オルダス・ハクスリーの「全体的真実」論のなかで、人物がころぶ例が挙げられていた。ひとりはオセローの妻デズデモーナが、ころぶ例(実際にはころんだりしないのだが、もしころんだらという話)。もうひとつはトム・ジョーンズの恋人ソフィアがころぶ例。そして、このころぶ例があまりに印象的だったので、北野武監督の『Broken Rage』について感想を述べる際に思い出さずにはいられなかった。(2月18日の記事参照)
『Broken Rage』の後半は前半のハードボイルド編に対する茶番劇的反復となっているのだが、実は後半にこそ、全体的真実の開示が実現しているというのが私のささやかな洞察だった。
たしかに後半において主人公がお約束のように、まるで責務のようにころぶのは、いかにもわざとらしく、全体的真実の対極にある人為性・虚偽性マックスなお寒いギャグにすぎないと批判されるかもしれない。そこには真実だけは、ないのではないか。そう批判されるかもしれない。
しかしたとえ、まれであっても、人間はころんだり、けつまずいたり、足がもつれてころんだりする。正常な人間でもけつまずくことはふつうにおこる。ただそれを過剰にみせるのは時代遅れのお寒いギャグだといわれるかもしれないが、それをみせないのは全体的真実に反することである。たとえいくらまれなこととはいえ、それをすべて消してしまうような表象は見るにあたいしないとまではいわないが、なにか歪んでいるのではないか。
繰り返すが実際に人間はけつまずく、こけるのである。
妹から昔聞いた話だが、彼女が大学生の頃、所属する学科に、きわめて厳格な教授がいた(おそらく最高齢の教授だったようだ)。その教授が、教室に入ってきて教壇にあがるとき(特別のの講演・講義ではなく、通常の講義だった)、けつまずいて、ころんで、倒れた。
もともと怖い先生だったので、その先生が教室に入って来た瞬間、それまでざわついていた学生たちは瞬時にして静まり返った。そして教授がこけた。
教室にいる学生たちは、ただ驚いて固唾をのんでいるだけで、誰も動こうとはせず、ただ見守るばかりだったという。
教授は体調不良かなにかで、貧血で、あるいは脳溢血で倒れたのか、なにかにけつまずいたのか、足がもつれたのか、それ見きわめるために学生たちはみんな黙って様子をみていたのかと、私は妹に尋ねた。なぜなら、そういう時には、誰かが、あるいは近くにいた学生たちが、先生、だいじょうぶですかと駆け寄るのではないかと思うからだ。
妹によれば、様子をみていたのではなく、あまりのことに誰も動けなかったとのこと。だいじょうぶですかと声をかけるのもはばかられるほど厳格な先生だったとうことも、学生たちを金縛り状態にしたようだった。
ただ次の瞬間、その先生は起き上がり、教壇に立ち、何事もなかったように、授業をはじめたという。意識を失って倒れたというのではなく、足がもつれたか、なにかにけつまずいただけのようだったが、あの怖い先生が、ぶざまにこけるというのは、学生たちに相当なショックで、のちのちも語り草になったという。
もちろん以前、妹から聞いた話で、私がその場にいたわけではないので、話に尾ひれがついているかもしれないが、ただ、どんなに意外なことでも、予想外のことでも、起ることは起る。その可能性を取り込まないのは、全体的真実への裏切りである。たとえ取り込むことによって、茶番になってしまうとしても。
最初は悲劇、二番目は茶番。だがこの茶番にこそ全体的真実は宿るのである。
2025年03月08日
全体的真実のゆくへ2
posted by ohashi at 12:30| コメント
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