2022年に荒井遼氏の演出で上演されたフィル・ポーター作/大富いずみ訳『BLINK』が、2025年4月5日と6日に、新国立劇場小劇場で、阿蒐彌氏の演奏を伴奏とする朗読劇として、同じく荒井遼氏の上演台本と演出によって上演された。
すでに終わった上演であり、また男女二人による4回の公演(演者は相葉裕樹・石田亜佑美・笹森裕貴・能條愛未・木原瑠生・小泉萌香・櫻井圭登の7人、石田亜佑美氏が2回出演なので演者は8名ではなく7名)なので、そのうち1回しか観ていない私は公演全体を判断できないのだが、同時に、残りの3回の公演が、まったく様相を異にするとも思えないので、公演は成功だったと判断してもまちがいではないと思う。
以前、朗読劇ではないフィル・ポーターの『BLINK』 をみせていただいたとき――ちなみに初めて知る作品だったので、原作を読み込んで予習をして観たのだが、観劇後、荒井遼氏に作品について素朴な質問をしたところ、丁寧に、しかも説得力のある答えをいただき感動しつつ、私の読みが甘かったこともわかり、以後、荒井氏の演出による舞台には絶大な関心と抱きながら接し、そのつど深い感銘を受けている。
前回の『BLINK』で唯一問題なのは、そのタイトルで、もちろん見るとか見ないとか、見逃すとか、みつめるといった視覚のテーマと連動したタイトルなので、文句のつけようがないといえばそれまでなのだが、しかし、この演劇作品における男女の関係は、別のメタファーでも表象できそうにも思うので、直接的に引き込まれるようなタイトルではない点が惜しまれる。
【なおこのブログでも書いたのだが、私は以前、エレベーターで後から乗って来た男性に私の存在が認知されていなくて、先に降りたその男性が、エレベーター内に別の人間(私のことだが)がいたことがわかって、びっくりしていたことがあった――ほんとうの話である。この演劇作品の女性と同じように透明人間として扱われることが多い私は、ひどく共感した記憶がある。
また見守りカメラのようなものがあることを、前回の上演で初めて知った。私自身、介護用の見守りカメラを必要とするような老人であるにもかかわらず。もちろんこの作品では赤ん坊用の見守りカメラであるが、原作では英語で示されたので最初はなんのことかわからなかった。】
前回原作を読んだときに、男女二人のアクションというよりは語りで進行する部分もあって、二人が語っていることを、まずは丁寧に読み、劇場ではその語りに耳を傾けた。いっぽうで視覚的要素なり装置を主題として活用しながら、もう一方で語りの要素を強く打ち出していたことを、今回の朗読劇をとおして、発見させてもらった。それは言葉と光景の競合であり共作の劇であることをあらためて知った。
個人的には朗読劇というのはあまり好きではない。もちろん台本をすべて暗記してリハーサルを繰り返して準備をして、その後、長期間公演というのならまだしも1日から数日の公演で終わるというのは、なんとも時間とエネルギーの無駄であって、ならば朗読劇として公演するほうがいいのかもしれない。古今東西存在する演劇作品のほとんどは、読まれるだけで上演されることはない。演劇はパフォーマンス芸術ではなく実のところ読むものである。したがって読まれるしかない演劇作品を少しでも上演に近づける試みとして、朗読劇のその意義はどれほど強調しても強調したりないだろう。
にもかかわらず、朗読劇と実際の上演には差があるというか次元が異なる。たとえばシェイクスピア劇は、名台詞も多く、朗読劇としても十分に鑑賞にたえると思うのだが、しかし舞台化されるときの迫力なり感動は、朗読劇とは別次元である。これと同じで、朗読劇と舞台との間には、なにか変容というか化学変化が起こる。そのため朗読劇は、どうしても舞台上演の廉価版というイメージが付きまとう。
しかし、今回の『BLINK』は、荒井遼氏の台本そのものも大きく貢献していると思うのだが、最初から朗読劇として創作されたかのようなところがある。二人の若い男女の人生が交錯し、舞台のいまとここに至るのは、語りを通してしか示すことができない。TellingとShowingの古典的対比は、ここでは意味をなくすかもしれない。TellingにShowingが含まれてしまっているからである。
またこの作品における視覚的関係。見ることと見られること。それがなにか犯罪的なもの、あるいは倒錯的な関係を髣髴とさせるのではなく、むしろ幸福感あるいはささやかな高揚感すらもたらすというこの劇の特質は、実は、それを舞台で示すのは、けっこうむつかしいのではないかと思う。しかし今回の朗読劇によって、演者二人が観客に向かって立ち、台詞を朗読するだけで、二人が互いを見つめあわなくとも、相互に見る見られるという関係性が生まれることには驚いた。
それはこの演劇作品が、あたかも最初から朗読劇として創作されたかのような構成と展開をもつことを、荒井氏がこれを朗読劇として構成されたことによって、図らずも露呈したということではないか。朗読劇としての『BLINK』は、舞台劇の『BLINK』の廉価版などではまったくなく、舞台劇『BLINK』のもつ本質的な次元を生々しく実感させてくれたものではないか。
この劇がもつ視覚的次元は、もちろん、朗読劇では物理的には消える。舞台で客席むかって立つ二人の演者と、阿蒐彌氏の演奏だけの舞台では、視覚効果はミニマムに抑えられる、いやほとんどないといえる。しかしその分、私たち観客は言葉を通して、この作品の世界に没入する。実際、朗読劇のほうが舞台劇よりも没入感が大きい。目で見る光景よりも、心の中でみる光景のほうが現実感が大きくなる、つまり没入できるのである。
今回の朗読劇が終わったあと、新国立劇場小劇場から私たち観客が出るとき、観劇前にはどんよりとした曇り空だったのが、晴れていて明るい4月の空となっていた。このときふと私たちは、いま4月のはじめの晴れた空をみつめている自分を、そう、現実に戻ってきた自分を発見したのである。この劇のもたらす没入感効果は――あるいは暗い劇場内で発せらえる言葉と音楽からな成る夜の世界は――、その晴れ上がった空をみるまで、私たちを支配していた。
阿蒐彌氏の演奏はもちろんのこと、二人の俳優たちの演技も素晴らしかった。朗読でここまでできるという可能性をみせつけてくれたようにも思えてきた。今後も、この朗読劇は、演技のトレーニング用作品のスタンダードとなって、多くの若い俳優たちに有益なかたちで利用されるといいと思う。そしてときどきは、その成果を私たちのような一般観客にみせてくれたと願う。
なお5月16日から、荒井遼氏の選出による太田省吾作『更地』の公演がはじまる。18日まで。楽しみである
2025年05月14日
『BLINK』朗読劇
posted by ohashi at 11:28| 演劇
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