2025年05月16日

『異端者の家』

Heretic(2024) スコット・ベック監督

昔、イギリスだったか、欧米の国のアンケートで、隣に住んでもらいたくない人はどんな人ですかという質問に対して、一番多かったのが「新興宗教の人」というものだった。テロリストとかサイコパスの脅威というものが身近に感じられることはなかった時代のことである。今だったら隣人として望ましくないのは、テロリスト/サイコパスが一位にきて、その次が新興宗教の人であろうか(今ならさらに、移民系の人などという本音が出てくるのかもしれない)。

他人の宗教については、なんであれ、尊重すべしという考え方(信教の自由)に私は異論はない。ただし新興宗教は問題である。彼らのことを差別したり弾圧したりするのは許されることではないし、彼らが違法なことをしない、まっというな市民であれば、またときには優れた人格者であれば、尊敬こそすれ軽蔑することはない。

しかし、グレアム・グリーンの小説ではないが、「おとなしいアメリカ人」というのは撞着表現であるように、おとなしい新興宗教信者というのも撞着表現である。なぜなら彼らは布教活動をして、平穏で静かな市民生活に異和を生じさせる。うっとうしいのである。

彼らに対する(その独善性と狭小な世界観に対する)反感を、映画『異端者の家』は活性化して物語のなかに繰り込んでいるように思われる。

私たちはアメリカ人ではないので、映画の最初のほうでは気づかないと思うのだが、アメリカ人であれば、すぐに気づく。最初に登場するふたりの若い女性が「末日聖徒イエス・キリスト教会」の信者だということを。また二人のうち一人が、街の若者たちにスカートを下げられてしまうこと――魔法の下着をつけているのかと。あるいは二人が訪問先で、コーラをだしてもらうこと(訪問者に求められてもいないのにコーラを出すのは異様である)。そして二人が布教活動をしていること。こうしことから二人が末日聖徒イエス・キリスト教会の信者であることが、アメリカ人ならすぐにわかる。私に言わせれば隣に住んでほしくない人たちである。

不意打ちでいきなりスカートを下げるというのは、なんというひどいことをする悪ガキなのだと思うのだが、これは、末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、「ガーメント」と呼ばれる独特の下着の着用が義務づけられることを前提とした、質の悪いいたずら行為である。末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、カフェインの飲用を禁じられているが、末日聖徒イエス・キリスト教会創設者ジョゼフ・スミスが教団創設時には知らなかった(存在しなかった)コーラ(カフェイン飲料)は飲用が許されている。ミスター・リード/ヒュー・グラントは二人の女性に、コーヒーや紅茶ではなくコーラを出すのである。

あと、末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、戸別訪問(ドアto ドア)の伝道活動をすることになっている――二人一組で。そしてミスター・リードは過去に末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師の訪問を受けたか、あるいは新たに末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師の派遣を要望したか、いずれかだったか忘れたが、彼は末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師が来ることがわかっていて招き入れる。

と、まあ末日聖徒イエス・キリスト教会について、偉そうに語っている私だが、実は、この映画を観るまで末日聖徒イエス・キリスト教会について、よく知らなかった。そもそも関心もなかった。そこで末日聖徒イエス・キリスト教会について少し調べてみたら、この映画が末日聖徒イエス・キリスト教会についてある程度熟知している観客層にむけてつくられていることがわかった。熟知といっても、末日聖徒イエス・キリスト教会の信者と日常的に接触しているアメリカ人なら誰でも知っているということだが。

あと、避妊用インプラント(英語表現はいろいろあるようだが、 ‘Norplant’が一般的か)というものがあることをまったく知らなかった。「タコベル」は日本にも進出してきたようだが、これもまったく知らず。けっこう知らないことが多く、またモノポリーゲームの由来についても、この映画から教えてもらった。

先週の『チコちゃんしかられる』で、ルー・ゲーリックの背番号4が永久欠番になった由来が語られた際に、ゲーリックが患った難病、筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis、略称: ALS)についても説明があったが、そのALSが『異端者の家』でも語られた。字幕では‘Lou Gehrig's disease’を、「ルー・ゲーリッグ病」としていたが、いや、「ルー・ゲーリックの病気」であって、病気の別名ではないのだからと考えたが、「ルー・ゲーリック病」というはALSの別名として存在していた。

あと映画のなかでは、三つの釘が出てくる。これは映画のなかで説明されていないが、調べてみると、キリスト教ではイエス・キリストを十字架に打ち付けた釘が神聖視されていて、聖釘と呼ばれ、それは3本である。両手・両足に釘を打ち込まれたのだから、4本ではないかと思われるのだが、両足を重ねてそれを1本の釘で固定したので、3本ということになる(3という三位一体にも通ずるマジカル・ナンバーとも関係するようだが)。

と、まあ、このほかにも教えられたことは多くあって、予想外に知的刺激に満ちた情報満載の映画であった。

そして末日聖徒イエス・キリスト教会について知れば知るほど、なんともいかがわしい新興宗教臭に息がつまりそうになった。

だから、ミスター・リードが末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師二人を自宅に招き入れてから、この女性ふたり――隣に住んでほしくない新興宗教信者の二人――が、はやく天国に引っ越してくれないかと、新興宗教ならびに新興宗教信者嫌いの私としてはそればかり願っていたが、ミスター・リードが仕掛ける議論も実に興味深く、また共感を呼ぶものであって、もう少し議論を聞いていたいので、この二人には天国に引っ越すのを待ってほしいとも願っている自分がいた。しかし、これは私の偏見と誤解でもあった。

そもそもなぜミスター・リードは議論をふっかけているのか。末日聖徒イエス・キリスト教会に洗脳されている若い信者ふたりを、その議論によって脱洗脳化をめざしているのかとも思ったが、そしてたしかに脱洗脳化の方向に進んでいるように思われるのだが、いまひとつ目指すところがわからなかった。ふたりを追い詰めて、自殺させるか、殺すのか、あるいは奴隷のように生かすのか。最後まで観るとわかるのだが、この点をまとめると、以下のようになる。

ミスター・リードが証明しようとしているのは、
1. 宗教は詐欺である。手品師の手品のようにいかさまである。三大宗教は宣伝によって信者を募ることができた。神は詐欺師・いかさま師・手品師である。

2. 宗教は支配のシステムである。
宗教は信者を騙し、信者を洗脳し、信者を奴隷化する。とはつまり神は、人間を支配する征服者あるいは悪魔である。

問題は1と2がどういうかたちで繋がるかである。

確認すべきは1についてミスター・リードは何も説明も説得もしていない。彼は二人の伝道師に奇跡をみせると約束する。そして伝道師の女性が、その奇跡がインチキであることを見抜く。そしてそこからミスター・リードのみせるもの、その説明や議論がすべてインチキではないかという示唆が生まれる。

しかし、そこから、どのようにして宗教は信者の、ひいては人間の、心を支配するシステムであるといいうことになるのか。それは、上記1で伝道師の女性が、超人的な推理力によってミスター・リードのトリックを暴き、この恐怖の館から脱出できると思われた瞬間、実はすべてがミスター・リードによってあらかじめ計画されたことであって、自由意志による謎の解明と脱出はすべてミスター・リードのシナリオであったことがわかり、伝道師の女性の心が折れ、それが彼女への支配につながるということである。

宗教は詐欺だと暴いた彼女は、洗脳から解放されたどころか、さらに深い洗脳と隷属へと貶められたということである。

ということは、ミスター・リードが行なっているのは新興宗教に洗脳された信者(ここでは女性伝道師のふたり)を脱洗脳して、末日聖徒イエス・キリスト教会の支配から解放するのではなく、末日聖徒イエス・キリスト教会のような新興宗教あるいは宗教一般の支配下に信者を置き、隷属化する(あるいは最終的に殺害する)ことのように思われる。

ミスター・リードは一夫多妻制を唱道したジョゼフ・スミスのような末日聖徒イエス・キリスト教会の教祖を批判しているようにみえて、その実、自身もまたジョゼフ・スミスになりたがっている、いやジョゼフ・スミスそのものである。

なぜなら、ジョゼフ・スミスは、どの教会・教派・宗派が真実であるかを求め、その結果、いずれの宗派もことごとく誤っているがゆえに、末日聖徒イエス・キリスト教会を立ち上げたことになっている。ミスター・スミスも、唯一無二の宗教を求めて模索し宗教の本質を極めたことになっている。つまり多様な宗教、あるいは三大宗教(仏教、キリスト教、イスラム教だが、映画のなかではユダヤ教、キリスト教、イスラム教となっている)は、同じ一つの真理を、それぞれの仕方で表象したものと考えることもできるが、そうせずに、順位なり優劣をつけるという発想は、末日聖徒イエス・キリスト教会の発想である――だからこそ同じキリスト教徒を、よりよい、あるいはベストな宗教(末日聖徒イエス・キリスト教会)に改宗させるという発想が出てくる。そしてそれはまたミスター・リードの発想でもある。

最初ミスター・リードは世界のさまざまな宗教を研究しているようにみえ、末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典も読み込んでいるように思われたのだが、しかし、末日聖徒イエス・キリスト教会の聖典しか読んでいないのでは。宗教研究者などではなく、末日聖徒イエス・キリスト教会に深く帰依して、最終的に、創設者ジョゼフ・スミスのまねびとして、信者を支配し隷属化しているのではないか。

またジョゼフ・スミスの一夫多妻制を批判しているようにみえて、のちにわかるのだが、ミスター・リードは多くの女性を奴隷化している(おそらく性奴隷として)。彼自身が一夫多妻制を実践している。そもそも二人の伝道師を招き入れたのも、まさに、蟻地獄のようなその家に末日聖徒イエス・キリスト教会信者を招き入れ、支配し、奴隷化するためではなかったのか、というか、そうしたのであり、いままさにそうしつつあるというのが、この映画の物語なのだ――ジョゼフ・スミスのように彼の妻たちは一般女性ではなく信者なのである。

したがって、この映画は、私のような新興宗教嫌いの人間につかまって、脱洗脳化されるか、殺されるか、奴隷化される二人の哀れな新興宗教の伝道師の女性たちの物語ではまったくない。

また形式的には変質者の連続殺人鬼の罠にはまって、その殺人鬼の家に囚われた哀れな女性たちの物語だが、たとえば『羊たちの沈黙』のような変質者に誘拐され囚われた女性の救出劇には――実は、この映画は蛾とか地下室などによって、『羊たちの沈黙』を意図的に彷彿とさせながら――なっていない。むしろ二人の伝道者女性は、一般のキリスト教徒を改宗させるつもりだったのだが、逆に、末日聖徒イエス・キリスト教会創設者のジョゼフ・スミスのごときミスター・リードによって支配・洗脳される、つまり彼女たちが再び改宗させられる、あるいは末日聖徒イエス・キリスト教会の真の信者になるのである――教祖の奴隷になることによって。

映画のタイトルはヘレティック(異端者、異端的)である。これを『異端者の家』と訳してしまうと、ミスター・リードが異端者に思えてくるのだが、異端者は、そもそも末日聖徒イエス・キリスト教会の伝道師の女性ふたりである。たとえ、末日聖徒イエス・キリスト教会がなんといおうと、末日聖徒イエス・キリスト教会は異端である。そしてミスター・リードも末日聖徒イエス・キリスト教会の教祖ジョゼフ・スミス的である、つまり異端者・異端的である。異端者のふたりの女性が、異端者の男の家を訪問する。それが形容詞のみのタイトルの意味だろう。異端的なもの--つまり末日聖徒イエス・キリスト教会的なもの--は、映画のなかに偏在しているのである。

末日聖徒イエス・キリスト教会の信者は、他のキリスト教宗派から改宗させられて信者となった場合もあるが、多くは、末日聖徒イエス・キリスト教会信者の家に生まれたから、そのまま信者になったのである。そのため、惰性とか習慣によって信者になった者たちは、真の信者に生まれ変わるべく、変容をとげねばならない。そのための儀式が、このミスター・リードの家での試練だともいえる。

ちなみに、若い二人の宣教師の女性を演じているソフィー・サッチャー/シスター・バーンズとクロエ・イースト/シスター・パクストンは、ともに実際に末日聖徒イエス・キリスト教会信者の両親のもとに生まれたとのことだが、今では、信者ではないとのこと。末日聖徒イエス・キリスト教会にかぎらず、統一教会でもいい、新興宗教の第二世代は、親から独立する傾向にある。そのためにまず新興宗教は第二世代の信者の信仰を強化する必要に迫られる。 つづく

posted by ohashi at 00:40| 映画 | 更新情報をチェックする