2025年02月22日

全体的真実のゆくへ


前回の記事(『Broken Truth』2月18日)においてオルダス・ハクスリーの「悲劇と全体的真実」について触れた。有名なエッセイで、日本語の翻訳があってもおかしくないが、確認したところでは、いまのところ一冊のみ。ただし、ずいぶん前に出版された本で、いまは絶版(古書として購入できるようだが)。しかし、それを紹介するつもりはないのは、このエッセイを「悲劇と全体的真理」と訳しているからである。ハクスリーが問題にしているのは「真理」ではない。

【なおハクスリーの原文は、ネット上で簡単に読むことができる。】

英語のtruthには、ざっくりいうと「真実」と「真理」の二つの意味がある。日本語ではこれを区別するのだが、英語では区別しない。だからtruthを日本語に翻訳するときには、コンテクストに応じて、「真理」か「真実」かを使い分けなければいけない。

ハクスリーのエッセイでいうthe whole truthのtruthは「真理」ではなく「真実」である。そしてまたこのthe whole truthという語句からすぐに思い浮かぶのが、英米系の映画などにおける法廷シーンで証言者の誓いの言葉のなかにある‘the truth, the whole truth, nothing but the truth’である。

もし私が証言台に立った時、the truthを語るようにいわれ、また宣誓するようにいわれたとき、私は「真実」を語ることはできるし、そうすることに異存はないのだが、「真理」を語れと言われたら、それはできない。私に語れる真理などない。私はイエス・キリストではないからだ。

ヨハネ伝第18章第37節によればピラトによって尋問をうけたイエスは自分は真理について証言するために生まれてきたと述べている。そのときピラトは真理とは何かとイエスに問うている(第38節)。裁きの場で真実ではなく真理を語れるのはイエスだけである、あるいはイエスに等しい、神にひとしい人間だけである。

ちなみに‘the truth, the whole truth, nothing but the truth’というのは聖書の中にあるフレーズなのかと思っていたら(実際に聖書に手を置いて宣誓するようなので)、そうではなくOE(古英語)時代に生まれた語句らしい(専門家ではないので、この情報はあやふやなのだが、聖書にないことは確か)。

【なお聖書にある宣誓についての言葉:「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。」(ヤコブの手紙5:12、新共同訳)】

要は「真実」を語ると宣誓するわけだが、それに二つ条件をつけている。ひとつはthe whole truth。どこかの英和辞典がこれを「すべての真実」と訳したせいで、ネットでは何とかのひとつ覚えで、「すべての真実」以外の訳語をつけていないが、これはネットのIQの低さを物語る。「全体的真実」は、言葉はかたいが、まだ真相を伝えている。反対語は「部分的真実」である。「不都合な真実」を隠すことなく、無意味と思われる真実を省略することなく、まるごとの真実、真実の全体というのがthe whole truthである。

さらにこれにnothing but the truthがつく。直訳すれば「真実以外のなにものも」語らないということである。the whole truthが隠し立てしないということであれば、こちらは余分なものをいっさい付け加えない、あるいは真実を歪曲・加工しないということである。「尾ひれを付ける」ようなことはしないと考えればいい。

こうして二つの条件をつけて、真実を引き出そうというのがこの‘the truth, the whole truth, nothing but the truth’である。

このフレーズを引用してハクスリーはこう述べる。文学がこれを語ることはほとんどなかった、と。とりわけthe whole truthについては、と。部分的真実について文学は多く語ってきた(またハクスリーは指摘していないが、文学は真実について「尾ひれ」をつけまくっていた)が、全体的真実はだめである、と。

そしてtruthとは何かと、ピラトみたいな問いを発するハクスリーは、「2+2=4」「ヴィクトリア女王は1837年に戴冠した」「光は1秒間に299792458 m進む」といった例をあげるが、これらは「真理」とか「事実・史実」に属するものであり、文学が扱う「真実」ではないと述べている。もちろん文学も「真理」を語るだ、すばらしいのだが、「真理」しか語らない文学ほどつまらないものはないだろう。

ただし英語では「真理」と「真実」がtruthの一語である。そのため上記の一節も、truthを語る文学は面白いがtruthしか語らない文学はつまらないという、わけのわからない表現になってしまう。これはどんなtruthなのだろうか。

posted by ohashi at 10:08| コメント | 更新情報をチェックする