる迷路は、ネットの世界という迷路でもあった。ネットは出口なき迷路なのだということかと、思わず、拍手しそうになった。
と同時に、ネット記事でみたものが自分の経験のなかにしまい込まれ、それが恐怖のイメージとして登場するというのは、この8出口迷路は、主人公の夢の世界だともいえる。昼間みた強烈なイメージが記憶に残り、夢のなかに出てくる。実際、この映画全体、迷路ゲームそのものが主人公のみた夢の世界という解釈もできる。悪夢の世界の彷徨の何が楽しいのか(ゲームとして)と思うのだが、その恐怖はどこか喜びでもあって、たえずそこに立ち返る。それが出口なき迷路ゲームの醍醐味なのかもしれない。
