2025年07月17日

『F1/エフワン』

『F1/エフワン』(2025)のジョセフ・コシンスキー監督の映画についていえば、私は、ほとんど観ていて、印象的な作品が多い。『オブリビオン』(2013)はトム・クルーズ演ずる主人公が、忘れるどころか記憶力がありすぎて驚いたし、近年では『トップガン マーヴェリック』(22)の大ヒットも記憶に新しい。また山火事の消火部隊を描いた『オンリー・ザ・ブレイブ』(17)はほんとうに泣いた――まあ私が泣いたということを知ると、これからはじめてその映画を観ようとする人は、おそらく意地でも泣かないと思うので、申し訳ないことをしたと思いつつ、でもあれは泣けた。

カーレースの映画のみならず、カーレースそのものに全く無知で興味がない私としては――なにしろこの映画『F1』には、現役のレーサーが本人役で20人以上出演しているとのことだが、私は誰一人、わからず――、今回の映画は初めてのカーレース映画といってもいい。その意味で余計なことを考えず、新鮮な気持ちで観ることができたのだが。

というかたしかにそうだが、『F1』 を観た後、やはり気になって、ジェームズ・マンゴールド監督の2019/20年の映画『フォードvsフェラーリ』(Ford v Ferrari 別題Le Mans 66)を観てみた。なぜならこの映画は、2011年にマイケル・マンによって企画が進行してから、2013年にコジンスキー監督、トム・クルーズ、ブラッド・ピット主演による映画として企画が再出発をしたものの、最終的に、2018年マンゴールド監督、マット・デーモン、クリスチャン・ベール主演による映画として完成されたという経緯があるからである。

マンゴールド監督『フォードvsフェラーリ』において、元ドライヴァーでカーデザイナーのキャロル・シェルビー/マット・デーモンとカーエンジニアでドライヴァーのケン・マイルズ/クリスチャン・ベールのペアに照応するのが、『F1』におけるチームのオーナー役のハビエル・バルデムと老練のドライヴァー役のブラッド・ピットとなる。どちらもドライヴァーは、マーヴェリック(一匹オオカミ)である。『F1』のブラッド・ピットはマーヴェリックだが、『フォードvsフェラーリ』のケン・マイルズ/クリスチャン・ベールも結婚していて息子もいるのだが、性格的にマーヴェリックそのものである。

だがそれだけではない。主役にからむ女性が、ともにアイルランド系なのだ。

『F1』では、女性技術者のケイトに扮するのはケリー・コンドン。『ナイトスイム』(24)『プロフェッショナル』(24)そして『イニシェリン島の精霊』(22)に出演。

『フォードvsフェラーリ』のケン・マイルズの妻モリーを演ずるのはカトリーナ・バルフ。彼女はなんといっても連続テレビ・ドラマ『アウトランダー』(2014-)のヒロインで有名。

主要な配役からして、『F1』と『フォードvsフェラーリ』は基本構成を共有している。

だが、もちろん違いもある。F1レースとルマン24時間耐久レースとはレースの形式もレーシングカーの種類もちがうのだが、それとあわせて時代も違う。『フォードvsフェラーリ』は別題『ルマン66』が示しているように1966年でのルマン24時間耐久レースのことである。いっぽう『F1』は21世紀の現在が舞台である。また前者が実話に基づいているのに対して、後者はフィクションである。この違いが映画の決定的な違いとなる。

つまり『フォードvsフェラーリ』は実話に基づいているから、マーヴェリックが子持ちの亭主となっているし、実話に基づくからこそ、ビターな終わりにもなっている。優勝の歓喜と死の喪失とが踵を接して起こる。私のように何も知らない観客にとっては、衝撃的な終わりではあったが、歴史を知っている観客にとっては不可避的な運命の物語であった(その原因はいまも不明なのだが)。

いっぽう『F1』は実話の縛りはないから、万年Bクラスに甘んじてきたチームが、60歳近い老齢のドライヴァー(実はチームオーナーの昔の同僚)を雇い、チームの若いドライヴァーと競わせながら、その老獪な知恵による戦術に助けられて最後には優勝をはたすという架空の物語をつくることができた。女性は、チームの整備員として加わるだけでなく、チームのテクニカルディレクターとしても参加し、チームの司令塔となって活躍する。ブラッド・ピット扮するドライヴァーにはモデルがいるらしいのだが、また実際のF1レースのプロセスなり作業ルーティーンは正確に踏襲されているのだが、それらを除けば、物語は実話にじゃまされることなく、ハッピーエンディングへ向けてエンターテインメントのコースを疾走する。最終ランで、前方に立ちはだかるレーシングカーが一台もいないコースを運転席から観る幻想的ともいえる、そして至福の映像は、この映画のありようそのものを集約している。

『フォードvsフェラーリ』では、耐久レースの際に、ピットインした車を10分くらいかけて整備し、部品まで取り換えたあとレースに復帰するという場面がある。レースの形態と時代が異なるので比較は成立しないかもしれないが、『F1』では、ピットインしてタイヤ交換を3秒で終えてレースに復帰するという場面がある。1ミリもミスが許されない驚異の整備作業だが、システムと時代の違いだけではすまされない、なにか世界線が異なる出来事を観ている感じがする。

たとえば『フォードvsフェラーリ』では、ドライヴァーへの指示は、チームのメンバーがコースの端で指示を書いた黒板を掲げてすませる。ル・マンではない別のレースで、チームのリーダーのマット・デーモンが最後の賭けに出て、死ぬ気で走れというような指示を自分で黒板に書いて、走行中のクリスチャン・ベールに提示するという印象的な場面があったが、21世紀のF1では、指示はすべて無線でドライヴァーに伝わる(実際、高速走行中のドライバーがボードに書かれた指示を見落とすか読み取れないことは多々あるだろう)。いやそれだけではない、ドライヴァーは走行中に判明する問題点をチームに無線で報告したりするが、チームのテクニカルサポートグループは、そうした報告を待つまでもなく、車の状態は逐一チェックしている。実際、走行中のレーシングカーは、ドライヴァーがいなくても、無線でリモートコントロールできてしまえるのではないか。レーシングカーに搭載したAIが状況を独自に判断し、遠隔操縦と瞬時の状況判断による戦術構成によって、人間がいなくてもレースを成立させてしまうのではないか。

もしそうなら、今後のレースは、どのチームも過去の経験(ときには過去の優勝経験)を活かしながら地道に、チームのテクニカルディレクターの指示に従い、ドライヴァーに安全走行させ、あとは粘り強く優勝を狙うしかない。テクノロジーとチームワークが重要となる。そして、わくわくするような冒険的要素はもうなくなる。

『F1』を観て、カーレースについての素人が、まさに素人であるがゆえの率直な感想を抱いた結果がこれである。将棋とかチェスの世界で、人間がコンピューターと対戦することがあるが、F1レースでは人間vsコンピュータどころか、コンピュータvsコンピュータになってもおかしくないのではないか。20世紀のレーシング映画のタイトル『フォードvsフェラーリ』は、21世紀のレーシング映画のタイトルとしては『人間vsコンピューター』あるいは『コンピューターvsコンピューター』がふさわしい【AIという言葉を使うべきかもしれないが、AIvsAIだとローマ字だか数字が横並びになるのは見にくいのでやめた。】

問題はドライヴァーなのである。そしてドライヴァーは、この種のジャンル(つまりシステムに組み込まれないことが美徳でもあるような生き方を描く)において定番となっているマーヴェリックだからではなく、カーレースにおいて早晩マーヴェリックにならざるをえない運命にある。『フォードvsフェラーリ』でケン・マイルズ/クリスチャン・ベールが妻子のある中途半端なマーヴェリックであったのは、実在した人物をモデルの映画化だからという理由のほかに、排除され邪魔者扱いにされる真のマーヴェリックになる途上にあったドライヴァーという理由もあろう。

『フォードvsフェラーリ』の最後におけるケン・マイルズの事故死は、実話に基づいているだけでなく、ドライヴァーの消滅という運命を先取りしていたともいる。いやその前に、彼は、フォード車が三台そろってゴールインして優勝を分かち合うという企業側の宣伝戦略に譲歩したがゆえに、単独優勝という栄誉を逃し、二位に甘んじなければいけなかった。そのときに彼はもうすでに死んでいたともいえるのだが。

『F1』ではブラッド・ピットは優勝をするのだが、チームからは去る。彼は自身がチームに不用だと悟ったからである。ひとつには若いドライヴァーが力をつけてきて、彼にチームを任せてもよいと判断したから――実際、この若いドライヴァーは、チームをまとめる統率力という点において、一匹狼のブラッド・ピットよりも圧倒的に優れている。そして、一般的なこととして、F1のような高度にシステム化され電子化されAIと企業論理に支配されるカーレースにおいて、ドライヴァーは無用の長物であると悟ったからである。

ドライヴァーが不用だということは、『F1』では逆にというか逆説的にドライヴァーがいなければ優勝できなかったというかたちで立証される。ブラッド・ピット扮する老獪なドライヴァーは、規則を破るか破らないかの瀬戸際のところで、違法すれすれの戦術を駆使して、チームの順位を上位へと押し上げる。基本的にマーヴェリックだが、それでもチームワークを重視して、同じチームの別のドライヴァーに花をもたせようとするまでになる。最後は、小細工をするのではない正攻法での走行によって優勝を勝ち取るのだが、それは、彼の戦術によって、もう一人のドライヴァーが上位に食い込んだおかげである。そしてこのもう一人のドライヴァーが一位争いをするなかで、接触事故が起こり、ブラッド・ピットにチャンスがまわってきたという偶然の要素もある。

狡猾な小細工と偶然の助力。このふたつは常態化することはできない。ある意味、一度限りである。ブラッド・ピットの叡智あるいは狡知によってチームは優勝できたが、それは一度限りの奇跡なのであって、簡単に繰り返すことはできないし、蓄積され継承されることはない。いうなればそれは規則の存在を保証する例外のようなものである。ブラッド・ピットの活躍がすばらしければすばらしいほど、その例外性が際立ち、ドライヴァー無用の前提は強化されるだけである。

あるいはこうもいえる。機械化され電子化されシステム化されコントロールされたカーレース、チームが一糸乱れぬ統率力でもって一丸となって取り組むカーレース、そのなかで唯一の不安定要因あるいは不確定要因は、ドライヴァーである。予測不可能な行動をとるというだけではない。人間であるからにはミスをするかもしれない。そのためどんなにマシンをモニターしコントロールしても、ドライヴァーが予測不能な事態をいつ何時でも引き起こし、それがマシンに、ひいてはレースにも甚大な影響をおよぼすかもしれない。やはりドライヴァーは不必要なのか。不必要である。だが、この不安定要因がなければレースは面白くない。レースに参加するチームのクルーにとって、レースの真骨頂は、マシンが故障もしくは不調なときである。レースを観戦する観客にとってレースの醍醐味は大小さまざまなアクシデントである。レースの邪魔をするドライヴァーはレースの醍醐味を生成しうる。それは、陸上競技において走者の滑らかな疾走を妨げる障害物のようなものである。カーレースは直線コースだけを用意しているのではない(ドラッグ・レースはべつだが)。曲がりくねった曲線コースをつくり、そしてドライヴァーという障害物を前もって用意しているのである。ドライヴァーは最後の、わくわくするような冒険的要素なのである。

カーレースは、参加者が外なる敵(走行しにくいコース、相手チームの車)だけでなく内なる敵(すなわちドライヴァー)とも戦う過酷なレースである。ただ、そう考えると、マーヴェリックのブラッド・ピットの違法すれすれな戦術によって予定変更を絶えず余儀なくされながら、なんとか最後の優勝までこぎつけたというのは、マーヴェリックを抱え込んだレースチームの例外的な(不運あるいは幸運な)出来事ではなくて、実は、カーレースそのもののお馴染みの出来事なのである。どのチームもドライヴァー=マーヴェリックを抱え込んでいる。ドライヴァーとの戦いこそが、あるいはドライヴァーという歩く無軌道・歩く破天荒・老練なマーヴェリック(さらにいいかえれば最後の冒険的要素)をいかに手なずけ、レースに貢献させるかが(危険をものともせず、死んでもおかしくないドライヴァーをいかにして死の淵から生還させるかが)、レースの勝敗を左右するのである。

ドライヴァーは不要だが、ドライヴァーほど必要なものはない。ただしドライヴァーはその否定性や例外性において必要とされるのである。犯罪者は文明を崩壊させるかもしれないが、機能的社会学では、犯罪者がいなければ文明は維持できないと考える。同様に、カーレースは、どんどん洗練化されシステム化されるにしたがって、ドライヴァーを無用の存在となる一方で、ドライヴァーを切望するのである。ドライヴァー、この最後の冒険的要素なくしてカーレースはありえない――ちょうど犯罪者なくして文明が存続しないのと同じように。

ただし、ドライヴァーにとっては、そのように否定的に存在を確保され必要とされるのは、嬉しいことではないだろう。むしろ怒りと悲しいみをもたらすことだろう。それは好かれることではなく嫌われること、愛されるのではなく憎まれることのなかに存在価値があるというのだから。

映画の最後にブラッド・ピットが安らぎを見出すのは、ドライヴァーが、その個性と能力を存分に発揮できるカーレース、「バハ1000 (Baja 1000)」である。「バハ1000 」――「メキシコのバハ・カリフォルニア州にあるバハ・カリフォルニア半島で毎年11月に行われる自動車と二輪車のデザートレース」(とWikipediaにある)。巨額の賞金や準備金が費やされることのない、また高度にシステム化されていない、車と自然と人間が一体化できる、ある意味牧歌的な(砂漠だが)、ノスタルジックなカーレース。これが彼にとって救いの場となる。優秀なドライヴァーが自らの存在価値を横領されることなく、否定性あるいは例外性においてネガティヴに評価されることない、数少ないカーレース。そこに最後にたどり着く映画『F1』は、ある意味で、レース・ドライヴァーへの賛歌でありまた鎮魂歌なのだ。
posted by ohashi at 11:32| 映画 | 更新情報をチェックする