2025年08月08日

『アンティル・ドーン』

デヴィッド・F・サンドバーグ監督『アンティル・ドーン』(2025)を観てきた。ループ物に興味があるのだが、興味があるどころではなくて、8月末までにループ物の小説・映画について論文というか学術的エッセイを書かねばならず、ループ物ならかたっぱしから観ることにしている。

タイム・ループとホラーという二つのジャンルを組み合わせた映画で、ホラー映画は怖いので観ることができない私にとっては拷問ではないかと思いつつ、また近くに座っていた若い女性の観客が帰り際に彼女の友人に、怖すぎたと語っていたのを耳に挟んだのだが、私にとっては、怖くなかったので、ありがたかった。

【ネットでの評価をすこしのぞいてみたが、怖くなかったと怖かったのふたつに分かれているようだ。ホラー映画をよく観ている観客にとっては、怖くなかったようだが、ホラー映画を始めてみる観客には怖すぎたようだ。私は、よく観ていると、はじめて観るとの二つのポジションの中間のような立場だが、私にとって幸運なことに、それほど怖くなかった。】

実は、この映画については、『物語の知恵袋』(作成者Wittale)というブログのなかに「映画『アンティル・ドーン』ネタバレ考察|結末・正体・伏線まで徹底解説」という記事があって、これが、基本的には箇条書きの文章から構成されているのだが、おどろくほど長い。章割りも、この手のブログ記事にしては多くて、映画の作品についてさまざまな詳細な考察と解説が読めるものと期待して目を通してみた。

あまりの内容の薄さに愕然とした。同じこと、少数の同じネタを、延々と繰り返しているだけである。章が変わったら別の話、別のテーマになるかと思ったら、そこでも同じ話となる。この映画は、観光案内所・兼・宿泊場所のような森のなかの一軒家というか屋敷にやってきた5人の若い男女が、毎夜襲われて全員死亡するのだが、次の夜に行き返って、再び一夜を過ごしつつ殺されるという、タイム・ループ映画。その映画と、そのブログの記事は連動しているかのように、章が変わっても、同じ話の繰り返しで、ブログの記事そのものがタイム・ループしている観がある。

限られた材料をここまでひきのばすのは才能としか言えないのだが、ブログは、その限られた主張をくりかえすことのみに関心があって、映画の細部はなにもみていない。

たとえば――この映画のなかで唯一馴染みの有名な俳優というと、ピーター・ストーメア(Peter Stormare)だが、彼が日本でシェイクスピア劇に出ている頃には、英語読みではなくペーテル・ストレマーレとして紹介されていたので、いまでも私にとっては彼の名前はストレマーレである。この映画のオフィシャルサイトには、ストレマーレと日本とのかかわりがきちんと書かれていて感激したのだが、Wikipediaのほぼ丸写しであった。

それはともかく、映画冒頭からの息詰まるB級臭さのなかで、ストレマーレが登場してからは、まあまちがいなく悪役だろうと予想できて、B級映画感が充満しているなか、安堵したことは鮮明に覚えている。

そのストレマーレがドクター・ヒルを演じているのだが、映画のもとになったゲームPlayStation®5/PC向けゲーム『Until Dawn -惨劇の山荘-』(2015)では、登場人物の妄想のなかにあらわれる人物にすぎなかったらしいのだが(筆者はゲームについては全くの無知)、映画ではすべてをコントロールする中心人物となっていて、そのストレマーレ/ドクター・ヒルの机の上に置かれていたカルテのひとつにつけられている患者の写真がラミ・マレックにそっくりなのである。この映画にラミ・マレックは登場していない。

気になっていたのだが、IMDbのなかに答えがあった。やはり写真はラミ・マレックその人だった。ラミ・マレックは、ゲーム版(2015)で人物の声を担当していて(日本語版Wikipediaにも「2015年 UNTIL DAWN-惨劇の山荘- ジョッシュ・ワシントン/声の出演・モーションキャプチャ/日本語吹替え 阪口周平」とある)、ゲーム版を知っている者なら、すぐにわかることだが、私はゲームについて何も知らないので、わからなかった。薄くのばしすぎてむこうが見えるうっすっペらさの極限ともいえるサイトの書き手も偉そうに書いているが、ラミ・マレックについては何も知らないことがわかった。

ちなみに、その書き手は、「本サイトでは、以下のような信頼性の高い情報源を元に記事を執筆しています:Netflix・Amazon・Appleなど各VOD公式サイト/IMDb / Rotten Tomatoes などの映画データベース/日本映画製作者連盟などの公的機関/The Hollywood Reporter / Variety などの海外大手メディア」など。

おそらく嘘だろう。自分を権威づけるために情報源を並べているだけで読んでいない。もちろんレミ・マレックの例は全体の主張のために省略したというかもしれない。しかし、その筆者は、
Dr.ヒルは“メタ的存在”?
映画評論家アンソニー・ワイトは、Till Dawnについて「multiple horror subgenres into a single blood‑soaked narrative… respects the original game while playing by its own bloody rules」と評価しています(出典:Until Dawn (2025) | Rotten Tomatoes)。この表現こそが、Dr.ヒルの“メタ的存在”性を裏付けます。つまり彼は、単なる狂気の医師ではなく、物語と観客を“監視し操作する構造そのもの”を体現しているのです。

と書いている。

引用文を日本語に翻訳すると「〔主語なし。主語はこの映画のことか〕多くのホラー・サブジャンルを単一の血まみれの物語に〔動詞なし。まとめあげている、溶かしこんでいるというくらいの意味か〕……〔主語なし。主語はこの映画のことか〕オリジナルのゲームをリスペクトしつつも、それ独自の血塗られたルールによってプレイしている(物語を動かしているくらいの意味か)」となる。これのどこから、「Dr.ヒルの“メタ的存在”性を裏付けます」といえるのか。【省略された主語は、この作品、この映画の監督、あるいは製作者を予想させるもので、ドクター・ヒルではないはずだ。だから主語を示せないのだが。まあ動詞も示していないのは、なぜかは不明。】

英語がわかってないのか。メタ的存在という言葉の意味がわかっていないのか。もしわざわざ英語の原文を引いて自分の主張を強化しようとしたのなら、原文の意味がとれてない、そして自分の無知を知らない狂人である。もし原文の英語など誰もわからないだろうから、適当に引っ張っておけというのなら詐欺師である。

ちなみにそのブログの筆者のプロフィールによると「年間300本の映画を観る映画好き」とある。300本とはすごい。まあ映画館だけでなく配信などでも観た映画をも含めてのことのようだが、それでもすごい。よくネットのサイトとかなんらかのレヴューで、一年間に観た映画の数を誇る人間がいるのだが、そのレヴューとかコメントを読むと、唖然とする。たいてい薄っぺらなことしか語っていない。映画の理解度は、映画を観た数とは関係ないことをいつも痛感する。300本も観ている時間があるのなら、少しは頭を使え、なにか勉強せよといいたくなる。

この手のホラー映画は、戦争映画と似ていて、主要な人物(ときには一人)が危機を脱出するという物語となって、戦争映画における定番的設定を踏襲することになる--すなわち敵中突破形式。この映画では5人の若者が、最初は、仮面をかぶった殺人鬼に襲われるのだが、やがて不気味な魔女や、ウェンディゴと呼ばれる北米原住民の間で信じられていた悪鬼に襲われるのだが、この観光案内所・宿泊所がある町は、いまは森になっているのだが、かつては炭鉱町であり、落盤事故で町全体が地中に埋まり、住民は救助されることなく生き埋めになって死んだという呪われた場所である。そのため映画の最後では、5人の若者たちは、この場所の生霊ともいえる住民たちに次々と襲われるなか、彼らは死中に活を求めるのである。

このブログで紹介したジェ―ムズ・ガン監督の『スリザー』も、あるいは最近まで(あるいは今も)映画館で上演していた『罪人たち』(ライアン・クーグラー監督、2025)においても、最後には生き延びた少数の者たちが、住民全員がゾンビや吸血鬼となった世界で大立ち回りを展開する。コミュニティーと個人との闘いは、ホラー映画の最近の傾向となった観があるが、それは集団にのみこまれる恐怖と、個人の尊厳との葛藤が、映画ではいまも継承されていることがわかる。かつて敵となるコミュニティーは、コミュニスト(共産主義者)であり、ファシストであったが、いまでは個人を抑圧するのは、資本主義であり、トランプ一派であり、参政党支持者たちである。

いずれにせよ、この映画が呪われた屋敷から呪われたコミュニティー全体へと舞台を拡張することには、最近の傾向、最近のホラー映画の定番とはいえ、興味深い物語の展開であって、そこを掘り下げることのほうが、ドクター・ヒルをメタ的存在など語るよりも重要ではないか。【実際のところ、右と左に関係なく、共和党と民主党に関係なく、与党と野党とゆ党に関係なく、現代人というか現代の若者たちは、自分や仲間たちが周囲から迫害されているとい本気で考えていようで、そのネット時代、SNSのパラノイア的心性と、コミュニティーがゾンビ化するというお約束のホラー映画の展開とは連動しているのかもしれない。】

なおこの手の映画は、その場限りの効果を狙っていて、全体的整合性とか合理性というものは無視し、ご都合主義的に超常現象に頼ることが多いのでするので、そこに統一的な原則なり合理的説明を加えても意味がない。

たとえばこの観光案内所/宿泊所の一室には、壁全体に行方不明者の顔写真を印刷した紙のチラシが貼られている。若者たち5人が、最初に恐怖の一夜を過ごしたあと、壁に彼らの顔写真を印刷した紙が新たに加えられることになる。では誰が、どうして行方不明者の紙を貼るのか。

この物語が、ドクター・ヒルの実験と観察によってコントロールされていることは映画において匂わされている。しかし、では、誰がこの紙を貼るのか。ちなみに映画のエンドロールでは、ふたたび行方不明者の顔写真を印刷した紙を貼った壁が映し出されるのだが、行方不明者のなかにこの映画の監督の写真がある(最初はわからなかったが、オフィシャルサイトで監督の写真をみてわかった)。ほかにも脚本家とか映画のクルーの写真が貼られているようだ。誰が、この写真を貼ったのだ。まあお遊び、おふざけだろう。ドクター・ヒルもしくはその助手(いるかどうかもわからない)が貼ったのではないだろう。

また、そもそもタイム・ループをドクターはどうして起こせるのだろう。5人の若者たちが、映画でよくみるタイム・ループ物を話題にするところがあるが、それは話題としては追究されることなく、しりすぼみとなる。うやむやにされるのである。あるいはドクターは、クローバー/エラ・ルービンに、すべては彼女の妄想のなかの出来事であり、タイム・ループも殺戮も実際には起っていないということを示唆する。それも示唆だけであって、彼女の仲間たちが実在するのか実在しないのかが疑われるような掘り下げ方はされずに、うやむやになる。それによって状況の謎は深まるばかりだが、それが映画の狙いであって、状況を解明しようとしているわけではない。

恐怖の夜を4回か5回繰り返したあと、若者たちは、いまが何回目の夜か不思議に思うことがある。宿泊者名簿をみると、13回目の夜である。彼らも、観客である私たちも、およそ8回の恐怖の夜を過ごした記憶はまったくない。しかし、スマホに8回分の夜を録画した動画が残っていて、そこではいろいろな怪異現象が起こったことがわかる。しかしIMDbでも指摘していたが、充電器もないところで13日分の動画をどうやってスマホで撮るのか。メタ的視点にたてば、映画のなかで12回の恐怖の一夜を映像化することは、さすがに退屈するあるいはその時間と言うか尺もないし予算もない。この問題を切り抜けるために、登場人物の記憶を消すが、8回の恐怖の夜のさわりの部分をスマホに録画された動画として示すという、実にご都合主義的な展開を用意した。突然の記憶喪失や記憶錯乱というのは、興味深い展開だが、ご都合主義がすけてみえては興味も半減する。

というわけで、矛盾ありき、非整合性ありきで作られているので、それを逐一考察してもあまり意味がない。意味がないが、ふつうに頭を働かせれば、その整合性のなさからみえてくるものもある。

映画の最後ドクター・ヒルは、体が粉々にふっとぶという壮絶な最後をとげる。なぜそんなことになるかは映画で確かめてほしいは。映画の最後では、停止していた監視カメラのモニター映像が復活する。そこに冬景色となった、これまでになかったロッジが映し出されている。そして死んだはずのドクター・ヒルの口笛が聞こえる(姿はみえない)。

まず冬景色のロッジというのが、プレイステーションの2015年版ゲームの舞台であって、この映画はそのゲームの前日譚であることがわかる。おそらく前日譚にするために、ドクター・ヒルが死んでいなかった。ドクター・ヒルの実験と観察は続き、恐怖の一夜とそのループが再現されるのだということを示すために、説明抜きで、ドクター・ヒルの生存をにおわせたということなのだろう。

さきほどのブログでは、以下のような考察を展開している。実はこの考察は、的を射ているのだが、考察者そのものが、その潜在的可能性を認識していないように思われる。以下引用する。
謎の口笛=“Dr.ヒル生存説”の根拠

エンドロール直前、雪山のロッジを遠くから捉えたシーンで、あの特徴的な口笛の音が再び鳴り響くのです。この音は、映画内で一貫してDr.ヒルの登場とセットで使われてきた音響演出であり、偶然とは考えにくいものです。

ここで浮上するのが、以下3つの仮説です:

Dr.ヒルは“死んでいなかった”【1】
 爆発はフェイクであり、ヒルはすでに逃れていた。
Dr.ヒルは“人間ではなかった”【2】
 死を超越した存在として何度でも蘇る。
ヒルという存在は“概念化”されている。【3】
 人格がループ全体に拡散し、他者に“上書き”されるような構造。

“生きていた場合”と“死んでいた場合”の恐怖
どちらの仮説が真実であっても、観客に突きつけられるメッセージは明快です。
「監視する者は消えない」
たとえ身体が消えても、その思想、仕組み、仕掛けは残されており、恐怖の構造自体は不滅なのです。

この点において、Dr.ヒルは“存在”というよりも“システム”と化しており、次の物語でも違う形で登場する可能性が示唆されています。
とあって、「存在」ではなく「システム」だと語りながら、すぐ次に、先ほど引用した「メタ存在」の一節がつづくのだから、頭が悪すぎる。頭のいい指摘もしている。【【1】【2】【3】は引用者が付加したもの】

上記の引用で【1】の仮説は信憑性がない。どうみても体がばらばらになるのだから死んでいるとしか考えられない。場面の流れからも彼は死んだとみるのが妥当だろう。ただし、その場にクローバーがいたので、彼女の妄想だという可能性はある。ただ彼女の妄想だとしたら、最後の監視モニター映像の場面も彼女の妄想となる。2015年版ゲームの世界も妄想となる。妄想、あるいは夢落ちは、面白いが、この世界の建築を破壊する。

【2】の仮説は、ドクター・ヒルが悪魔だとか宇宙人だという考え方と同じである。それで虚構における整合性はとれるのだが、なんでもありの世界である。ある米映画で、不思議な現実改変が起こるという出来事が生ずるのだが、もしその原因が、宇宙人が操作していたのだというのだったら怒るぞと思いながら映画を観ていたら、ほんとうに宇宙異人が操作したという設定だったので、観ながら怒った記憶があるが、それと同じで、ドクター・ヒルが人間ではなかったというのなら、何でもあり、何でも言える。この仮説は正しいとは言えないのである。

【3】の「ヒルという存在は“概念化”されている」という仮説は、「人格がループ全体に拡散し、他者に“上書き”されるような構造」とあって、なんのことはちんぷんかんぷんである。要するに、この世界には、他人を監視して苦しめて喜ぶという精神が蔓延していて、誰もがドクター・ヒルになりうるということか。ドクターの姿がみえず、口笛だけ聞こえるというおのは、別人がドクターになっているかもしれないということなのだろう。

口笛の主は、ドクター・ヒルの精神が乗り移った別人というのであれば、それは一つの興味深い仮説としてありうることである。ドクター・ヒルは、邪悪な精神そのものであり、たとえドクター・ヒルという肉体が砕け散っても別人に憑依できるということである。これをひとつの仮説としよう。残念なことに、先のブログの筆者はこのことを理解せずに、おそらく自身でもわからぬことを書いている。

説明不可能な超自然的・神秘的現象とご都合主義で支えられている世界では、どんな説明でも通用してしまうため、正解はどれでもあり、どれでもないという困った事態になるのだが、それでも、細部に即しながら、いまひとつの興味深い蓋然的事態を推測することは可能であろう。

この世界のルールを確認してみよう。この世界で死んだらどうなるのか。翌日の夜によみがえる――そのメカニズムは映画のなかでは説明されない。もしドクター・ヒルが死んでいないのなら、彼は翌日の夜にまたよみがえったのである。よみがえったドクター・ヒルは、被験者たちが反撃して来ない限り、命を失うことなく、この恐怖のループを生きる。あるいはひょっとしたら毎夜、被験者たち、あるいは生霊たちに襲われ死んでいるのかもしれない。となると、彼はこの世界の実験をコントロールするメタ的存在ではなく、オブジェクト的存在であり、彼自身を実験し監視する何かがメタ・レヴェルに存在しているのである。

邪悪なドクター・ヒルを観察する何かがいる。それは、さらに邪悪な存在なのか、あるいは聖なる存在かもしれない。映画の最後、脱出口に十字架があったように、それはキリスト教的神かもしれない。

しかし後者の可能性を映画は否定しているかもしれない。先に、映画のエンドクレジットに、おびただしい行方不明者の写真が貼り付けられている壁が映し出されることに触れた。そのなかには、楽屋落ちというおふざけで、監督、脚本家、撮影クルーの顔写真が付け加えられていた。だが、これがおふざけでなく、物語の一部だったらどうか。この世界を外部から撮影しコントロールしていた監督とクルーは、ある意味、ドクター・ヒルと同じことをしている――実験的観察と監視。だが彼らもメタ・レヴェルからオブジェクト・レヴェルへと引きずり込まれ、この恐怖のループが生起する夜の世界に取り込まれたのである。おそらく一人残らず。映画監督もクルーも脚本家も。

かくして、何度でも死の苦しみを人間に味あわせて人間を怪物にかえることに限りない喜びを見出しているサディスティックな悪魔/神によって、おそらく人類は一人残らず怪物に変えられるのだろう。人類は行方不明になる。Missing. これは消える・いなくなるともとれる。

フロム・ダスク・ティル・ドーン

フクロウというは、先のブログのマスコット的動物であった。自らが叡智の鳥と気取っているのだろう。だが、映画が終わったあとに、記憶とリサーチを頼りに、長い考察をはじめたのだ、このフクロウは黄昏(ダスク)に。だが、その考察は、同じことの繰り返しで、到着も脱出もできなかった。夜明け(ドーン)をみることもなく、永遠と、くだらないうすっぺらな考察を続ける運命にとらわれて。アーメン。
posted by ohashi at 23:38| 映画 | 更新情報をチェックする