公開初週よりも週を重ねるごとに観客数が増えてゆく映画としては『国宝』の前に、『教皇選挙』があった。見かけたところ、似ても似つかぬ両作品だが、しかし、似ているところもある。血とか世襲、あるいは伝統に、集団の将来をゆだねるか、脱世襲・脱伝統のよそ者に希望を託すかという点では、同じ主題を共有しているといえようか。
もちろん、共有されているのはそれだけではない。ただしそれ以上に差異も目立つのかもしれない。『教皇選挙』は、爺さんしか出てこない映画という評判が若い人の間に広まっていた。それは確かにそうなのだが。いっぽう『国宝』は若いアイドル的な俳優が主演とあって、若い観客層を動員している。この違いは大きい。とはいえどちらもよい作品で、多くの人が映画館で観ることになったのはよかった。私は両作品を複数回観ている。
アマデウス
ピーター・シェーファー作の戯曲(映画化もされた)『アマデウス』は、その才能を神に愛された天才作曲家モーツァルトを、人間的には精神的発達のみられない幼児的人間として提示して観客を驚かせたのだが、実際のモーツァルトは、そこまでひどい人間ではなかったようだが、同時に、どうしようもない性格破綻者という面もあったようで、まったくの虚構というわけでもなかったようだ。うんこの話をするときだけ盛り上がったモーツァルトにとって、その音楽的才能は、神から与えられ、また神に愛された証拠でもあったのだが、それとひきかえに人格的には成長を阻まれ、みかけは大人だが心は子供のままというアンバランスな状態を余儀なくされた、つまり神から愛されたモーツァルトは神から呪われていたのでもあった。
映画『国宝』においても、「芸」を極める歌舞伎役者は、その過程で、芸に身をささげることで、自分自身を見失い、人間性を失い、さらに多くの人間を犠牲にしてゆく。芸に精進することは、悪魔に魂を売ること、あるいは悪魔との契約をむすぶことだということが鮮明に打ち出される。
幸福の約束
その芸は、観る者を幸せな気分あるいは正月を迎えたような晴れの気分にさせてくれるのだが、その幸せの約束は、悪魔に魂を売った「人間国宝」によってもたらされるのである。
この場面、映画の終幕において、人間国宝に選ばれた立花喜久雄/花井東一郎/吉沢亮に取材したカメラマンの女性(瀧内公実)が、自分と母親を見捨てた父に対して、自分の正体を明かし、思いのたけを言い放つのだが、そのとき、あなたのことを父親と思ったことはないが、あなたの芸はすばらしい、人を幸福にすると言ってのけるのである。
【なお以下のネット記事参照:「ciatr[シアター] 物語と、出会おう。
『国宝』のネタバレあらすじを解説!喜久雄はラストシーンでどうなったかまで徹底考察!2025年6月24日更新 茂木たまこ」
その一部を引用すると:
数年後。俊介はこの世を去り、喜久雄は人間国宝に認定されます。インタビューで「ずっとある景色を探している気がする」と語る喜久雄。カメラマンの女性は、彼に「藤駒という女性を覚えていますか?」と問いかけます。彼女は喜久雄の隠し子の綾乃(清原果耶)だったのです。
この執筆者、茂木たまこ は、瀧内公美を清原果耶と間違えている。いったいどうしたら、そんな間違いができるのだ。おそらく映画を観ずに記事を書いているのだろう。地******】
だが幸福を約束するその芸の担い手であり日本一の歌舞伎役者になった人間国宝の男のこれまでに人生は幸福なものではなかった。人間国宝に選ばれたことを祝福するとき、取材側は「順風満帆な人生」という言葉を使うが、映画の観客にとって、親が殺され、三代目に選ばれても後ろ盾がいなくなり、一度は梨園を追放された男のどこが順風満帆なのかと、あきれるしかない。幸福の約束をもたらす芸の担い手の人生は決して幸福なものではなかった。
ブレヒトは、ユートピアを目指す運動に身を投じた自分たちの人生や日常は決してユートピア的なではなかったという詩を残したが、人を幸せにする芸の担い手は、決して幸せではなかった。いやそれどころか、芸に食い尽くされてしまったというほかはない。
女形で人間国宝の小野川万菊/田中泯は、喜久雄と初めて会ったとき、「美しいお顔。でも芸をするなら邪魔も邪魔。そのお顔に食われないように」と忠告する。この忠告は、いろいろな含意があって考えさせられるのだが、含意をひとまず無視すれば、結局、喜久雄は、その顔に食われてしまうのではないだろうか。顔に食われ、最後には芸に食われる。
喜久雄/吉沢亮と俊介/横浜流星が二人藤娘で共演するとき、俊介の父親花井半二郎/渡辺謙は息子の俊介に「歌舞伎役者の家に生まれたという血筋が守ってくれる」といい、喜久雄には「体が覚えこんだ芸が守ってくれる」という。ここで血筋が才能かという二項対立が主題としていよいよ明確になり、その対立が以後の物語を牽引してゆくように思われる。
その才能によって喜久雄は名跡を継いで、三代目になるところまでゆき、血筋ではなく才能が物をいうことを立証するように思えるのだが、出奔していた俊介がもどり歌舞伎に復帰することで、喜久雄は歌舞伎界から無視されやがて追放される。それはヤクザの息子であり隠し子がいるというスキャンダルによって冷遇されたのか、冷遇され追放されるべくスキャンダルが公になったのか、はっきりしないまま、血筋の前に喜久雄は敗退するのである。
呪われた血
しかし血筋か才能かという二項対立は、意味をなくしてゆく。血筋だけで才能がなければ歌舞伎役者として大成はしないということだけではない。背中に大きな入れ墨がある人間が人間国宝に選ばれるという、ある意味、快挙ともいえる事件が起こるからでもない。そもそも花井半二郎、花井半也という花井家の血は、重度の糖尿病の血であって、この血は花井半二郎から視力と命を奪い、その息子、花井半也からは足と命を奪う、呪われた血でしかない。
この糖尿病の血は、花井の名跡を守ってくれるどころか、破滅と死に追いやるのである。この花井の血にはなんのアドヴァンテージもない。なんというアイロニー。花井家の親子は、その呪われた血に食われてしまうのである。
いっぽう血筋はなく芸一筋で生きていく喜久雄にしても、すでに述べたように、芸に身をささげることで、自分の人間性を失い、自分を支えてくれる女性たちをつぎつぎと犠牲にしてゆく。梨園を追放されて地方営業に身を落とした喜久雄に献身的につくす彰子/森七菜が、喜久雄の関心は踊ること、芸にしかないことを悟り去っていったように、喜久雄には現実の女性への奉仕に感謝する気持ちなどまったくない(ここでもアイロニーが見え隠れする。彼の背中の彫り物はフクロウの図柄だった。それは感謝の気持ちをあらわすものと少年時代の彼は述べているが、彼が人生のなかで誰かに感謝することは一度もない)。
喜久雄は累々たる屍を乗り越えてただひたすら芸に精進するのである。ある意味、ライヴァルの俊介が糖尿病の血に食われたように、彼もまた芸の道に食われてしまうのである。
こうしたアイロニックな関係性が、映画のなかでは強調されているかのように思われる。したがってみずからの芸で復讐をせよという忠告もまた、むなしく響くしかない。いったいなんのために、誰のために復讐するというのか。ヤクザ同士の抗争のなかで命を落とした自分の父の仇をとるということなのか。
たしかに映画の終幕、人間国宝となった喜久雄は、ある景色を追い求めていたと語り、それは雪がふりしきる夜の光景であると映像的に説明される。となるとそれはまたヤクザ同士の抗争のなかで命を落とした自分の父の死の光景と結びつく。そこで人間国宝として最後の踊りをまったあと、雪にみたてた紙吹雪をみて美しいと語る喜久雄は、なんとなく復讐をはたしたような感じがする。事実、少年時代には父の仇をとろうとして失敗した彼は、いま人間国宝となり日本一の歌舞伎役者になって……。復讐?芸で復讐?
そもそも復讐に役立てられたり、復讐の道具になったりするような芸は、芸でもなんでもない。芸を磨き、芸を身につけるのは個人だが、身についた芸は、個人を超え、個人の意思で左右されるようなものではなくなる。個人を超越する大きな存在となる。
芸を磨くのは個人だが、その芸を完成させたときには、個人は消滅する。芸に個人が食い尽くされたとき芸は完成する。吸血鬼のような芸に、血を吸われて食い尽くされて死ぬときこそが芸の完成なのである。
喜久雄の父親は、ヤクザの親分として抗争のなかで命を落とすが、雪のふりしきる夜の中庭で銃弾に倒れるその姿は、ヤクザとしての理想的な最期、美しい死なのである。父親は死ぬことでヤクザとしての人生を完成させた。
喜久雄が師事した花井家の二代目と、その御曹司は、ともに糖尿病の呪われた血によって命を落とす。血筋は、守るどころか、殺すのである。だが、殺す血筋こそが、本筋であって、血が守るというのは自分勝手な妄想にすぎない。また血筋が殺すというのは、歌舞伎の名門に生まれた者にのしかかる伝統とか芸道の重さを暗示していよう。花井家の親子は、糖尿病によって命を縮めるのだが、それはまた名門に生まれた者にとっての避けられぬ宿命そのものだったともいえる。彼らは血筋によって死んだのだが、それは芸を全うしたともいいかえられるのである。
喜久雄の場合も、歌舞伎の血筋ではなくヤクザの血筋が死の美学へと彼を追いやったといえないことはない。だがそれは歌舞伎の芸を極めることと矛盾・対立はしない。ヤクザ道に殉死するのと同じように、彼は芸道に殉死する。彼にとってはタナトスしか存在しないーー彼が観ているのも、それである。自分の美しい死。
実際、映画のなかで示される歌舞伎の舞踊や場面は、どれも死の場面であることは特筆に値しよう。人間国宝になってからの最初の踊りは、おそらく最後の踊りでもあって、舞台で死に絶えたという役を終えた彼が立ち上がるとき、それは幽体離脱によって魂だけが起き上がったかのようにみえる。おそらく最後の踊りで彼は死んだとも考えられる。芸に食い殺されて死ぬことが彼の芸の完成であり彼の望むところでもあったのだ。それはまた雪の降りしきる夜の庭で殺された自分の父親と同じような美しい死を実現したことの満足感でもあったのだろう。
人間国宝となった喜久雄は最後に芸を完成させる。それはまた芸に食い尽くされ、芸に殉死することでもあった。
つづく
