2025年05月11日
『サンダーボルツ*』
ジェイク・シュライアー監督 2025年アメリカ映画
日本語のタイトルは『サンダーボルツ★』となっているが、正確には『サンダーボルツ*』でしょう。★では意味がない。
正直言って面白くなかった。まあ私はマーヴェルのスーパーヒーロー物映画をほとんどまったく観ないこともあって、その物語の宇宙にまったく思い入れがないというからでもあて、ファンでなければ、その薄っぺらで安っぽい物語には退屈こそすれ、感動などするはずがない。誰が感動するのだ*。
*ならばなぜ観ようと思ったのかと問われるかもしれないが、それは、男前のフローレンス・ピューが中心にいる映画のポスターを見たからである。私はフローレンス・ピューのファンで彼女の出演作なら全部観たい。
まあマーベル物でヴィランたちが、ヒーローとなって戦うというのは、逆転の意外性があって面白いのだろうが、しかし、この映画で見る限り、彼らがヴィランであるとは思えない。ヴィランではなく、B級あるいは二線級のヒーローたちであって、ある意味でヒーローたちのバッタもんである。しかも、度し難いことに、B級ヒーロー、二線級のヒーローであることを自虐的に宣伝する始末なのだ。
アヴェンジャーズなきあと、アヴェンジャーズの後を継ぐニュー・アヴェンジャーズになっておかしくないヒーローたちとはとても思えない。彼らにアヴェンジャーズの後任はむりであり、全員ボブにしてやられているのではないか。
負け犬群団である。サンダーボルツというネーミングも、負け犬のなかでも最たる負け犬であるレッド・ガーディンが勝手につけた名前で他のメンバーは誰もそれを気に入っていないばかりか、無視しているではないか*。つまりメンバーからこんなに嫌われているチーム名というのは、めったにお目にかかることはない。
*コミックスとは設定が違うようだ。
テーマはトラウマである*。え、トラウマ。「サンダーボルツ」のメンバー全員がトラウマをかかえている。そして戦う相手もトラウマである。そう、宇宙からのエイリアンとか、世界征服をたくらむプーチンとかトランプのようなスーパーヴィランとか、自然界の根源的悪と戦うのではなくて、トラウマと、つまり自分自身と戦うのである。その映像化は面白いが、しかし勝手に戦ってろ、としかいいようがない。
*トラウマTaumaは英語だと「トローマ」と発音するのが一般的だが、「トラウマ」とも発音する。DramaとTraumaを語呂あわせ的につかったタイトルの本を読んだことがある。それは「ドラマ・トラウマ」と韻を踏ませていて、「ドラマ、トローマ」では意味をなさなかった。
トラウマなど誰もが抱えている。自分のトラウマによって深く心を病み、再起不能な病的状態に苦しんでいる人は別として、誰もが大なり小なりトラウマとともに生きている。私のような70歳を超えるクソ老人となると、トラウマを消し去ることができないまま、それとつきあうしかない。ほとんどの人がそうであろう。
死に至るトラウマではないかぎり、トラウマで大騒ぎをするというのは愚かさの極みであろう。あるいは幼さの極みであろう。そう、この巨悪と戦うことなく、自己のトラウマと戦うというマスターベーションに感動するのは幼い人間にすぎない。トラウマ偏愛は、ジュヴナイルだと思っている。もともとコミックはジュヴナイルかなどといったら、その認識の古さに笑われるだろうが、この映画は、このコミックの世界の実写化映画は、誰がどう見てもジュヴナイルである。いい大人が観るような映画ではない。
ちなみにネットでは、フローレンス・ピューがかっこいいという評価とともに、バッキー・バーンズ / ウィンター・ソルジャーを演ずるセバスチャン・スタンがかっこいい、とくにバイクに乗って登場するシーンがと判で押したようにコメントしているが、なるほど、映画館では主演映画『顔を捨てた男』(A Different Man)の予告編を観たくらいだから(あんまり観たい映画ではないが)、現在、人気のある俳優なのだろう。しかも彼はまた『アプレンティス――ドナルド・トランプの創り方』(The Apprentice)で、若き日のトランプを演じている。そして『サンダーボルツ*』におけるバッキー・バーンズは、ヴァンス副大統領によく似ている。ふたりは年齢も一歳ちがいにすぎない(ヴァンス1984年8月2日生まれ、スタン1983年8月13日生まれ)。
つまりセバスチャン・スタンはトランプ大統領とヴァンス副大統領というアメリカ史上いや世界史上最悪のファシスト・カップル、いやスーパーヴィラン二人を一人で演じきった稀有な俳優ということになるし、せっかくだからファシスト・カップルを彷彿とさせるスーパーヴィランを一人二役で演じさせればよかったのだが、ジュヴナイルをつくるしか能のない制作陣にそれを望むのはむりだろうが。
私は映画『ブラック・ウィドウ』(2021)を観ていたので(内容は忘れていたが)、今作でタスクマスターがあらわれても驚かなかったが、中の人の顔がわかったとき、誰だかすぐに認識できず、記憶を探っているうちに、あっというまに殺されてしまった。え!? 驚いたが、中の人がオルガ・キュリレンコだったことを思い出して、さらに驚いた。しかも、ほんとうにあっというまに殺されてしまう。なんだこの脚本は。というか高いギャラを払うのをしぶって早々と退場してもらったのだろう。貧乏映画が。
ボブの顔をみているうちに、誰かを思い出した。そうビル・プルマンに似ていると思ったら、ビル・プルマンのほうとうに息子だった。しかし、ほんとうの息子とわかる前も、わかってからも、ビル・プルマンによく似たそっくりさん程度にしかみえなかったのは、この映画の特質ともシンクロする。メンバーのヒーローたちはみな、そっくりさんで、本物とは一線を画す、まがいものなのである。まがいものの彼らの売りはトラウマ。なさけなさすぎる。
いや、マーヴェル映画らしからぬというのがほめ言葉としてネットでは流通しているようだが、しかし、たとえばCIAの長官ヴァレンティーナ・アレグラ・デ・フォンテーヌ*。彼女は元は、あるいは今もか、O.X.E.グループを率いる実業家で、いまや絶大な権力を誇り、スーパーヒーローたちを操り、また彼らに敵対するというのは、たとえばスーパーマンにおけるレックス・ルーサーのような存在ではないか。というかおなじみのキャラではないか……。
*彼女は映画のなかではMs「ミズ」と呼ばれているのだが、字幕は「ミス」としている。間違ってそうしたなら映画会社と字幕翻訳家は地獄に落ちろ、意図的にそうしたのなら、映画会社と字幕翻訳家は地獄に落ちろ。
というかレックス・ルーサーはDCコミックスのキャラクタだった。マーヴェルとは関係がない。マーヴェル・コミックスの映画らしくないのはいいとしても、それがDCコミックスでおなじみのキャラクター・タイプに依存しているというのは、なさけなさすぎる。
観る前から――そして観た後も、あらためてわかったことは――この映画にはなんの期待もしていなかったことである。期待を裏切られることはなかった*。
*だったらなぜ観たのかといわれるがフローレンス・ピューのファンだからである。イギリスの俳優で、娼婦、夫殺しの若妻、女子プロレスラー、修道尼、貴族の娘、皇女、『リア王』のコーディリアまでを演じられる俳優はそんなにいない、いやほかにいないと思われるので。
posted by ohashi at 01:27| 映画
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