いまでは岩波文庫で簡単に読める『美しい夏』だが、私がたまたま読んだのは『集英社版 世界の文学14 パヴェーゼ』(1976)で、岩波文庫と同じ河島英昭訳。同じ訳者のブリリアントな解説が印象的であり、今回、映画版の公開にあわせて読み直した際にも大いに参考になった。
小説は三人称の語りだが、実質的には裁縫工場で働くジーナという17歳の少女の視点から描かれ、彼女の一人称小説といってもよく、彼女の夜勤の兄との二人暮らし、まだ同世代の若い男女とのつきあい、そして絵画のモデルで稼いでいる20歳のアメーリアとの出会いと、アメ―リアを通して知ることになる若い二人の男性画家との恋愛が、ある意味淡々と、またある意味ジーナという少女の成長過程と繊細な心の動きを通して、描かれる。
重要なのは年上のアメーリアとの出会いであって、彼女は、20歳と、ジーナの3歳年上だが、ジーナにとっては人生経験(男性経験)豊富な成熟した30代くらいに感じられる女性のように思われる。その彼女にジーナは惹かれる、彼女のようになりたいと、いうなれば背伸びをするジーナの行動が物語の中心となる。ただ、アメーリアも、好奇心旺盛で、背伸びをしたがるがまだ幼い少女のようなジーナに、過去の自分自身を投影して惹かれているようなところがある。
私が読んだ文学全集の解説では、ジーナとアメーリア、要は、この二人は鏡像関係にあるということだった(鏡像関係という言葉は使っていないのだが)。ジーナにとってアメ―リアは、未来の、そうなれたらいいと思う、自分の姿である。彼女のようになりたいと、ジーナはアメ―リアと想像的関係(imaginary relationship)を結び、さらに想像的一体化(imaginary identification)へとすすむ。そのためになんでもアメ―リアと同じでなければ気が済まなくなる。
たとえば、幼い妹や弟が、年上の姉や兄と同じ扱いをされないことに腹を立て、親に文句をいうことは、ふつうにおこる。なぜ、少し遅く生まれてきただけで、兄や姉とは異なる扱いを受けるのか、と。実際には、親は、あとから生まれてきたほうに注力するから、兄や姉はなおざりにされることがあり、そのため兄や姉のほうが、妹や弟に嫉妬することもある。だだし、妹や弟は、歳の差だから仕方がない扱いの違いをあきらめるのだが、年齢を重ねても忘れ去られることはなく、それが年長者へのあこがれのなかにも顔を出す。
これを背伸び(その一)は、10代前の子供に特有のと考えてもいい。
10代の若者になれば、姉や兄との待遇差に腹をたてることはなくなるが、そのかわりかどうかわからないが、年長者に対するあこがれが生まれる。同性の年長者(兄とか姉とか、学校の先輩など)のなかに理想的な自画像をみつける(つまり将来の自分がなりたい、あるいはなれそうな自分の姿をみる)。ラカン的鏡像段階における鏡像(未来の理想的な自己像)との想像的関係が生まれる。年長者を模倣し、少しでも年長者に近づこうとする。時には、年長者を凌駕して自分がマウントしようとする。これが小説『美しい夏』における17歳のジーノが20歳のアメーリアに抱く、あこがれの感情(想像的一体化)であり、やがてそこから憎悪(想像的闘争)にもかわる感情が生まれる――姉や兄と同等の扱いを要求して駄々をこねる子供が顔を出す。
10代の背伸び(その二)は、年長者に対するあこがれと嫉妬と考えてもいい。その起源あるいは原型は、背伸びその一にあるとみることもできる。
ジーナとアメーリアの関係の場合、年齢差、経験差によってジーナはアメ―リアとの想像的一体化が拒まれる。そのためフラストレーションに陥るジーナは、想像的一体化に満足するのではなく、つまり自分の理想像であるアメーリアと同じになることにあこがれるだけでは満足できず、アメーリアにとってかわろうとする。そのため、ジーナは、アメーリアのかつての恋人だったらしい画家との関係を強化する。ジーナが画家との仲を深める過程と、アメーリアが梅毒を罹患する過程は軌を一にしている。まるで、ジーナが恋人の男性と結ばれることが、アメーリアへの勝利でもあるかのように、そう、アメーリアにとってかわったかのように。いっぽう、アメーリアは敗北したかのように、衰弱してゆく。ジーナがアメーリアを凌駕しつつあるという心的過程の幻想化かもしれないという可能性を残しつつ。
ジーナとアメーリアの想像的一体化と想像的葛藤。愛と憎しみといってもいいのだが、その行き着く果ては、ジーナの苦い悔恨である。結局、ジーナは、むりに背伸びをしていただけで、アメ―リアにはなれなかった――年齢差はともかく、経験差はともかく、おそらく容姿の差によって、あるいは性的な魅力によってアメーリアには並べなかった。田舎者で容姿も劣るジーナは都会的で経験豊かで美貌のアメーリアにはなれない。
だが、それはまた究極的には自己発見にいたる途でもある。なぜなら好ましい自分の未来像と一体化はできないとわかったとき、ただ自分でしかない自分を発見することになるのであり、それによって、他者にふりまわされない自分を獲得することになる。
ところがこれが中途半端なかたちで、自分の理想像と一体化してしまうと(まあ想像的一体化という錯誤によって)、そこに自分の自我が生まれ、自分の理想的自我を築きあげてしまい、自身を世界の王様・女王様と思い込む、自己中な自分が出来上がる。だが、気づくと、そこから、平凡な、紋切り型の、女性像へと自分を落とし込む途についている――平凡な主婦なったり、アメーリアのようにファム・ファタール的な女王様になるとしても、いずれも決められた路線に従うことになる(ラカン的ないいまわしをすれば、他者の領域、つまり象徴界にとりこまれることになる)。鏡像という他者に魂を奪われた私はいつしか社会的存在と社会的役割という他者に吸収される象徴界の住人になるのである。
性的欲望の成長のなかに、この鏡像段階とか想像的一体化を考えてみると、私が異性愛者になる過程で、自己自身へのナルシシズムあるいは同性との一体化を経るということがわかる。したがって、同性との同一化は、不可欠で、これは同性愛とは異なる。【なお小説におけるナルシシズムは、ジーナを愛するアメーリアというかたちで顕在化する。アメーリアにとって、ジーナは、過去の自分、まだ無垢で未経験で、そうであるがゆえにいとおしい自分そのものでもあったのだから。】
そもそも異性愛というのは、たとえば男である私が、ほかの男性(同年齢の仲間、年長者、父親やその世代の男性など)と同じように、女性のパートナーを持ちたいと思ったとき、私は異性愛者となる。私は同性と同一化することによって異性愛者となる。これが基本的条件である。あなたが女性なら、ほかの女性と同じように、男の恋人をもちたい、男とセックスがしたいと思えば、あなたはりっぱな異性愛者である。【では、同性愛者はどうなのかというと、異性と一体化・同一化したいと願うのが同性愛者である。私が男だとして、ほかの女性のようになって、女性と同一化して、男に抱かれたいと思ったら、私はりっぱな同性愛者である。異性と一体化するのが同性愛者、同性と一体化するのが異性愛者である。】
小説『美しい夏』のなかで、ジーナが、アメーリアにあこがれ、アメーリアと同一化したいと望むとき、彼女はレズビアンではなく、女性の異性愛者として「正常な」道を歩んでいることになる。やがて彼女が真の男性パートナーを得るときに通らねばならない苦い青春の道あるいは青春の悔恨。それが『美しい夏』が描いている世界の若い女性の青春である……。
ただし『美しい夏』では、それ以外のことも起こっている。そのような誰もが通う道をノスタルジックに描く小説というのは、この小説の時代とのかかわりによって強化されたともいえる。舞台は1940年頃であり、戦争前もしくは戦中のファシズムがイタリアを支配していた頃の話であり、その頃に執筆された小説は、まさに、いまとここを描く、同時代小説であり、ノスタルジアとは無縁であった。しかし刊行されたのは、戦後である。他の作品とあわせて、短編中編集のなかの一作品として、また表題作として1949年に刊行されたこの『美しい夏』は、戦前の世界(ひょっとしたら失われた世界)を描くノスタルジーにあふれた作品として受け止められたのかもしれない。
おそらくイタリアがファシズムに苦しんでいた時期の、楽しくもあり、はかなかくもあり、そして苦くもあり、甘くもある思い出を描くノスタルジックな作品は、書かれた当初は、表立ってファシズム批判はないとしても、現実批判をこめた、リアルな作品で、あまいノスタルジーとは無縁だったはずだ。
また『美しい夏』に描かれているのも二人の女性の出逢いだけではない。最初に書いたように、三人称小説だが、ジーナの視点で描かれた一人称小説でもあり、それゆえジーナという未熟な女性の視点からは見えないあるいはこぼれたしまった真実があるのではと思えてしまう。
たとえばジーナと同居している兄との関係は、それ自体何かを疑わせるようなものではないが、アメーリアはジーナの兄のことを意識しているように思われる。実際、その兄とアメーリアが深い関係になるのではと私は当初予想していた。そのようなことはなかったのだがアメーリアとジーナの兄とは、小説では未完の関係である。
あるいはふたりの女性が関係をもつことになる同居している男性画家たちクィードとロドリゲスは、どういう関係なのだろう。二人ともヘテロな男性にみえるが、同時に、ゲイ男性にもみえる。アメーリアがそうであるように、この二人の男性も、バイセクシュアルなのかもしれない。もちろん二人の真相は小説のなかでは語られることはない【おそらく文化的コノテーションとして二人の画家は同性愛者なのだろう】。
いま挙げた二例は代表的なのかもしれないが、この小説には、行き場のない名状しがたい、まさにクィアな欲望が渦巻いているのではないだろうか。その典型というかその淵源がジーナである。
小説『美しい夏』が興味深いのは、年上のちょい悪のエロい女性にあこがれ、またその女性に触発されて背伸びをしたものの、結局、大人たちにもてあそばれていたことを知るジーナは、その間の出来事を、楽しくもあり苦くもあり甘くもあったひと夏の(ただし実際には秋から冬、そして春へとつづく)思い出として語っている。このステレオタイプ的語りにことよせて、夢から覚めたあとの自分の、成長とか悟りとは無縁のあるがままの姿をジーナは語っている。不定形な欲望をかかえた得体の知れない自分、なにものにも満たされるものがない人生。
その彼女のかかえる不定形な名づけえぬ欲望をレズビアニズムと指定することを小説はしてない。ファシズム下においてそれは不可能だったし、戦後の世界においても、それはほぼ不可能であった。またそうしなかったがゆえに、つまりこの小説がレズビアン小説とならず、またそのように受け取られなかったがゆえに、高い評価を受け、ストレーガ賞を受賞できた。またそれだけではない。ジーナがかかえる不定形な欲望、あるいは彼女の周辺の人物たちの不定形な欲望の存在は、この小説を、クィア小説の先駆けにしていたのだ。
【ちなにに「クィアqueer」とはレズビアンあるいは同性愛だけを指すのではく、名状しがたいあるいは分類しにくい多様な欲望の総称でもある。ただしLGBTQという表記は、Qを残り物の収容場所としているようだが、本来ならLGBTI+すべてを意味する語としてあるべきなのだ。とまれクィアは「同性愛」のみを意味する場合と、「同性愛」を含む「多様な欲望」を包括的に意味する場合に別れることを確認しておきたい。】
その不定形な欲望――いまでなら、つまり21世紀においてはクィアな欲望といえるもの――は、潜在的可能性として小説にはあったのだが、それを顕在化したのが映画版(ラウラ・ルケッティ監督2023年)である。映画版は『美しい夏』をクィア作品として位置付けた。
繰り返すが小説は、ファシズム政権下において10代から20代へといたる青春時代を過ごした女性の、はかなくも、また苦くもあり、甘くもある青春物語(年上の女性との友情と葛藤を描く)物語として受け止められてもおかしくない作品である。執筆当時、作品には、同時代の社会に対する暗黙の政治的文化的抵抗がこめられていたかもしれないが、戦争を経たのちに出版されたとき、それは戦前の失われた社会(と失われた青春への思いが重なり合う)へのノスタルジアに彩られた回顧的小説となった――そして最初にあったかもしれな政治的批判性は、刊行時点では、ノスタルジアによって骨抜きとなったといってもよい。
ラウラ・ルケッティ監督の映画版は、もちろん原作を省略したり原作にはない設定を付け加えたりしてアダプテーションといってもいいかもしれないが、これくらいのアダプテーションは、原作の映画化といってもさしつかえないものでもある。
ジーナが働く縫製工場は、映画のようにりっぱなところではない。そもそも映画ではオートクチュールのアトリエのようなところがジーナの職場になっているが、小説のなかでは、ジーナの職場は、ごく簡単に触れられるだけで、職場が物語の舞台になることはない。当然、ジーナの才能が認められたにもかかわらず、夜遊びがすぎていつも遅刻して最後には回顧されるというような物語は、小説にはいっさいない。さらに兄が休学中の大学生という映画の設定も、小説とは異なる。兄は夜勤の仕事についていて、兄と妹が顔をあわすのは、夕方、仕事から帰った妹と仕事にでかける兄とが食事をする時間でしかない。アメーリアも、そんなに裕福な暮らしをしているわけでもなく、トリノの有名画家のモデルをかたっぱしからしているということもない。小説には、ファシスト党員が市民を見下しながら街を闊歩しているというような描写はない。映画は、小説の設定をスケールアップしている。
【ちなみに、この映画のポスターに使われているアメーリアとジーナが草原にあおむけになって横たわっているという場面は、映画のなかにはありません。】
ただそれでも原作との大きな違いとして留意すべきは――原作に潜在していたものでもあるのだが――、二人の女性がレズビアン関係に目覚めるということである。正確にいえばアメーリアはバイセクシュアルで、レズビアンでもあるのだが、ジーナはアメーリアとの関係を深めてゆくなかでレズビアンに目覚めてゆく。
実際、映画のなかで湖か川でボート遊びをしている若い男女のなかで、アメーリアが岸にいる仲間をみつけて、いきなり、そのまま湖か川に飛び込むという、原作にはないシーンからして、この映画が同性愛映画になることを宣言・予告しているのである――水の物語。
小説でも映画でもジーナはアメーリアからキスされるときには戸惑うのだが、小説では身体的接触を求めるアメーリアの奔放な予測不可能な行為であり、女性同士の友情を深めるためのやや過剰な接触という程度のものとしか読者は思わないだろう。というのも、その後のジーナは画家のクィードとの親密さの度合いを深め、完全に恋する乙女になってしまうのだから。しかし映画ではアメーリアとのキスはジーニアに決定的な影響を及ぼす。つまりレズビアン的欲望を彼女のなかに呼び覚まし、彼女は以後、一途にレズビアニズムに傾斜してゆくからである。
そう、小説のなかのいくつかのエピソードが、映画ではジーナがレズビアニズムに傾斜してゆく契機として機能転換させられる。男と戯れるアメーリアにジーナは嫉妬の焔を燃やす。ジーナが裸体のモデルに自分から志願するのは、アメーリアと同じになるかさらに彼女を凌駕し、彼女の元カレを奪い取るという自暴自棄的な行動だったのだが【背伸び行為その一】、映画では、アメーリアになりきって男に自分の裸体を観られるときの羞恥や喜びなどアメーリアの複雑な感情を体験したい(つまりアメーリアへの愛は継続している)、あるいはアメーリアに裸体をみてもらうことの代償行為であるように思われる【背伸び行為その二】。映画のなかでジーナは、アメーリアにキスされ、そしてダンスホールで女同士踊った至福の瞬間を反復したいと願っている。だが、アメーリアとは別れたままで次の夏を迎える。
小説のなかでジーナはふたたびアメーリアと再会する。だが、そのときのジーナは、自分が背伸びして大人の世界に入ろうとして逆に笑いものになっていたかもしれないという苦い悔恨の念にとらわれていて、もはやアメーリアへのあこがれも、そしてそのはての嫉妬や憎しみを再び感ずることはない。アメーリアとの再会は、反復でもなければ修復でもない。喪失を、帰らぬ夏を、決定づけるものであり、ジーナにとってアメーリアはただの年上の友人として存在しつづけるだけである。再会は、終わりの確定なのである。
だが、映画は……。次の年の夏。ジーナがはじめてアメーリアと出逢った岸辺。同年代との友人たちとやってきたハイキングで泳ごうという誘いをことわって岸辺にひとり残るジーナ(それにしても、この翌年の夏の湖の岸辺は、夏の暑さなどまったくない、またなんと寒々としたところなのだろう――意図的にそのような映像を使っているのだろうが)。そこに、アメーリアが、森のほうからあらわれる。再会をよろこぶジーナはアメーリアに誘われて岸辺から離れ森へとふたり手をつないで去ってゆく。映画が最高の曖昧性・二重性を発揮する。ジーナが最後に出会ったアメーリアは、ほんとうに存在しているのか(とすれば、物語は新章へとつづく)、あるいはジーナの幻想なのか(とすればおそらく彼女は死んでゆくときに、あるいは死んだも同然の人生のなかで、幻想をみているのか)、わからないのである。この世にものとは思わない愛の女神のようなたたずまいをみせるアメーリア、その彼女を無言のまま迎え手をとるジーナ。あれほど会いたかったアメーリアに再会した(あるいは夢のなかで出会った)ジーナにとって、美しい夏は終わったのである。永遠の夏が、終わらない至福の夏がはじまったのである。
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原作には明確に存在していないレズビアンを顕在化させた映画は原作に対する裏切りなのだろうか。原作にレズビアン的要素が明確にみえないのは当然である。執筆当時、ファシストが政権を握っていたイタリア社会で、女同士の友情の話は書けても、レズビアニズムを主題とすることはできるはずもなかった。それを21世紀の映画監督がクィアな主題あるいはレズビアニズムを前面に出す映画としてよみがえらせたのなら、それはそれで興味深い試みであるとはいえよう。だが、同性愛的テーマは、この作品ともっと深くかかわっているのではないだろうか。
1949年に刊行されたのち、1950年、チェーザレ・パヴェーゼは自殺している。なぜ自殺したのかについては、すでに解明されているのかもしれないが、私がネット上で軽く調べた限りでははっきりしない。謎である。
『美しい夏』という小説に、もう一人人物を加えて読んでみたらどうだろう。その人物とは作者のチェーザレ・パヴェーゼである。三人称で書かれた一人称小説でもあるこの小説の語りが、若い女性の内面に分けいって、その心の繊細な動きを丁寧に再現していることに、私は、感銘を受けたし不思議な感じもした。
男性作家が女性の内面を描くことは珍しいことではない。作家なら将軍から一兵卒、聖人から殺人鬼、農民や商店主から労働者やホームレス、子供から老人にいたるあらゆる階層と地位と年齢の人物と一体化しその内面を描けるのは当たり前で、17歳の若い女性の内面を描くことは、作家の技量として褒められることこそあれ、違和感をもたれることはないだろう。
しかし、にもかかわらず、私はパヴェーゼという作家が17歳の女の子に憑依というか、なりきって、小説を書いている姿を意識しないではいられない。彼もまた、物語の一部になっているのではないか。それは、主人公の女性の恋心、それも尋常ではない、同性に対する友情とも愛情ともとれる恋心を丁寧かつ繊細に描写しながら、自身の欲望をそこに溶かし込んでいる、女性以上に女性的な作者の物語である。
すでに述べた同性愛者の定義を思い出してもいい。同性に一体化する人間は異性愛者であり、異性に一体化する人間は同性愛者である。このパヴェーゼという人物は小説の作者として、とくに疑われることもないまま、主人公の女性と一体化し、その彼女と、男性への欲望を共有する。この小説のジーナは作者自身のことであり、この作者は、なんらかの男性同性愛物語を、女性どおしの友情物語に偽装しているのである。小説のなかの女性同士の同性愛的感情は、男性の作者の男性に対する同性感情と連動しているのである。
パヴェーゼにとって『美しい夏』における、最後に自己の満たされぬ不定形な欲望を自覚することになる17歳の女性こそ、みずからのクィアな欲望を自覚しつつまた苦悩する自画像であるともいえるだろう。と同時に、この小説は、レズビアニズムに発展してもおかしくない女性の友情とともに、男に抱かれることを欲する若い女性の物語ともなっていて、作者のクィアな欲望を多層的に充足する内容ともなっている。そう、これが私が想像する、この小説のもう一つのメタ的物語である。
このメタ的物語において、物語の世界は、作者にとって、ある種のユートピア的世界でもあった。暗い時代のなかにある一条の光。たとえはかなく消えることになっても、苦い悔恨を残すことになっても、青春時代のかけがえのない夏。現実の夏は消えることはあっても、夏としての作品、小説は、夏を消すことはない。この小説こそが美しい夏なのだ。美しい夏は永遠の夏として、この小説のなかに/小説として、燦然と輝きつづける。それは救いだろうか。不幸にも、作者にとって、それは現実との乖離を意識させかえって絶望を助長するものだったのかもしれない。現実か小説か。作者は、同性愛者の悲しい伝統に従うしかなかった。芸術を選び、芸術に殉じたのである。同性愛者の悲しい自死というかたちで。
1. 結局、成長して大人になるかならないか、どちらかというと大人になることを拒むような主人公の意識は、この映画を、少女物ジャンルへと高めている。
2. あとこれは、私が気づくのが遅すぎた点、お詫びするしかないが、小説も映画も、とくに小説は、いわゆる「お針子」と芸術家(画家たち)との交流を描いている。映画のほうは映像によって、画家たちとそれをとりまく人々の、いわゆるボヘミアン性が強調されているように思われる。そうボヘミアン。ボヘミアン芸術家たちとお針子。これはプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』の世界ではないか。小説版は、『ラ・ボエーム』的世界をお針子の視点からとらえ直そうとする試みともいえるだろう。では、なぜお針子なのかについては、別の機会に。
