2025年08月26日

『メルト』

先に『ルノワール』についての記事で、少女物というのが映画における伝統的発明であると語った。最近、CSで小沼勝監督の『NAGISA』(2000)を放映していて、これが『ルノワール』のインスピレーション源かと納得した。もちろんインスピレーション源はそれだけではないとしても、それが放送されたということは、映画『ルノワール』を意識してのことだろうから、まったく無関係ということはないだろう。

恥ずかしながら、この映画は初めてみる映画で、少女物の映画として並々ならぬ興味をもってみた。Wikipediaはこんなふうに内容を紹介している:
1960年代。舞台は江の島。なぎさは、居酒屋を営む母とふたりで暮らす12歳の女の子。漁師の父を4年前に亡くしているが青春まっただ中で元気満開。その年の夏休みは生涯忘れられない夏休みになる。/なぎさが海の家でバイトを始めたのはレコードプレーヤーを手に入れるため。海の家を経営する叔母の不良娘・麗子に影響されてパーマをかけたり、麗子の彼氏とアメ車でダンスパーティーに行ったり、東京から帰省中の金持ちの美少女・真美に意地悪をされたり、東京から来た病弱な少年・洋と出会ったり、毎日が様々な出来事満載。砂浜への漂着物を拾うのが趣味の洋に泳ぎを教えているうちに生じる恋心、そして初キス。でもその洋は溺死してしまう。/いろんなことがあった夏の終わり。レコードプレーヤーを手にしたなぎさは、少し大人になっていた。

たしかに湘南を舞台にしているのだけれども、今とは違ってさびれた観光地みたいな湘南海岸にはちょっと驚くのだが(2000年の作品とは思えない、映画の設定である1960年代に制作された映画にみえる)、少女の夏休みの経験を描くこの作品は、まさに『エトワール』の原型ともいえる。『エトワール』のほうは、『NAGISA』の主人公に、少女らしさ(子供らしい冷酷さと大胆さと)を加えて、さらにあくどい作品となっている。なおWikipedia の説明の最後にある「少し大人になっていた」は、物語上そうみえるが、成長はしていない。成長はしていないからこそ、『NAGISA』は少女物映画の古典的作品ともいえるのだ。

ただし『ルノワール』とその系譜的作品だけが少女物の映画ではない。たとえばいまもなお上映中の映画『メルト』(2023)は、『ルノワール』や『NAGISA』とは大いに趣が異なるように思われるのだが、しかし、まぎれもなく少女物の映画である。それはなぜか。

予備知識なく、この映画をみたので、映画の最後のほうになってはじめてタイトルの『メルト』が「溶ける」を意味する英語なのだとわかった。だが、なぜ英語なのか。そもそも、原題はなにか。リゼ・スピット原作のタイトルHet Smelt(オランダ語)を映画のタイトルにも使っている。このタイトルは英語だとThe Meltingという意味らしい。ちなみにこの映画の英語タイトルはWhen It Meltsである。

映画は13歳の少女の過去と10年後の23歳になった若い女性のふたつの現実を交錯させて提示しながら、10年前に起こったことを徐々に明らかにしてゆく。23歳の彼女がなぜかたくなに心を閉ざし親の世代を目の敵にしているのか。彼女にとって友人(おそらくはレズビアンの恋人)がその友人の両親と仲良くすることすら許さないのはなぜか。そして現在の彼女が大きな氷の塊を車に積み込んで移動しているのはなぜんか。

10年前の出来事に少しずつ光を当てながら、なぜ10年後の彼女がこうなったかが解明されてゆく。その出来事はある意味、驚愕的な出来事で、心身ともに彼女を深く傷つけたことが最後にわかる。

映画を観ながら特殊性と普遍性の交錯に巻き込まれた。子供というのは、どれほど無垢であどけないものであっても、一皮むけば、冷酷で自己中心的で欲望丸出しのミニ怪物であるとはいえる(残酷な普遍性)。しかし私の子供時代は、私も周囲の子供たちも、ひどいところは多々あったが、幸いにも、ここまでひどいことはなかった。その意味でこの映画のやや常軌を逸した特殊な世界においては、無垢な子供は傷つかずにいられない。彼女の深い心の傷は同情に値するが、環境が悪かったせいかもしれない(異様な特殊性)。

とはいえこの映画の世界は超自然的な驚天動地の異様な事件が起こるような、悪魔に支配され暗黒世界ではなく、ベルギーの地方都市の何気ない日常的世界である。そんな平凡な日常のなかに隠蔽された犯罪がこの映画のテーマである。となると、この一見、異様な、不幸な出来事も、実は、表面化しないで、常時発生しているのではないか。いやそれだけではない。誰もが、この少女が経験したような苦難を経て成長しているのではないか。一見、異様な特殊な事件を描いているかのようで、その実、どこにでもある、誰もが体験している、苦難を描いているのではないか。なるほど、それはトラウマになるほどの悲惨な体験である。だが、程度こそ異なれ、誰もがトラウマを抱えている。そのトラウマを抱えながら、誰もが大人になった。これは大人になるために、誰もが受け入れる通過儀礼なではないのか。

実際、この少女にも加害性はある。悪しき意図はなく、あくまでも無垢な、善意によるものであっても、残念ながら彼女の行為は犯罪といえるものでもあった。自身の加害性を認識しながら、同時に、被害者としての苦しみにも耐えること、それが少女を大人にする。私たちは程度こそ異なれ、そのようにして大人になったのではないか。そう考えると、この映画は世の習いを、隠れた現実だが誰もが容認せざるをえない暗黒面――つまり隠れた世の習い――を知らしめる真実を開示する映画であり、さらには、そのような悪――世の習い――が人間を成長させるという、〈弁神論〉的主張をしているように思われる。

この映画を、少女物映画の典型としているのは、主人公の少女が、そうした偽善なり詭弁をいっさい認めないことである。

すでに触れたことだが、この映画のなかで彼女は大人たちを絶対に許そうとしない。彼女の女友達が両親と仲良くすることに対しても不快感を抱くくらいに、彼女は親の世代を嫌悪しているのは、彼女自身の両親が、とりわけ母親が、クズだったからである。もし誰もがトラウマを抱え、苦しみに耐えながら、それゆえに人間的な深みと重みのある、まさに「大人」になったとするのなら、彼女の実の母親は、わがままな子供のままのアルコール依存者であり、娘としての彼女は親からの精神的・身体的暴力に耐えるほかはない。だが彼女の妹は、そのような母親に苦しめられながらも、すべてを許すか封印して成人したかのようにみえる。だが、妹と異なり、彼女自身は、この母親を絶対に許さない。絶対に成長しない。

食肉店を営む女性は、親から冷遇されるこの少女をかわいがり、あなたのような娘が欲しかったとまでいってのける、慈愛にみちた母親のような存在である。しかし事件が起こり、それが身内の息子にもかかわることと知ると、この食肉店の店主は、彼女のことを冷たく見放す。事件が起こることで、露呈する大人たちの事なかれ主義と身内ファースト主義の愚行。心優しき慈母の裏切りなればこそ、彼女の復讐心は、自分の母親に対する以上に燃え上がる。実際、彼女の復讐の場は、この食肉店の倉庫なのである。

10年後になっても、彼女はガールフレンドはいてもボーイフレンドはいないまま、独身を貫き、誰のものにもならない、永遠の少女として生きている。彼女は成長しない。成長を拒んでいる。不当な扱いを受けても、忍耐と諦念によって加害者たち(社会も含む)を容認することが成長であると洗脳されて大人になるようなことは絶対にしない。屈辱を受け入れることが人間的成長の証しであると信じ、不正を隠蔽するだけでなく、不正を擁護する共同体の一員と化している「大人」たち――彼らに復讐するために、彼女は「大人」にならない。成長を拒否するのである。

この意味で彼女は、傷つき失われた無垢と人生の回復を要求する少女革命戦士である。彼女のあとに、声を奪われ犠牲者となった多くの少女たちがつづくだろう。やがて、その列の最後尾には、少女たちだけでなく、女性の大人たちも、そして男性たちも加わるだろう。とりわけ男性たちは自らの加害性を認識しそれに恥じ入り自身を断罪しつつ、また自身もまた少女たちと同じように凌辱され屈辱的なめにあわされ人生を奪われたことを告白し社会を共同体を断罪することになろう。

ただ、それにしても映画のなかでの氷を使った自殺方法は、およそ現実的ではない【10年前の凶行の証拠である血の付いた衣類を彼女が隠し持っていたこともまた現実的ではないのだが】。氷の上で足が滑るということはないようだが、しかし、どう考えても、その方法は、理論上の仮設、理論的に可能であっても、実践あるいは実現は不可能だと思われる。となると、それはアレゴリカルな、あるいは象徴的な意味で用意された設定とみるべきか。

まあ、そうなのだろうが、しかし、もし可能だとすれば、それは当人にまったく生きる意志がないか、すでに当人が死んでいるときであろう(1時間以上かけて首が徐々に絞められることに耐えられる人間はいない)。そう、あの自殺方法は、生きている人間には無理である。彼女は生きる意志がない。たとえ生きていても、すでに死んでいるのである。ならば氷の自殺も可能だろう。となれば彼女は事件があった時点で死んだのである。死後硬直が全身に広がるまでに10年かかったというべきか。あどけなき、無垢な少女は10年前に死んだ。彼女は、多くの少女たちのようにゾンビとなること、大人=ゾンビになることを拒んだのだった。
posted by ohashi at 23:34| 映画 | 更新情報をチェックする