ラストに抱いた“2つの違和感”とは…映画『教皇選挙』はなぜこれほどヒットしているのか?《興収10億円突破》 山田 集佳 によるストーリ2025年5月30日
凡庸な記事なので、とくに取り上げるまでもないのだが、また映画の最後の部分に触れているので、ネタバレにならないように語らねばならず、めんどくさいのだが。
要は、映画の最後にあるサプライズがお気に召さなかったということのようだ。映画の結末では、無事に新教皇が選ばれるのであって、そこに驚きはないのだが、しかし、新教皇の正体についてサプライズが用意されている。そしてそれについてライターが苦言を呈しているのだが、簡単にいえば、センセーショナリズムを優先して現実の病人をただダシに使ったことが問題だということのようだ。
しかし、この映画とは関係ないが、たとえば同性愛者をセンセーショナルに扱うことで、同性愛者の苦悩への配慮がたりないというコメントがあるが、それらが往々にして同性愛者への嫌悪、同性愛を扱うことへの嫌悪(たいてい違和感という言葉が使われるのだが)を隠し持っているのと同じく、ここでも、病人に配慮しているかにみえて病人への嫌悪感が、そしてそのようなテーマへの嫌悪感がにじみ出ている。
商業主義によってセンセーショナルに扱うことが、問題になる場合と、むしろ抑圧されたものを露呈するというかたちでセンセーショナリズムが歓迎される場合と、ふたつのへの場合が考えられる。この映画の場合、最後にセンセーショナルな事実を用意して観客の度肝をぬくとまではいわなくとも、観客に驚きを用意したというのが、製作者側の意図だろう。それが批判されるべきものか、歓迎されるべきものかは、簡単には決められないが、たとえ安易なセンセーショナリズムだとしても、このようなテーマの露呈はあまりないので歓迎すべきだということはいえる。
と同時に、最後の部分をとりあげるときに忘れられがちなのは、これが、たとえ冗談の一種だとしても、カトリックの伝統に沿っていることである。というかカトリックの伝統に触れていることである。歴史上実在したかどうかわからないというか、確かな証拠はないとしても、同時に、風聞とか伝説として(タロットカードにまであらわれる)まぎれもなく存在してきた、このカトリックならではの存在が、カトリックの歴史と特徴を裏から照らし出すようなかたちになっているのは、なんとも面白い。
最後のサプライズを取り上げるときには、すくなくともこのことは忘れてもらっては困ると思うのだ。
