2017年に公開の映画『海辺の生と死』(越川道夫監督)で、終戦直前、特攻隊員と恋においた満島ひかるが、裸になって井戸水をかぶり身を清めて、浜辺で渾身のセックスシーンに臨むというとき、カメラは二人の姿を、表情などわからない遠くから撮って、私の期待を大いにはぐらかしたのだが(まあ期待外れは、特攻のための出撃/出発はついに訪れなかったというテーマとも連動しているのかもしれないが)、これと同じくらい衝撃的な期待の裏切りは、映画『ハルビン』(ウ・ミンホ監督、2024年)のクライマックスにあらわれる。
ハルビンの駅のホームでアン・ジュングン(安重根)が伊藤博文を暗殺する場面、カメラはこれまでの視野を捨てて、ドローン撮影だろうか、高空から真下を映すのである。韓国でも、この場面は評判が悪いらしいのだが、当然である。ホームにいる人物は高い位置から見下ろされ頭頂しかみえず、誰が誰だが、まったくわからない。上からみたチェスの駒のようなもので、駒の種類はまったくわからず、ただ丸い人間の頭頂がうごめいているだけである。いきなりこの画面に切り替わると、最初なにが起こっているのかわからない。そのうちになにか混乱が起こっているらしいとわかる。高い空から見下ろしているのだから。結局、暗殺の決定的瞬間は映画のスクリーンに大きく映し出されることはない。誰が伊藤博文か、アン・ジュグンかもわからない。わからずじまい。私は心のなかで、大きく叫んだ、アン・ジュングンはどこだ!?と。
この映画の宣伝では、「本作は、単なる英雄譚ではなく、アンの人間的な葛藤や同志たちの心理、敵との駆け引きを通じて、独立運動の苦難と信念を描いた重厚なドラマ」といった評言がみられるのだが、絵に描いたような英雄ではなく、人間性をも提示したということらしいが、そうは思えない。
たとえば、自分の死すべき運命とあきらめ、しかもそれが神の大いなる計画の一部だとはっきり理解しても、イエスはゲッセマネの園で「悲しみもだえはじめる」のである。しかも十字架にかけられたとき、イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばずにはいられない。このイエスに比べるとアン・ジュングンは、暗殺計画や暗殺そのものに対する迷いはなく、任務遂行にむけて一途に突き進む。
彼にとって過ちといえるのは、日本軍の捕虜を国際法に基づいて殺すことなく解放したことである。解放された捕虜たちは戦線に復帰して、大韓義軍に甚大な損害を与える。ちなみにアン・ジュングンは、大韓義軍の参謀中将。なるほどそれは彼の判断ミスあるいは解放後の捕虜の動向を把握せず味方を無防備のまま日本軍の攻撃にさらしたという読みの甘さは非難されてしかるべき過ちかもしれないし、それが味方から裏切り者という汚名を浴びせられる原因ともなった。
が、しかし、たとえ正規軍ではないとしても彼が軍人として国際法を遵守したことはミスではないし、彼の弱点でも欠陥でもない。その点で彼の軍人としてまた人間としてのありかたに問題も欠陥もない。むしろ法と秩序を重んずる彼の行動が、現実によって裏切られるのであり、彼は基本的に高邁な士であり、加害者ではなく被害者なのである。
あるいは逆に、もし彼が日本人捕虜を怒りにまかせて違法と知りながら処刑していたら、それこそ人間味あふれるアン・ジュングン像ができあがったかもしれない。この人間味あふれるアン・ジュングンは、ゲッセマネでのイエスを上回る。だが、それでは英雄像に傷がつく。伊藤博文暗殺が朝鮮民族の植民地支配解放のために行なわれたという大義名分が成立しなくなる。伊藤博文暗殺は、憎い日本軍捕虜に対する国際法無視の残虐行為の延長線上でしかなくなる。公憤というよりも私憤・私怨にもとづく復讐であり、そこに正義なり高邁な理想なりはなくなる。アン・ジュングンはどこだ!?
たとえばアン・ジュングンを執拗に追跡する(「アン・ジュングンはどこだ?」)日本軍の森中佐は、最後の土壇場でアン・ジュングンを取り逃がしたというか暗殺グループの一人に襲われ、暗殺を防げなかったようだが、有能な軍人であり優秀な捜査官でもあって、日本側からすれば信頼できる英雄的人物である。しかし、彼はいったんは捕虜になり、その後解放された人間であり、生き恥をさらさねばならない境遇を自分にもたらしたアン・ジュングンを心底憎み、その復讐のためだけに行動している。ああ、なんという人間的なことか。日本側のために、あるいは伊藤閣下のために、犯行を未然に防ぎ暗殺者を逮捕しようというつもりはまったくなく、個人的な私怨で動いている。ああ、なんという人間的なことか。だがいくら人間的であっても、森中佐は有能で正義感あふれる高潔の士ではないし、民族解放のために死を覚悟した暗殺を遂行する敵を評価する高潔な士でもない、ただの悪辣なヴィランにすぎない。
実際、英雄の人間化は、英雄の矮小化につながる面がある。
また英雄の人間性を示すのは、たとえば過去の衝撃的な経験がトラウマとなっているとか、なにか内面的な苦悩が精神をむしばんでいる、あるいは逆にそれがエネルギーになっているという心理的な事情の提示によっても実現できるのかもしれない。しかし、そのような提示法はこの映画ではなされない。むしろ、それは、冒頭で、氷のはった湖を一人苦しそうに歩むといいう主人公が置かれて状況の象徴的提示あるいは主人公の心象風景の提示として行われる。
いつ割れてしまうかもしれない、氷の張った湖の表面をよろめきながら這うようにしてすむアン・ジュングンの姿は、朝鮮解放の道半ばでしかない苦難の歴史をあゆむ朝鮮民族の姿と重なり合う。それが強調され、アン・ジュングンの特殊な個別的な苦悩や経験はついぞ説明されることも具体的に示されることもないまま、心象風景だけが静かに暴走するのである。そう、心象風景の暴走。アン・ジュングンはどこだ!?
結局、アン・ジュングンは、聖人視される英雄ではなく、人間的な英雄として描かれるという宣伝とはうらはらに、高邁な理想と民族の運命を背負った英雄としてしか描かれていない。そしてそのためには、たとえば日本人が人間的英雄の引き立て役にはなるべきだが、日本人はうすっぺらすぎて英雄像の引き立て役になっているのか、なっていないのか、よくわからない。いや、日本人は、むしろただの悪辣なヴィランでしかない。そしてそれは韓国側の自作自演によるアン・ジュングンの英雄化である。アン・ジュングンはどこだ?
登場する日本人俳優は伊藤博文役のリリー・フランキーを除くとおそらく全員韓国の俳優である。そのため日本語の発音がおかしい。ネイティヴ・ジャパニーズはリリー・フランキーだけだろう。なぜ隣の国の日本人の俳優を、べつに無名でもいいから使わなかったのだろうか。伊藤博文暗殺を扱う映画で悪役を演ずるとなると、最近は勢力を伸ばしている日本の極右による報復が怖くて日本人俳優がしり込みをしたのだろうか。リリー・フランキーのような大物俳優ならば、誰も、極右の日本人も文句は言わないだろうし、ましてや殉職者でもある伊藤博文役である(ちなみに明治時代の国会について、品のない錦絵のようなものしか見たことない私は、CGで再現された、荘厳かつ豪華な国会議事堂内部にちょっと感激したぞ)。
しかし、ネイティヴ・ジャパニーズがいないだけではない、日本語の台詞もどこか違和感がある。リリー・フランキーの台詞も自然な日本語だから気づかないかもしれないが、よく聞くと、日本語として変である。リリー・フランキーの台詞ではないが、たとえば「豊臣が朝鮮半島を侵略した」とはふつういわない。戦国時代ではなく戦国時代のドラマなどでは「秀吉が」とか「太閤秀吉が」とか「豊臣秀吉が」とはいっても「豊臣が」とは言わない。これは微妙なことで、例外もあろうが、秀吉個人のことをいうとき、豊臣がとはいわない。台詞のネイティヴチェックができてない。別に参政党の支持者を怖がることはないと思うのだが。日本人を排除し、日本人と日本側を自作自演でつくったため、英雄化が薄くなったとはいえないだろうか。アン・ジュングンはどこだ?
【日本人をうすっぺらなヴィランとして描くなということではない、もっともっと悪辣な帝国主義者として描くべきなのだ。伊藤博文暗殺の時点で、朝鮮を保護国化し併合するという日本帝国主義は、朝鮮半島の民間人を多く殺害している。それはロシアがウクライナで殺したウクライナ民間人2万人(に迫るか、超えている)に匹敵する。さすがにイスラエス国防軍が殺したガザのパレスチナ人6万人ほどではないとしても。罪の意識もなく平然と民間人を殺害したロシア軍人とイスラエル軍人の先輩格にあたるのは日本軍人である。日本軍人の残虐さ、無神経さ、ふてぶてしさは、『ハルビン』のなかでパク・フンが演じた森少佐の比ではなかったはずだ。】
アン・ジュングンの希薄な英雄化は、本人ならびに映像世界の高級化(gentlification)も貢献している(「ジェントリフィケーション」は、都市再開発と人種階級の再構成などを意味し地理学的社会学的分野で使われる用語だが、最近では、そうした分野以外でも、よく使われるようになった)。そもそも場所が朝鮮でもなければ日本でもない、日本とロシアが実効支配している清の一部、満州であり、いうなれば無国籍地帯でもあり、風俗・文化も無国籍化している(しいて言えばロシア化)。暗殺をめざすアン・ジュングン・グループは、みな黒い扮装で雪景色のなかを移動する――当時の人間はあんな格好をして行動していたのだろうか。無国籍地帯の無国籍文化だからか。しかも映像は冬景色が持続する。
実際、冬を舞台にしたロシア映画を観ているようなところがある。寒々とした白い冬景色を背景に動く黒ずくめの人物たち。それが映像美と主題と物語を集約している。彼らは、白い世界を攪乱する黒い分子のようにみえる。あるいは寒冷地を目的地のみえないままひたすら歩く苦行の巡礼者のようにもみえる。それはまた先行き不透明な歴史のただなかに置かれた絶望の心象風景ともいえる。無国籍化、心象風景化、抽象化――これら映像の高級化に貢献する諸要素がアン・ジュングンを高級化する。アン・ジュングンはどこだ!?
忘れてはならない、アン・ジュングンを演ずるのがヒョンビンであることを。ヒョンビン主演の映画は『コンフィデンシャル』(17,22)と『ザ・ネゴシエーション』(18)くらしか観たことがなく、大ヒットしたテレビ・ドラマ『愛の不時着』(19)は観ていないのだが、一度映画で観たら忘れられない存在感の大きな俳優だし、実際、韓国では『愛の不時着』以前から、高く評価された人気俳優だった。多くの韓国人にとって、また日本人にとっても、なじみの顔を映画のなかでみることは、作中人物と俳優との距離化を生むことになる。知らない俳優がアン・ジュングンを演じていたら、アン・ジュングンの行動そのものが彼自身のものである。ところがなじみの俳優が演じていたら、アン・ジュングンの行動は歴史上の彼自身と俳優自身のものである。俳優の演技に対する関心とか意識がたかまり、演じられる人物を客観視することになる。没入感が薄れ、演技性が際立つとでもいえようか。その結果、人物は人間化されるというよりも、意味の集合体あるいは象徴体としてみられるほかはない。アン・ジュングンは民族主義者が歓喜し一体化するホットな人物ではなく、冷静にその行動と心情を観察できるクールな人物となる。しかしそれはアン・ジュングンの行動なり動機を掘り下げるための契機とはならず、人物をただ芸術的に造型する契機となるにすぎない。
アン・ジュングンはかっこいい。それは帝国主義者の老いたオオカミを倒した英雄としてのかっこよさではなく、ヒョウビンのかっこよさである。そしてヒョンビンという高評価の人気俳優を使ったことで、作品、映像自体の抽象化が高級化とむすびついたのである。アン・ジュングンはどこだ!?
結局、ナショナリズムのヒステリックで陶酔的な心酔によって英雄崇拝されたアン・ジュングンの幼稚で単純で粗雑な人物像を避けて、民族の精神と心髄、苦悩と絶望、そして忍従と希望、そうしたものを集約あるいは昇華したアン・ジュングン像は、美的性・抽象性・象徴性において高度な芸術作品的映像になっている。
そのことに疑いはないとしても、同時に、それは粗雑なあるいは単純なナショナリズム的英雄像の洗練化あるいは高級化にすぎない。英雄像の掘り下げもなく、英雄の人間化も中途半端であり、たとえていうのなら、子供が書いた下手な絵を芸術的な抽象画にみせかけるための画像処理をしたようなものだ。私が求めるのは反日映画でかまわないか(実際、朝鮮半島でおこなった日本軍の暴虐をみれば反日にならないのは人間の魂を欠いたゾンビでしかない)、歴史の真実に可能な限り接近する進化した物語であり映画なのだ。高級化でも洗練化でもなく、虚構であれ実録であれ進化した物語――それこそが望ましいのでは、映画の題材としても。アン・ジュングンはどこだ!?
「死刑執行人」の異名をもつナチスの副総督、ラインハルト・ハイドリヒの暗殺は、侵略する独裁者が地獄に落ちたぞ~と快哉の叫びをあげたくなるほどの快挙だったが、もちろん、ナチスにとって暗殺事件は「運のいいことに」起こってくれて、多くのプラハ市民を殺す口実を提供することになった。暗殺事件は代償が大きい。そのことにアン・ジュングンは悩まなかったのか。もし悩まなかったのなら、いかなる思いが彼を突き動かしていたのか。周囲もこの暗殺計画を止めようとはしなかったのか。実際、伊藤博文暗殺が成功しようと失敗しようと、その事件の余波で、日本による朝鮮支配が早まり激化することは予想できたのだから。
あるいは伊藤博文は農家の生まれながら武士となり明治維新を経て日本の元首にまでなった人物だが、朝鮮を植民地化することには消極的で、強硬な帝国主義者たちとは一線を画していたともいわれる。もちろん伊藤博文を暗殺の対象として選んだのはまちがいではない(暗殺そのものが正しいか否かとは別の問題だが)。また歴史の趨勢からして、伊藤博文ほど、抵抗勢力によって襲われ命を落とすふさわしい人は他にいない。だが、たとえ帝国主義者のパターナリズムとはいえ、朝鮮人民を保護しようとした伊藤博文が朝鮮人暗殺者によって殺されたのは、なんとも皮肉なことといわねばならない。もしかしたら朝鮮人民の救世主にもなっていたかもしれない伊藤博文が朝鮮人によって殺されたのは、アイロニーを通り越して悲劇といわねばならないが、映画『ハルビン』は、高級化に邁進するだけで、こうした事情を考慮することはない。しないどころか、リリー・フランキーという高名な日本の俳優を配役に加えるという高級化を達成するのだが、ひとかわむけば、リリー・フランキーが演ずる伊藤博文は相当悪辣な政治家にすぎない。それは台詞を聞けばわかる。
【実際、1909年10月26日(映画では真冬の雪景色が印象的だったが、緯度が高いので、10月でも雪が積もったということか。あるいは過剰な雪景色は象徴的機能を果たしているのだろうか)のハルビンにおける伊藤博文暗殺。1年後の1910年8月29日の韓国併合。そして1923年の関東大震災における朝鮮人大虐殺。朝鮮民族による抵抗と、日本による報復的虐殺というのが、この時間線において途切れることのない主題であるが、この主題は映画の高級化の前に消えている。】
映画『ハルビン』は、その高級化された映像表現によって、場面のひとつひとつが、高級化・芸術化されている。その映像や動画ひとつひとつが、過去と現在とを融合あるいは共存させるものであり、客観的でありながら主観的(心象風景的)でもあり、現実の出来事ながら空想の出来事でもあるという二重性を帯びている。それはドゥルーズが『映画論』で述べている「時間イメージ」としての映画なのだ。
歴史を再現する映画だから、そのような二重性なり多重性は当然のことと思われるかもしれないが、歴史を再現する映画は、「時間イメージ」の映画であるべきだと思われるかもしれない。だが、歴史再現ドラマだからこそ、映画は、その対極にある「運動イメージ」の映画であるべきだ。たとえ映画の面白さはドゥルーズが論じているのように「時間イメージ」としての映画であるとしても。また「運動イメージ」の映画は、ただ物語を展開させる平板な単純な映像表現であるとしても。
歴史を再現する映画の場合、観客は事件そのものを知っているだけではない。事件の前(過去)と後(未来)についても俯瞰的に知っている。観客は事件そのものについてだけでなく、事件の意味や象徴性についても知っている。そのことを観客にあらためて確認させるような映像となると「時間イメージ」的になるほかはない。
しかし歴史的事件の当事者たちは、俯瞰的視野をもたないし、事後的に生成される象徴性について知ることはない。彼らの当事者性をそこなうことなく映像化するとすれば、それは「時間イメージ」ではなく、ただ、過去も未来も、前後左右も、なにもわからぬまま突き進む歴史上の人物たちの行動を予断も偏見も事後的考察も排して提示する「運動イメージ」になるほかはない。
関ヶ原の戦いで、どちらが勝利するかについて、戦う武将や兵士たちは知るよしもない(たとえ予期はするとしても)。それを追体験するのが歴史物の醍醐味である。登場人物たちは限られた視野と限られた知識を基盤にして行動することで、行動の良し悪し、行動の成否が左右される。あるいは行動が必然的かつ変更不可能なものだったのか、逆に、別の可能性に開かれていたかも、登場人物を外からみるのではなく、登場人物に一体化することでみえてくる。
そのため真の歴史性あるいはもっと単純に歴史的迫真性を得るためには、事件を確定的過去と確定的未来との間に縛られたものとして静的・外在的にみるのではなく、過去も未来も不確定なまま、人物の決断あるいは賭けによって事件がかたちづくられるという動的・内在的にみることが求められる――出来事のひとつひとつを可塑性のある永遠の現在の相においてみるといってもいい。
なるほど俯瞰的・客観的にみる(全体化する)ことで真実が見出せるという考えかたはある。だがそのいっぽうで、内在的・主観的にみる(特殊・個別化する)ことでしか真実に到達できないという考えかたもある。実話に基づく映画、歴史性を前面に打ち出す映画の場合、すでに語られ、すでに映像化された有名な事件を扱う場合、どうしても全体的・俯瞰的な映像にならざるをえない。過去の出来事に未来の視点が入り込む。主観的な人物の言動に、未来からの客観的審判が下される。おのずとそれは「時間イメージ」となるのだが、その場合、教科書的な史実から一歩も出ることのない、ありきたりな歴史の教訓しか得られない、なによりも興奮させることのない、上から目線の映画になりかねない。
歴史から学ぼうとする場合、データを検討するだけでは不十分で、少なくとも頭のなかでデータを生きるあるいはデータを行為する、アクト・アウトact outすることによって、あくまでも頭の中でだが、歴史を血肉化できる*。その際、予備知識や出来事後の情報は意識して忘れるようにせねばならない。いいかえれば1回性の出来事のなかで可能態や現実態、選択肢の有無などを暗中模索することで、歴史を想像力のなかで生きることができる。
【*これは歴史ドラマではないが、問題のある事件を再現してその解決あるいは解決不可能性を探る試みとして、ブレヒトの教育劇を思い出してもいい。そこで賭けられているのは歴史から何を学ぶか、どのようにして学ぶかという問題でもある。たとえば登場人物たちを演ずる俳優たちが、たがいに役割を交換して同じ劇を演ずることによって、出来事と人物とを内在的に理解することができる。俳優どうし、役柄どうしの境界をなくすことで、他者の立場を理解するという方法はさらに、観客と俳優との境界をなくすという試みにまでいたる。とにかく歴史を理解するために、内在的に歴史的状況と人物とを再現・体験することは、以下に述べるように、ドラマや映画を「一人称的に」体験することである。】
ドゥルーズの分類「運動イメージ」と「時間イメージ」とはずれるかもしれないが、あえてずらして、これを「一人称的イメージ」と「三人称的イメージ」との対立とみなせば、歴史再現物語あるいはドラマや映画は、「三人称イメージ」の要素が強いことはたしかだが、歴史を体験あるいは体感し、そこから何かを学ぼうとするのなら、「一人称的イメージ」として物語なり映像を構築し、またそのようなものとして観る者も受容しなければならない【一人称映画とはちがう。あくまでも一人称的映画である】。それが歴史から学ぶことにもつながる。そして映画『ハルビン』には、歴史から学ぼうとする姿勢だけはないのである。
日本の極右勢力は、たとえば日本の閣僚が公人として靖国参拝をしないことを、どこに遠慮しているのかと批判することがある。それと同じ理屈でいえば、『ハルビン』は日本の朝鮮半島における暴虐を暴露して、とことん反日感情をあおってよかったにもかかわらず、いったい、どこに遠慮しているのかといわざるをえない。当時の反帝国主義運動、あるいは抗日運動を個人的な使命に――もっといえば、ゲーム化に――矮小化している。アン・ジュングンはどこだ!? 日本の官憲の弾圧も私怨に基づく個人的復讐に矮小化している。アン・ジュングンはどこだ!? いったい、どこに遠慮しているのか。
すでに述べたように映像の「高級化」は、むきだしの反日感情を抑えるか昇華させるように働いているかにみえる。しかし著名な人気俳優を配役に加えることを通して、またカメラワークによる映像美の実現を目指すことを通して達成される「高級化」も、一皮むけば、昔ながらの反日イデオロギーがすけてみえる。反日イデオロギーは悪いことではない。私などむしろ支援したいくらいだ。まともな日本人なら、日本の過去の帝国主義的暴虐と、今の日本の腐敗をみて公憤を覚えない者はいないだろうから。それを糊塗することなく、体感できるような映画こそが、アン・ジュングンをただの英雄ではない人間的存在にするか、従来にない超人的で高邁な英雄にするか、さもなくば英雄ではない悪辣なテロリストにするか、その途上に観客を置くことができる。あるいはアン・ジュングンも伊藤博文も、ただの対立項ではなく、植民地帝国主義とそれに対する抵抗運動の歴史の犠牲になった共通項であることがみえてくるかもしれない。
よく言えばこの映画は行き暮れているのである。アン・ジュングンを活かすことができなくて。アン・ジュングンはどこだ!?
