エドワード・ベルガー監督 2025年
「コンクラーヴェ」Conclaveは、「根比べ」だと日本で言われ始めたのはいつ頃のことだったのだろうか。前回の「コンクラーヴェ」の時は、あまり意識しなかったので、前回と今回の間くらいなのか、それとももっと前からあったのか、わからない。ちなみに映画『教皇選挙』では、英語で「コンクレイヴ」と発音されることが多かったように思う。
ジェンダー関係の映画会をしたいから、なにかいい映画はないかと言われ、それだったら『教皇選挙』でしょうと伝えたが、ジェンダー関係というのはクィアな映画という意味でもあって、『教皇選挙』を観る映画会では、この映画のどこがジェンダー/クィアなのだとメンバーがいぶかりまくり、とうとう、大橋はついにボケたかとみんな思ったらしい――あるいはカトリックにおけるジェンダー差別というテーマを大橋は指摘しようとしたのかと好意的にとらえてた意見があったようだが、最後には、誰もがジェンダー映画であること、大橋はまだボケていない(ほとんどボケているのに)というところに落ち着いたようだ。
カトリックの女性差別については2008年の映画『ダウト―あるカトリック学校で』での一場面を思い出す。カトリック教会と、それに隣接しているカトリックの小学校があり、小学校はシスターが教員となり、となりの教会からも神父が非常勤で教えにくる。あるとき校長室で会議を行うが、メリル・ストリープ扮する校長は大きな校長専用の机を前にした校長用の椅子に座っている。他の教員/シスターたちは校長室のなかにある椅子とかソファに座っている。そこへ神父のシーモア・ホフマンが、遅れてごめんといいながら入ってくる。すると校長/メリル・ストリープはさっと立ち上がって席(校長用机に付属する上席である)を神父にゆずる。
それは年老いた神父に敬意を表して席を譲るのでもなければ(神父は校長よりも若いように思う)、あるいは授業で疲れている神父の労をねぎらって、よい席を譲るというのでもない。たとえ校長であっても、女性である以上、男性の聖職者に上席をゆずるのは当然の義務であるらしく、席を譲られた神父は礼も言わず、当然の権利として校長の椅子にすわり、ふんぞりかえり煙草を吸うのである。
これは映画におけるカトリックの女性差別を強調する一コマであって、ほかにも、たとえばシスターたちの質素な夕食と、神父たちの陽気なおしゃべりとともに食される豪勢なディナーとの対比があり、男女差は歴然としている。そしてこの格差と差別が映画の物語・事件へと連動してゆく。
『教皇選挙』でも、修道女たちは下働きで、不可視の存在とされていることは、シスター・アグネス/イザベラ・ロッセリーニが語っているとおりである。だがそれもいずれかわってゆくかもしれないという暗示が映画の最後の場面――トマス・ローレンス枢機卿/レイフ・ファインズが見習い修道女たちの姿をサンタ・マルタ館の窓から見下ろす場面――から暗示されているように思う。
あと、これは少し内容とずれるかもしれないが(まあずれたほうがネタバレにならなくていいのかもしれないが)、『教皇選挙』での出来事は、なにか日本風の成り行きにみえることが多かった。いや、日本風ではなく、普遍的なものかもしれず、普遍教会だからこそ、日本的でもあるということかもしれないが。
たとえば激論というか喧嘩になる場合――私が所属していたある大学の教授会で二人の教授が激しい応酬をし始めた。その場にいた教授会メンバーは、誰もが、困ったものだと思いつつも、どう収拾すべきかわからなかった(なお対立はイデオロギー的なものではなかった)。するとある一人の教授が立ち上がって、喧嘩状態にある二人の教授を諫め、冷静に話し合うことを懇々と諭したので、その場は、それでおさまった。映画とは異なるのだが、喧嘩を仲裁したことになったこの教授は、その後、文学部長に選ばれた。
喧嘩を仲裁するものではない。仲裁した者は、その後、責任ある立場、要職に就かされることになる。いや、喧嘩の仲裁ではなく、なんであれ、意見を言うと、その後、役職につかされるがゆえに、逆に、誰も意見を言いたがらないという、なんとも日本的な風潮があるのは確かだろう。
もちろん積極的に意見を述べる者たちは、責任ある立場に就くことになり、それはそれで適材適所ではないかと思われがちだが、しかし、野心丸出しとまでいかなくても、野心家にみえる人間、ぎらぎらした人間は、要職に就けない、もしくは嫌われるという原則がある。
「~になりたい」と口にするような人間は、なりたければ、ならせればいいのにと私などは思うのだが、日本的な風潮では、そうした人間は野心家であり用心しなければならい。そうした人間が権力を握ったら何をしでかすかわからない。
もしあなたが「~になりたい」と思っているのなら、「~には絶対になりたくない」と本心から思い、またこの場合、「~には絶対になりたくない」と口にすることも重要である。そうすると、あなたはたぶん絶対に~になってしまう。野心なき人、権力を掌中に収めても絶対に悪用しない人と判断されるからである。
だがこの日本的システムでは、なりたい人、なるために準備をしてきた人が、なれなくて、何も準備していない人が、その地位についてしまうという懸念が生ずるかもしれない。だが、適材適所を決めるのは、当人ではなく、他人である。しかもその他人とは、その地位にいやいやついた人間か、さもなくばその地位には絶対につくことがない人間である。これは不条理なシステムに思われるかもしれないが、意外と合理的な判断に基づく選抜が行なわれるかにみえる。そしてこのシステムは、『教皇選挙』における教皇選定のプロセスにおいても踏襲されているように思われのが面白いところである。あるいは普遍教会の普遍たるゆえんか。
たとえば『教皇選挙』のなかで、ある枢機卿は、教皇になりたくないと公言していたにもかかわらず、状況と周囲による圧力によって、野心を抱くようになったかにみえる。そしてさんざん迷ったあげく、投票用紙に自分の名前を書くのだが、その投票用紙を投入した、その瞬間……。まるで天罰が下ったかのような出来事が起こるのである。
最後に、冒頭ならびにエンドクレジットにおいて、俳優名を記すローマ字のなかの一文字だけが色が違っているのである。たとえばShakespeareという表記の際に、Shakespeareと太字で示した文字の色が違うのである(どの文字が色が違いになるかについて規則性はないようだ)。基本的にはライトブラウンの文字なのだが、そのなかでひとつの文字だけがライト・イェローになっている。これが気になった。
名前のなかで、一文字だけ色が違うというのは、ある意味、欠陥である。他の文字の色とそろわなかったというアクシデント。欠損ではない。なにもなくなっていないのだから。その文字の色だけがほかの文字と異なっている。色指定ミス。なんらかのミスであるように思われる。文字のなかに異物がまじっているのである。
しかし映画を観終わった観客なら、この色ミス・欠陥・事故、あるいは異物は、あってはならないこと、早急に対処すべきこと、すなわちほかの文字の色にあわせてそれでよしとするのではない、なにかポジティヴな意味を感ずるのではないか。このささやかなミスあるいは異物は、ミスではなく有益な異物である。ランダムに現れるので、統一的な原理とか原則にのっとったものでもない異物。ランダムにあわれる不統一。これはポジティヴに捉えると、何かがかわってゆくささやかな予兆のようにもみえる。あるいはこの不統一、この異物は、抑圧された何かが顕在化したともとれる。色違いの遺物としての文字は、何かの存在、あるいは登場をしめす、断裂、亀裂であり、そして開かれた窓でもある。統一的な色ではない色の文字--まさに異物。それは嘆かわしい欠陥や訂正すべきミスではなく、変化の予兆であり、はじまりの象徴であり、背後にあるなにかの象徴ともなっている。おそらくこの異物は、この映画のテーマを暗示するささやかだが、効果の大きな特異点なのである。そしてそこにかすかな希望が宿るように思われる。
