吉沢亮主演の『ババンババンバンパンパイア』(2025)の浜崎慎治監督の前作は、吉沢亮も出演している『一度死んでみた』(2020)だが、そのなかで広瀬すずは〈魂ズ〉というデスメタルバンドのボーカルをしていて、実際にステージでパフォーマンスもするのだが、それを聞いていた音楽プロデューサー(大友康平演ずるところの)は、残念ながら彼女の歌には魂がない、あれではバンド名〈魂ズ〉を、ただの〈ズ〉にしたほうがいいと酷評する(ただし映画で観る限り、それなりに力のこもったパフォーマンスなのだが)。
映画『ルノワール』(早川千絵監督、2025)で11歳の小学生、沖田フキ/鈴木唯は、ガンで父親(リリー・フランキー)を亡くすのだが、しばらくして学校で、そのことを知った先生から、もしまたお父さんに出会うことができたら、なんて声をかけてあげたいと聞かれた彼女は、少し考えたあと、屈託のない笑顔で「久しぶりね」と声にする……。
こいつ、魂がない。魂のぬけた〈ズ〉以下の、なんにもないガキんちょだ。お父さんが死んだのだぞ。もう絶対に会えないのだぞ。それを、単身赴任で家族のもとを離れたあと久しぶりに帰って来た父親を出迎えるときの挨拶だって、「久しぶりね」はないぞ。ましてや、死んだ父親だぞ。こいつ、魂のひとかけらもない。腹立たしいほど冷酷で思いやりがない自己中のバカ少女。う~ん、だから、大好き。
【この映画で主人公は沖田フキという珍しいカタカナ名である。まったく個人的なことだが、カタカナの名前の女性は私には好感度が高い。ただ現実にはカタカナの女性はあまりいないのだが、役名ではカタカナ名はけっこうある。榊マリコとか。なぜかというと私の死んだ母がカタカナの名前だったから。母自身は、自分のカタカナの名前を嫌がって、日常における署名には、かなの名前に変えたり、漢字をあてたりしていたが、晩年はカタカナ名を気にしなくなっていた。私は母のカタカナ名が好きだった。】
映画史のなかで特記すべき事件は、少女物ジャンルの発明だろう。実際、少女物というのは、けっこう多いし、一見して少女が出てこない作品でも、少女物といえるようなものがある。
その典型が、同じ早川千絵監督の前作『Plan75』(2022)である。どこに少女がいるのかと思うかもしれないが、おそらくすぐに河合優美のことを思い浮かべるかもしれない。たしかに彼女は永遠の少女としての面影がある。しかし私が『Plan75』のなかに(そのすべてではないのだが)作品を少女物にする存在を見出したと思ったのは、倍賞美津子のことである。
驚かないで欲しい。映画のなかでは75歳以上の後期高齢者の彼女は、身寄りもなく独り暮らしで、最後には政府・自治体が進める後期高齢者の安楽死プログラムを受け入れる。どこが少女だと驚かないで欲しい。最後に彼女はプログラムにそって死ぬことができずに、ひとり施設を抜け出すことになる。これは彼女がこの世に未練を残しているからでも、あるいはほんとうは死んだのだけれども幽霊となって存在しつづけるということでもない。彼女はこの世界の仕組み、とりわけ安楽死プログラムを批判的にみる超越性を備えているということである。誰からも、何物にもコントロールされない超越性につけられた名前、それが「少女」である――実際の少女がそのような存在であるかどうかとは関係なく。また実際の年齢とも関係もない。映画のなかで河合優美と倍賞美津子が意気投合するのも、どちらも「少女」であるからだ。
少女物の映画の原型ともいえるのは、映画ではないが、たとえば『不思議の国のアリス』である。アリスのトランプの国とかチェスの国での冒険を構成するのは、さまざまな奇人変人あるい人間ではない異形の者たちとの出会いであり、そこには明白な社会性とか政治性はないとしても、社会風刺的側面は色濃くでている。それは文学ジャンル的にいうとメニッポス的諷刺に近い、いやそのものである。
アリスにとってこの不思議な国をさまようのは試練に近いものでもあるのだが、彼女は、決して傷つかないし、アイデンティティを失うことはなく、最後には、疑似地獄めぐりから、無事に生還する。少女物の映画は、まさにこうしたアリスの冒険の新たな物語をつくり、映像化したものといえよう。そのときのフォーマットとは、少女が超越性を維持すること。つまり少女は、最後まで、決して傷つかない、自らを失わないのである。
たとえばテリー・ギリアム監督の『ローズ・イン・タイドランド』(Tideland 2005年、日本公開2006年)は、10歳の少女を主人公にした少女物映画の傑作のひとつだが、その映画の驚異とは、主人公の常に夢見る少女が、現実と夢の世界との区別がつかないだけでなく、生と死との区別もつかないことである。夢見る者/少女は、生と死の境界を乗り越える――生と死の境界を知らないのだ。生者も死者も、彼女にとっては同等である。薬物のオーヴァー・ドーズで死んだ父親を彼女はなんの逡巡も躊躇もなく生きているかのよう扱う。
『ルノワール』における魂のない11歳の少女にとっても、生と死は連続しているのであって、彼女にとって、父親の死も夏休みの些細な一挿話にすぎない。彼女は父の死よりも林間学校での楽しい思い出のほうを重視している。父親とも、いつか会えるのであって、彼女にとって、死者と生者との間に根源的な相違はないのである。
映画は彼女の無垢の目に映った世界を提示する。ただし無垢の目といっても、汚れを知らぬ幼い可憐な少女の心やさしい眼差しとはまったく無縁である。この少女、沖田フキ/鈴木唯は、母親の浮気相手には手厳しくあたり、衰弱した父親をからかう若者を蹴りとばすような、家族思いの、家族の絆を重んずるところがあるかと思うと、友達の少女には残酷で、彼女が苦しむのをみて面白がっているような冷酷なところ、あるいは友人のプライヴァシーを暴き、苦しむ友人をゲーム感覚で観察するという底意地の悪さを観客に見せつける。彼女は決して心優しい可憐な少女ではない。
彼女は大人の世界にあこがれていて、出会い系サイトというか電話で知り合った変態受験生にいたずらされそうになるが、からくも助かる。だが、それは運がよかったというよりも、彼女がこの世界を本来的に超越しているからだろう。大人になるというのも、子供らしい無垢あるいは残酷さを捨てて、優しさを身に着け、魂をもつように成長するのとは異なり、ただ、現実から夢の世界への横滑りするだけである。大人の世界は、変化と成長によって到達するのではなく、あるいは、代償として何かを失ってはじめて到達できるのではなく、ただ空想と妄想をたくましくするだけで簡単に入ってゆけるのである。
映画の最後において、私たちは、彼女が若い大人のセレブたち、それも外国人のセレブの男女にまじって、クルーズ船の甲板上で交友しているという姿をみることになる。これは彼女が成長した姿というよりも、彼女の妄想というか空想の映像化であろう。その楽しい空想の世界に遊んでいる彼女は、いまなお11歳の少女のままなのである。彼女は成長することはない。成長して、この世界にとりこまれることはない。
となるとこれは何を意味しているのか。この魂のない冷酷な自己中の彼女がみる世界は、なんらかのかたちで組織化されたり統一されたりしておらず、ただ、淡々と流れゆく日常でしかない。彼女のみる日常に、テーマはないのだ。そして、それを反映にしてこの映画にもテーマがない。「ルノワール」というタイトルは、全体の内容を明示的あるいは暗示的に示すメタファー的なものではない。
少女フキが父親の入院している病院内の売店で売られていた複製画ルノワール作の『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』(Portrait d'Irène Cahen d'Anvers)を気に入って購入、父親の病室にそれを飾ることになる。この絵画はとても有名なもので、誰もが一度は目にしたことのあるルノワールの肖像画。『可愛いイレーヌ』とも呼ばれ、「絵画史上最も有名な少女像といわれる」(Wikipedia)ということは知らなかったが、沖田フキがこの複製画が気に入ったというのは、ラカン的鏡像段階におけるのと同様に、この絵画の少女像が、彼女にとって想像的同一化の対象となる理想像であったということだろう。そのためこの肖像画は、彼女そのものというより、理想化された彼女を示すメタファーといってもいいのだが、それをルノワールというかたちでずらす。その絵画の名前でもなければ、その絵画に描かれた人物なりテーマでもなく、その絵画を描いた画家の名前というのは、メタファーではなくメトニミーである。それは、日常の数々のエピソードのなかのひとつ(決して中心的なものではない)であって、映画全体の統一テーマを暗示しているのではない。むしろ映画は、統一的テーマのなさを暗示しているように思われる――その「ルノワール」というタイトルの選定からして。
統一的テーマがないことは、ひとつには少女が統一化・組織化ができていない幼い存在であることと連動している。だが、これは決して悪いことではない。なぜなら統一性がないということは、中心と周縁、重要性と瑣末性、優秀と劣等の区別がなく――ヒエラルキーもなく――すべてが平坦な起伏のない世界が広がるということだが、それゆえにひとつひとつのディテールが仕分けされることなくすべて中心的なものとなる。中心のなさは、すべてが中心という状況へと裏返る。
そしてどれにも優劣がつかないときに、細部が際立ち輝きはじめ美しくも悦ばしい世界が生まれるのだが、それと同時に、白黒がはっきりしない灰色の世界が広がることもまた確かであろう。メニッポス的諷刺というのは、主人公が出会う現象なり人物のどれにも問題があって、この世に完璧なもの理想など存在しないと落胆する物語である。映画『ルノワール』において主人公の少女が出逢う人びと(両親も含まれる)は、誰もが問題をかかえた愚か者たちであり、全体として愚行録の要素を呈してもいる。
メニッポス的諷刺作品として有名なのはヴォルテールの『カンディード』である。主人公は旅してさまざまな賢者に出会いその叡智にあずかろうとするのだが、誰もが欠陥をかかえた愚者であって、落胆して故郷に帰って来た主人公は自分の畑を耕すことにする――他人に意見を求めるのではなく、自分で考えるようにするのである。あるいは『不思議の国のアリス』では、アリスは最後には不思議の国を全否定して夢から覚めることになる。彼女がめぐってきた不思議の国は、少女の子供らしい内面世界であって、それを否定することで、彼女が少女から大人になる成長過程に入ったことが暗示される――ただしそれには不気味だが同時に楽しい不思議の国を失うという代償がともなうのだが。
そして『ルノワール』の少女は、彼女もまたその一人でもあった愚者たちの営みのなかで、ただひとり、それに染まることなく、自己を守りつづけ、決して傷つくことなく、夢見る少女でいつづける。まさに彼女は、おそらく、これからも独身で、75歳をすぎた後期高齢者となっても、世界の真相を見抜きつつ、嘆くか哄笑しつづけながら、成長をとげず、魂を持つことなく、永遠に生きることだろう。まさに彼女は少女物映画の正統的なヒロインそのものである。『Plan75』で部分的に提示された少女物映画は、『ルノワール』において十全の開花を見せたのだと私は考えている。
