私が18歳になるまで住んでいた家は、21世紀の初めころまで、まだ残っていったが、10年くらい前だったか、一人で訪れたときには、そこはすでに更地になっていて、住んでいた家は跡形もなかった。また周囲にはロープがはりめぐらされ、中に入れないようになっていた。そうした更地を前にすると、誰もが、そこで暮らしていた過去の生活、家族の行く末、自分の人生にいろいろ思いをはせることになろう。
太田省吾作『更地』は、かつての住居で、いまは更地になった場所を訪れた、おそらく中年の男女(夫婦)が、そこでの暮らしていたころの家族の生活を断片的に回顧するという芝居というようにみえる。それだけではないとしても(たとえばこの夫婦はほんとうは死んでいるのかもしれないとか)、それが舞台のいまとここで起こっていることだとは誰にもわかる。
更地は廃墟とちがって、物理的に残存物はない。何もない。痕跡もない。ただまっさらな土地だけが露呈している。かつてのその土地での、その土地に建っていた家屋での生活は、記憶のなかに、それも部分的・断片的に存在するだけである。
そのため過去の家族の生活を思い出すといっても、まるごと全体的に復元することなどできず、まとまりのない記憶の断片をランダムに拾いあげることしかできない。そのような状況での過去の想起は、教科書に載っているような過去の事件の確認とはならず、また過去の復元をめざしたり可能にするようなものではなく、かえって過去の喪失感を増大させる。
しかし、まさにそのことによって、過去の何気ない記憶の断片が、相互連関を欠いて、ただ捨てられたゴミのような、壊れた何かの破片として、光り輝きはじめる。更地になったからこそ、すべて失われたからこそ、それでも残存する微細な断片がノスタルジアを光源とする光のなかできらめきはじめる。暗闇を貫く光線が、無数の塵を輝かせるように。失われたもの、用途をなくしたもの、完全消滅寸前ながらそれでもかすかに残った破片が、かすかに輝きはじめる。そのひとつひとつが「黄金の時」を今一度出現させる……。
と、こう考えると、これはいかにも太田省吾ワールドではないだろうか(私は太田省吾の専門家でもファンでもないのだが)。太田省吾作『更地』は、『太田省吾 劇テクスト集(全)』(早月堂書房2007)で読むことができるのだが、すでに絶版のこの本は高額の古書となっていて簡単に入手して読めるものではない。ただ今回の上演直前になって、「戯曲デジタルアーカイブ」(日本劇作家協会)で簡単に読めることを発見した。気づくのが遅すぎたので、とくに長い作品ではないのだが、今回の上演前に読むことはできなかったが、上演後、あわてて読んだ。
なにが起こっているのかわからなかった舞台を、少しでも理解できるためにとは思わなかった。太田省吾作の『更地』のテクストを読んだら、すべてが解決するとは夢にも思わなかったし、むしろさらに謎が深まるのではないかと予想されたので、太田省吾のテクストと、荒井遼氏の台本と演出を比較するつもりで『更地』を読んでみた。
太田省吾作『更地』は、すでに述べたように、何が起こっているのかは、なんとなくわかる--たとえそれだけではないとしても。ところが荒井遼台本・演出の『更地』はいろいろなものが盛り込まれていて、よくわからない。「今日ご覧頂く演劇は一本の糸ではなく、沢山の挿話が混じるより糸です」とある。世界線が複雑にからまりあう。しかも、どれがどれかもよくわからない。
こうなると太田版「更地」と荒井版「更地」は、同じでありながら、同時に、異なる様相を呈しているのではないかと思えてくる。
というのも太田版「更地」は、人為的な形跡を、装飾物を、夾雑物を、すべてそぎ落とし、ただむき出しの地面がそこにあるだけの、消滅したものたちの平面であるのに対して、荒井版「更地」は、夾雑物や対立物を飲み込み、また吐き出す、矛盾にみちた、名状しがたい、それでいてなにかリアルな平面あるいは空間であり、さながらブラックホールのようにすべてを飲み込み統一体をつくることなくただ溶解するだけにみえて、ホワイトホールのようにあらゆる可能性を放出する豊穣の源泉でもあるような、終末と消滅の場でありながら、同時に始原と創発の場でもあるという二重性を帯びた場となっている。
それは「0(ゼロ、サイファー)」そのもののありようと似ている。「ゼロ」はすべての終わり、消滅・壊滅・消失・空虚・無・死でありながら、またそれは1へと向かう起点にして始原、生成と生誕の契機でもある。「0」には、消滅・崩壊と無限・増殖が、死と再生が共存している。そのような場として荒井版「更地」は設定されているように思われる。またこれは太田版「更地」にも可能性の中心として内包されていたことでもある――なにもない場所が布で覆われそのなかで男女二人がうごめくという太田版『更地』では、「更地」は廃墟でも死滅の場ではなく、たとえ記憶による媒介であっても、生成の場でもある。荒井版「更地」は太田版「更地」を、もちろん継承しながら(舞台を覆う布は荒井版でも健在である)、さらに実現していない可能性をつかみとり、それを全面開花させただけでなく、さらなる変容と新たなる可能性を露呈させた。
簡単にいえば、荒井版『更地』は、太田版『更地』のよいところをうけつぎながら、それをさらに発展させたということである。
しかしだからといって、舞台が了解可能になったということはなく、さらに謎めいたものになったのだが、とにかく矛盾したものを共存させる稀有な場として「更地」が露出したということだけはわかる。
実際、この二人の男女は、生きているのか死んでいるのかわからない。彼らは空間を旅して、かつて住んでいた場所/更地にたどり着いたのか、それとも時間旅行して空想と幻想のなかで過去の生活をなつかしんでいるのか。ここはほんとうに彼らが暮らしていた場所の更地なのか、過去への時間旅行の基点となる、どこでもよい場所/更地なのか。彼らは過去の生活から決別して遠くへと旅してきたのか、それとももどってきたのか。人工衛星のヴォイジャーは永遠に宇宙を旅するのか、あるいはいつか戻ってくるのか。地球も太陽も、ものすごい速さで宇宙を旅しているが、同時にそれは回転・回帰運動でもある。線的運動と周回運動の共存。教科書に載っている戦争という話がでてきたが(それは太田版から継承されたものでもあるが)、戦争が起こったあとのすべてが廃墟となりすべてが更地となったポストカタストロフの世界に二人の男女は生きているのか。なにか血なまぐさいことが起こっているかにみえるところがある。それとも彼らは失われた世界にもどってきた亡霊たちなのか。ここは天国なのか地獄なのか。あるいはその両方なのか。
そもそも太田版にはなかった子供たち(パンフレットには10名の子供たちの名前が記載されている)は劇のはじまりから、劇のおわりまで、随所に登場するが、彼らが何者なのかは、最後までわからない。最初の内は、舞台で遊んだり飛び回ったりしているだけだが、やがて台詞を発しはじめる。設定として彼らがどのような存在なのか。彼らは生きているのか死んでいるのか。彼らは二人の男女とどのような関係があるのか。わからないまま、あるいはさまざまな解釈を生成しながら、舞台に宿る精霊たちのように思えてきた(たぶんこの解釈は荒井氏の意図したものではないと思うのだが、自由な解釈として許してもらえるかもしれない)。
なにもない場でありながら、無限の豊かさを共存させる平面あるいは空間としての更地は、おそらく太田版でも意識されていたように思うが、荒井版ではさらに、その実験をとおして、ますます強固に立ち上げられたと思うのだが、まさに舞台のイメージそのものである。舞台上に立ち上げられた更地/舞台。演出家ピーター・ブルックのエッセイ集のタイトルから借りれば、「なにもない空間Empty Space」。まさに更地こそ、なにもないが無限の可能性を秘めた神秘と魔法の舞台空間のことである。
【『更地』の英語版タイトルはVacant Lotである。これは不動産的というか平面的・土地的なものを強く意味している。ただし「なにもない空間」も、ステージ・板そのものを意味している。】
しかも、それだけではない。太田省吾作『更地』を演出する荒井遼氏は、演出すると同時に、新たな構成を行い、発展的追加・修正を行ない、復元的演出ではなく、創造的な新たな『更地』演出を実現した。太田省吾『更地』をいったん更地にして、その記憶によって過去作品をよみがえらせながら、その更地のうえに、荒井氏は自身の『更地』を構築あるいは再構築された――もしかしたら「脱構築」されたというべきかもしれないが。
実際、太田省吾『更地』の最後には附言として以下の記載がある。
旅についての言葉は、池澤夏樹氏のエッセイ「衝動の深い起源」を、蝉についての言動は、
森繁哉氏の「踊る日記」を、そしてプロローグの物語は、エスキモー族の民話「家がいきていたころ」を、それぞれ勝手な書きかえをしながら使用させていただきました。
いっぽう荒井遼氏もパンフレットの付記で次のように記している:
今回の台本作成にあたり、デイヴィッド・アーモンド氏、佐治晴夫氏、藤原新也氏の著作よりインスパイアされ、それぞれ自由な書き換えをしながら使用させいただきました。
と。今回の『更地』が太田版『更地』を、たんに復元的再現するのではなく、「勝手な/自由な書き換えをしながら使用した」成果なのである。
そう、今回の『更地』は『更地』を更地にして、あらたな『更地』を作り上げた。ある意味で、メタ演劇的試みでもある。
そしてこうした重層性のなかをさまよわせてくれた荒井遼氏の刺激的演出には、どんなに感謝しても感謝しきれない。また子供たちを演技指導してよくここまで動かすことができたのかと、子供たちの才能とともに、優れた演劇指導者としての演出家の技量を賞賛したい。また荒井氏の演出による舞台は、若い魅力的な美男美女の俳優たちにつねに恵まれていることを、今回の上演でも痛感した。
だから最初の記事の最後の言葉をここでも繰り返させていただこう。3日間5公演で終わるのは惜しい、またいつか再演のあることを。
