2025年03月27日

メディアの二次加害性 3

しつこくカメラクルーの仕切り問題について、議論をつづけると。

すでに書いた記事では、カメラクルーが、またそこから敷衍してジャーナリズム一般による演出が、やむをえぬもの、あるいは構造的なもの、そしてそれに携わる人間の無意識の願望によるものなのか、判然としないというか、混然一体化している。

これは原因が主体にあるのか客体にあるのかという古からの議論の一例である。

たとえばマルクスのイデオロギー論においては、初期においては、イデオロギーの淵源、その起源となる主体を資本家の存在に求めていた。資本家が資本主義体制を維持するために、自分たちにとって都合よい考え方をひろめるために、あるいは自分たちに都合のよい事実をひろめるために、逆にいえば労働者階級の搾取の事実を隠蔽するためにこしらえたのがイデオロギーだった。

テリー・イーグルトンの『イデオロギーとは何か』(平凡社ライブラリー)では、マルクスのイデオロギー論が初期において主体中心であったのに対し(つまりイデオロギーの発信元を資本家とか富裕層とか、彼らと連携する政治家たちという黒幕に求めていたのに対し)、イデオロギー論後期においては客体中心になったことを鋭く指摘している。イデオロギーを発信したり操作する「黒幕」などはおらず、むしろ資本主義生産様式そのものが、現実の労働条件や生産諸関係を隠蔽したり神秘化するはたらきをするとマルクスは考えたのだ。

黒幕という通俗的メロドラマは姿を消し、自律的かつ暴走的で自己増殖し自己防衛する資本主義体制そのものが現実を隠蔽し現実を作り変えるということになった。イデオロギーに主体はなく、自律的な増殖あるのみとなった。

これは近代的主体論からポストモダン的構造論への移行とみることもできる。

同様な発想をおこなったのがハンナ・アーレントで、『エルサレムのアイヒマン』のなかで彼女がおこなった考察がある。すなわちアイヒマンのような小市民的一官僚が、なぜホロコーストのような人類史上位最悪の凶行・犯罪に手を染めただけでなく、その指揮管理をおこなったのか。この問題に対する彼女の洞察とは、ホロコーストの対象となるユダヤ人が、抽象的な数字に還元され、その虐殺が、書類上の数字操作に限定されることで、ホロコーストは人の命を奪う殺人ではなく、書類上の処理ということになった。結局、役所仕事、書類上の処置、数的処理だけの問題となった。ホロコーストが、良心の呵責など入り込む余地のない事務処理問題となったのだ。

アーレントが考えているのもホロコーストが、役所の事務処理という構造によって、殺される身体を捨象あるいは隠蔽し、平凡な一小市民にも遂行可能なものとなったという構造論である。

しかし、そうなると、アーレント自身苦悩したように、アイヒマンの罪を問えなくなる。アイヒマンは言われた仕事をしたまでである、つまり命じられた円滑な事務処理を効率的に実行したにすぎず、主体的関与はなかったということになって、無罪放免となるからだ。

後期マルクスもアーレントも、構造優位的議論をしている。前者においては、現実の姿を隠蔽し加工し虚構の現実を捏造する資本主義生産様式が人間の主体的行為を凌駕すること、後者においては、官僚的事務処理システムが、殺される人間の身体を数字に還元し、ホロコーストのリアルを隠蔽し、参与する人間の道徳的意識を麻痺させてしまうことが、主張された。問題は、そこに主体がどうかかわるか。あるいは主体は完全に無視されるあるいは消し去れるのか。

アイヒマンは、アーレントが考えたように、無辜の市民で、ただ何も判断できないままホロコーストに強制的に参加させられたのではない。いまでは、アイヒマンは、反ユダヤ主義者であったことは知られていて、ホロコーストにはむしろ喜んで関与した可能性が高い。

構造の優位は揺るがぬものの、その構造に自分の欲望の実現を託することは、その構造に親和的人間にはたやすいことである。あるいはもしかしたら、その構造そのものが、その構造をとおして実現できる欲望をはぐくんだり、そのような欲望の主体を生産するのかもしれない。この構造に参加するなら、主体は、その構造の申し子たることを逃れることはできない。主体は、構造の操り人形なのだが、同時に、その構造と相性がいい、ハッピーだと感ずるのである。

それゆにえ、カメラクルーのことは、写真・動画撮影の構造的問題を体現しているということで、ある意味、無実である、責任はなく、あくまでも構造が優位であると言えるのだが、同時に、写真・動画撮影の構造的問題を、自己の欲望の実現として楽しんでいるともいえる。

カメラクルーは、無辜の被害者であるとともに構造に利用されながらみずからも構造を利用する加害者なのである。あるいはカメラクルーは、あくまでも事務的にその場の人物配置を仕切ったにすぎないとしても、仕切られる側からすれば、喜んであるいは横柄に、構造の威を借りて、演出し制御しているように見えるのである。

ただそれにしても、たとえば、ガザで朝日新聞通信員を務めるパレスチナ人男性ムハンマド・マンスールが死亡したというニュースが入って来た。かたほうで、命をはって取材し真実を伝えようとするジャーナリストの死亡(イスラエルによる攻撃によって)、そしてかたや、同じ24日、その日に放送されたバラエティー番組「月曜から夜ふかし」内の街頭インタビューにおける捏造問題――中国出身の女性が「中国ではカラスを食べる」と発言したかのように編集した問題――。バラエティー番組ではあっても、一般人への街頭インタビューの内容を紹介するというのは、ジャーナリズムの手続きであってジャーナリズムとあるいはメディアと無関係ではない。

ましてやそれが捏造であったというのも、テレビメディアに限らず、メディア全体、あるいはジャーナリズムにおいて常態化しているのではという危惧の念を抱かせるのに十分なものがあった。

真実を伝えようと命を落とすジャーナリストがいる一方で、真実を隠蔽したり捏造するジャーナリストがいるというこの二重性を私たちはどう考えたらいいのか。



posted by ohashi at 13:19| コメント | 更新情報をチェックする