1975年の『新幹線大爆破』(監督:佐藤純弥、出演:高倉健、千葉真一、宇津井健ほか)の「リブート版」と言われているNetflix配信の『新幹線大爆破』(監督:樋口真嗣)は、リブート版ではない。リブート版というのなら、前作『新幹線大爆破』(1975)は、なかったことにして、同じか同じような設定で新幹線に爆弾が仕掛けられた映画を作ることだが、今作では新幹線は一度爆破されていることになっている。それだけではない今作は、1975年版の世界線にあることが徐々に明らかとなる。リブート版ではなく続編である。ただし続編と最初から銘打ってしまうと内容を予測されてしまうので、あえてリブート版と嘘をついたのだろうか。
繰り返すと、リブート版というのなら、前作は抹消され、あらたな物語が立ち上げられねばならない。もし前作が抹消されることがないのなら、それは続編というべきものである。
あともうひとつ1975年版の『新幹線大爆破』は、映画『スピード』(1994年、ヤン・デ・ボン監督作)に影響をあたえたというが、今からみると、1975年版を知らない観客は、今回の『新幹線大爆破』を、『スピード』に影響を受けているとみなしかねない。バスと新幹線の違いはあれ、ともに並走したり、乗客を乗り移らせたり、最後は車両を暴走させ爆発させるなど、今回の映画は『スピード』の新幹線版である。今回、統括司令長の斎藤工が双眼鏡で電子掲示板をみるところは、1975年版の同様な場面を連想させる、前作へのオマージュとのことだが、犯人らしき人物が自宅で、爆弾を仕掛けられた新幹線のニュースを視る場面など、『スピード』の同様な場面を思い出し、『スピード』へのオマージュかと一瞬思ってしまったほどだ。
1975年版は爆弾を仕掛けたテロリストの側の視点から描かれたのだが(それゆえにJR、当時は国鉄の協力は得られなかった)、2025年版は乗務員とJR職員の側の視点から描かれ、JR職員の賢明な判断と、果敢な挑戦と、なによりその乗客を守る犠牲的精神が前面に出ていてJR側としても協力を惜しまずにはいられなかったのかもしれないが、私はこの映画を、爆弾を仕掛けられた新幹線の乗客になったかたちで受け止めた。
終点にむかって高速で突き進む列車に乗り合わせた夢というのは、フロイト的な夢解釈をすれば、運命的なものを強く感じさせる夢である。逃れられない運命にむかってひたすら突き進む列車。その行路は、明るい未来とか新たな段階へと向かうポジティヴなものではなくて、むしろ死へと行路である。もしこれが夢でのお告げなら、この夢は、もうすく死ぬあるいはあなたが死にたがっていることを暗示する。高速で突き進む列車に乗っている夢とは、だから爆弾を仕掛けられていなくても不吉な夢である。
死へとむかってひた走る列車から、首尾よく降りる、あるいは途中下車できるのなら、あなたはまだ死にたくない、あるいは死から逃れられる、もしくは死から逃れたいと望んでいることになる。夢は願望充足であるのなら、高速列車に乗る夢が伝えているのは、宿命に囚われる不安と恐怖、そこから逃れたいという願望(とその成就)である。
逆に考えると、私たちが機械的移動手段に身を任せるとき、それを運転したりコントロールするのではなく、ただ受動的に運ばれてゆくにすぎないとき、ついつい死への宿命への旅としてとらえてしまう。運ばれてゆく移動は、つねに、死への旅路であり、つねに不安と恐怖のなかにある。バスから降りるとき、電車から降りるとき、船から降りるとき、飛行機から降りるとき、私たちはつねに今日も生き延びたと無意識のうちに思う。あるいは旅路とは私たちが死と相対する時間でもある。旅路とは悪夢なのである。
だから爆弾を仕掛けられた列車というのは、特別な事例あるいは異常事態ではなく、列車がもつ無意識の部分、列車の暗黒の部分、死と隣り合わせになっている部分を、忘れないように顕在化させるものに他ならない。
広く考えれば、死へと向かう列車とは、私たちの人生である(終点は例外なく死である)。しかし私たちはこの宿命をついつい忘れてしまう。そのために時折、この列車が死と隣りあわせになっていることを意識させる爆弾を仕掛けておかねばならない。あるいはそれは腐敗した政権によって自滅へとひた走る今の日本の状況かもしれないし、狂気の国王、教皇になりたがっている国王とその狂気集団によって蹂躙されるいまのアメリカ、いや世界の状況かもしれない。
そう考えれば、『新幹線大爆破』がどのようなエンターテイメントか理解できる。それは途中下車の喜び、終点まで行かないことの、大いなる生の享受である。
映画の快楽は、メランコリックな光景のなかを移動することであるとすれば、死と破滅にむかって疾走する列車ほど、映画のメランコリーの強度を増す装置はないだろう。そしてそうした列車のなかにとらわれていることの恐怖、あるいはそのタナトスの呪縛を、最終的に下車することはわかっているものの、つかのま、味わうこと。これこそ、映画が提供する至高の戦慄と喜びにちがいない。
