ギャレス・エドワーズ監督らしさが出ているのかどうか気になった。というのもエドワーズ監督は、企画が始動してから、監督として指名された、いうなれば雇われ監督であったからだ。結論からいえば、監督らしさは出ていたが、同時に、さまざま制約から、監督のオリジナリティを全開させることはできなかったようだ。またそれ以前に、この作品はエンターテインメントに全フリすることを求められていた。むしろ、そんななかで監督らしさをかろうじて保つこともできたともいえる。
この映画が、『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』(2022)の続編であることも、制約のひとつに数えることができる。ただし前作から5年後の世界では、恐竜たちは新たな支配者になるどころか、環境になじめず死滅への途をたどり、熱帯地方の大西洋上の孤島で繁殖しその生を永らえているにすぎないため、前作と物語上の緊密な連携はないが、前作のフォーマットには従っているように思われる。巨大企業による恐竜の利用とそれを阻止する側との熾烈な争いとか、巨大企業の責任者が恐竜に食べられるとか、ふたつのグループがそれぞれのルートを経て再会するという展開など。
脚本は、最初の2作『ジュラシック・パーク』(1993)と『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』(1997)の脚本を手掛けたデヴィッド・コープが担当した。また『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』(2022)の脚本も無名で手掛けたとのことで、前作との連続性、そしてまたジュラシック・パークとの連続性が生まれるものと期待されていた。そのぶんエドワーズ監督らしさは弱まった。
また『ジュラシック・パーク』への原点回帰のようなところもあって、第一作の監督だったスピルヴァーグの存在が、あらためて意識されるようになった。今回はエグゼックティヴ・プロデューサーに名を連ねているスピルヴァーグが、デヴィッド・コープに脚本を依頼したところから、映画プロジェクトは始動したこともあり、映画のなかの随所に第一作へのオマージュめいた映像がてんこもりになると予想された(実際には、それほどでもなかったのだが)。またデヴィッド・コープはマイケル・クライトンの原作に立ち戻って脚本を書き、スナック菓子の包み紙の不始末から大惨事が起こるというのは、クライトンの原作にある設定らしい。さらにティラノザウルスが川のなかで追いかけてくるという場面も、クライトンの原作にあるとのこと。
ここまで確認すると、この原点回帰の趨勢は、監督のオリジナリティを奪うばかりではないかと心配になるかもしれない。だが、そのようなことはない。たとえばジュラシック・パーク・シリーズやジュラシック・ワールド・シリーズでお約束でもあった、千両役者のティラノザウルス・レックスが最後に登場して暴れ大見得を切ったり咆哮したりするというシーンは今回はない。お約束にどこまでも忠実というわけではない。
実際、映画の終わりのほうに出てくる、ミュータントの恐竜ディストータス・レックスDistortus rexは、「監督のギャレス・エドワーズによると、デザインはティラノサウルスに、彼がインスピレーションを受けた、映画『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』に登場したランコアと、映画『エイリアン』のゼノモーフ XX121をベースにしているという」とWikipediaに述べられているが(実際、Vanity Fairの記事も確認したが)、大雑把すぎて意味をなさない。このDレックスは、たとえば『クローバーフィールド』(Cloverfield, 2008)の最後に登場する怪獣に似ている。そしてなによりよく似ているのは、エドワーズ監督の『GODZILLA』(2014)に登場する、ムートー(Muto)であろう。
実際、思い出すところが適切ならば、この映画は、監督らしさを発見できる。
この映画は、秘密工作員のゾーラ・ベネット/スカーレット・ヨハンソンが、遺伝子研究の製薬会社に雇われ、古生物学者と傭兵の隊長/船長らとともに遂行するのが、新たな心臓薬を作成するために、「ティタノサウルス、ケツァルコアトルス、モササウルス」という陸・海・空の恐竜からDNAサンプルを回収することである。極秘任務というとなにやらものものしいが、主人公(たち)が経験し克服し達成する三つの試練・課題・使命・任務などと考えると、これはもうおとぎ話や昔話において定番となっているプロットである(そもそも3はマジカルナンバーまたイエス・キリストの三つの試練というものもある)。
そしてこのフェアリーテイル的設定は、ジュラシック・パーク・フランチャイズでは珍しいのではないか(たとえどんな物語でも、任務(目標)と達成(成果)は重要な構成要素なのだが。今回はそれが前面に出てくる)。
そしてこの課題・任務・試練を担って、恐竜たちの本拠地(恐竜しかいない)に侵入するチームという物語設定は、戦争映画に近い世界である。そう、戦争映画のお約束として、まさに物語は敵中突破形式となる。
とここで思い出すのは、ギャレス・エドワーズ監督作品で、〈スター・ウォーズ〉のスピンオフ作品の中で最高傑作という評価を得ている『ローグ・ワン』(2016)である。これもある意味、敵中突破の戦争映画であって、帝国の超兵器デス・スターの弱点がわかる設計図を奪い反乱軍に届けるという任務を帯びたローグ・ワン・チームの決死の戦いは、『ジュラシック・ワールド 復活の大地』の物語と重なる部分がある。
そしてこれがエドワーズ監督とスピルヴァーグ監督をさらに強力に結びつける映画的絆を形成する。『ローグ・ワン』では、使命を帯びたチームが最後には全滅する。全滅するが、デス・スターの設計図を反乱軍のレイア姫に送りとどけることができた。大きな犠牲を払って達成された任務。それはもうひとつの戦争映画、スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』(1998)を髣髴とさせる。【なお『ローグ・ワン』は、女性がチームのリーダーである点、『ジュラシック・ワールド 復活の大地』と似ている】
『プライベート・ライアン』では、出征した4人の息子のうち3人の息子が戦死した家族のもとに、行方不明の末子ライアンを探して送り届けるという任務を帯びたミラー大尉の中隊(6人(数え方にもよるが)なので規模としては分隊――なお『ローグ・ワン』における設計図奪還チームも6人)がノルマンディー上陸作戦直後のフランスでドイツ軍と戦いながらついにライアンを発見する。ライアンが所属する空挺部隊は、内陸部(つまり敵中)に降下したため、以後、敵中突破の戦闘が繰り広げられる。ドイツの武装親衛隊に包囲される空挺部隊ならびに中隊は、激戦の末にライアンを生きて本国に届ける任務を達成するが、中隊は中隊長をはじめそのほとんどが戦死する。
『ローグ・ワン』と『プライベート・ライアン』は似ている。ともに任務は達成するが、チームは全滅する、もしくは全滅に近い終わり方をする。それに比べれば『ジュラシック・ワールド 復活の大地』では、チームは全滅を免れ、任務を無事達成するために、悲劇性は薄く、課題達成のフェアリー・テイル、フォーク・テイル的様相が前面に出ることになった。
ただそれでも『ジュラシック・ワールド 復活の大地』の観客は、任務を帯びたチームのメンバーがけっこう簡単に死ぬという印象を受けたかもしれない。この映画には、エドワーズ監督の『ローグ・ワン』あるいはスピルヴァーグ監督の『プライベート・ライアン』になっておかしくない要素が確実にある。そう、この映画も、チーム全員が全滅すれば、ジュラシック・パーク・フランチャイズのなかでの最高傑作という評価は得たかもしれない。まあ、みんな死ねばよかったのにというのが、私の偽らざる感想なのだが【ちなみにチームの船長だったダンカン/マハーシャラ・アリがみずからおとりとなって他のメンバーを救うという場面は、彼の死を予想させて悲劇性が一挙に高まるところだったが、安心してください、生きてますという展開だった】、しかし全滅・玉砕というのは、無理だということも承知している。
というのも、この映画では恐竜たちは決して悪者でも悪の存在でもない。予告編ではスカーレット・ヨハンソンが銃を構えているのだが、そんな銃で恐竜をしとめることができるのかとつっこみを入れたくなるその映像は、それでも、人間が恐竜を狩ることを連想させるものだった。しかし映画はそうではなかった。この映画では人間は恐竜を殺さない――恐竜に食い殺されることはあっても。実際、スカーレット・ヨハンソンが構える銃は、恐竜を殺すためのものではなかった。恐竜は人間の敵ではなく、人間はたとえ食われても、敵に殺されたわけではなかった。むしろ、恐竜に食われることは事故死に近い(あるいは恐竜の縄張りを犯す侵略者として罰を受けたともいえる)。そのためいくら恐竜に食われても悲劇性は増さない。悪辣な敵を前にして自らを犠牲にして使命をやり遂げるという悲劇性は、今回の映画では生まれにくいのである。
生まれにくいのだが、それでもメンバーの内何人かの死(犠牲者、死者の存在)は、ミッションの意義を左右した。製薬会社に雇われ任務達成しか頭にないゾーラ/スカーレット・ヨハンソンも、古生物学者ルーミス博士/ジョナサン・ベイリーに諭されて、恐竜のDNAを無償で提供して全人類のために役立てることを決意するのだが、その決意を後押しするのが、チーム・メンバーの死であろう。貴重な設計図のデータを送信するために全滅していったローグ・ワン・チーム。将軍ではなく一兵卒(プライベート)を本国に送り届けるために全滅した中隊(『プライベート・ライアン』)。ミッションの成否は、死んでいった者たちに対し、生き残った者が、自己を正当化できるかどうかにかかっている。究極の正義の問題といってもいい。
生き残った私たち(戦時とか戦争直後でなくても、誰もが生き残りである)が、過去を忘れ、死者を弔うこともせず、享楽的な生活を営んでいるとしても、それは死者にとってはどうでもいいことだろう。むしろ生き残った者たちが幸福になることは死者の望みでもある(もちろん非業の死をとげた者たちが幸福な生者を呪うということもあるにせよ)。死者に申し開きがたつのはどんな時か。
それを決めるのは難しいことであり、私たち自身がそれぞれ考えるしかないことだとは思うのだが、戦後80年の現在、私たちが全世界で行なっていることは、およそ死者に申し開きがたつようなことではない。いやさらにもっとおぞましいのは、戦争を起こし、ジェノサイドをやってのける勢力が、彼らの自身にとっての死者とその犠牲を無駄にず、死者を喜ばすことを口実にしていることであろう。
『プライベート・ライアン』でミラー大尉/トム・ハンクスは、死に際に、ライアンにむかって‘earn this. . . earn it’と言い残す。のちにライアンは、このことを‘earn these sacrifices’とも言いかえているので、「死を、犠牲を、無駄にするな」くらいの意味だろうが【作中では、さらにこのことにつながる、なにか深いあるいは冗談めいたやりとりがあったような気がするが忘れた】、おそらくそれだけではないだろう。
それはなにか。死者・犠牲者のために、正しい人生を送ることが、死者に対する申し開きではないのか。ならば死者にとって、死者が望む正しさとは何か。死者を前にして申し開きをする、死者の目で生者を判断する、おそらくそれが倫理的思考のはじまりなのかもしれない。
『ジュラシック・ワールド 復活の大地』は、思い出す方向をまちがえなければというのはいいすぎかもしれないが、思い出す方向によっては、これほど、戦後80年にふさわしい問題提起をする作品はないように、思われる。
2025年08月15日
『ジュラシックワールド 復活の大地』
posted by ohashi at 16:09| 映画
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