2025年03月18日
メディアの二次加害性 2
前回の記事(3月11日)では、邪魔はしないと約束したカメラクルーが、すぐに横柄な口調で仕切り始めたことに対し、これでは記念の集合写真のために、撮影者の指図を受けるうつされる側と同じではないかと述べたが、撮影者がよほど横暴で失礼な人間でない限り、誰もが、撮影者の指図に従い、何とも思わないのではないか。前回の記事では、画角にあわない人物の位置を調整したにすぎない撮影者に腹を立てるのはおかしい。ただの怒りんぼうではないか。そう反論されるかもしれない。
たしかに集合写真の撮影の際に、立ち位置を調整されるのはいつものことでなんとも思わない。「はいチーズ」という撮影直前の合図にしても、その指示を無視するか聞いていないメンバーに対して撮影者が強要しないかぎり、誰もそれが干渉的演出であるとすら思わないのだろう。
また確かにカメラクルーは授業を妨害するような介入的指示は出してない(実際には授業がはじまってからも、あれこれ指図されたような気がするが、ただ、これは私の記憶違いかもしれないので、なんともいえない)。しかしその場にいた学生たちと私にとっては、やはり約束違反のような気持ちは否めなかった。
なるほど最初固定カメラで教室全体をうつしておくことは必要だったかもしれない。ならば、最初に、「画角に入らない授業参加者には席を動いてもらうかもしれません。ただ、それ以後は何もいいません。授業のじゃまはしません」と伝えればいい。そうすれば学生も私も授業前の最小限の指示をあるいは演出を気にすることはなかっただろう。
カメラクルーがそれをしなかったのは、配慮がたらなかったからでも、忘れたからでもないだろう。被写体となる人間の立ち位置を有無を言わせず変えることは、ごくあたりまえのことであって、いちいち断る必要はない。そもそも撮影に同意したのだから、カメラに映りたいのだろう。撮ってやってんだから、つべこべいうな。という侮蔑的な姿勢と、被写体を自由に構成することへの権力と創造性を行使することに対するなんともいえない喜びが、カメラクルーの側にあり、映されるこちら側にそれが伝わってきて、なんとも不快な思いをさせられたのだ。
これは私が短気だからではない。ジャーナリズムに特有のコントロール感覚・支配感覚は、取材されたり撮影される側になってみると、肌で感じられるのである。
おそらくジャーナリズムの長い歴史をへて蓄積されたノウハウ以上の暗黙の前提となっているのは、取材対象を操作しコントロールしてもよいということだろう。ある程度、できあがった物語というかシナリオにそって現実を構成しなおすことができるのは、権力をもつ側である。そしてそれを極力避けねばならいのがジャーナリズムであるはずが、今やジャーナリズムの側も現実構成権力をもつようになっている。それが当然のこと、当然の暗黙の前提となっている。簡単に変えれられないこの暗黙の前提はかなりやっかいである。
エドガー・ドガ、バレーのダンサーや競馬場風景を描いて名高いフランスの画家を知らない人はいないと思うのだが、そのドガの絵は、すべてではないとしても、画面を変なところで切っているものが多い。たとえば人物の片方の手が画面からはみ出ることになって描かれていなかったり、人物の片方の足がくるぶしまでしか描かれていない。足の部分は画面の外にあたるため描かれていない、というような。
しかし、これは絵画としてみると変である。画用紙なりキャンバスにもし人物の全体像を描こうとしたら、右手とか左足が画面からはみ出すかたちになって描かれないということはないだろう。きちんと画面の大きさと描かれる対象の位置を考慮し計算して、全体像が入るように描くだろう。ところがドガは、無頓着だったのか、意図的だったのか、画面のなかに描かれるものがきちんとおさまるような書き方をしてない。
たとえば『バレエのレッスン』(1874)というドガの有名な絵があるが、この絵の上辺と下辺、そして両サイドに注目してもらうと、そこには中途半端に収まっている人物とか事物しかいない。こちらに背を向けているダンサーのバレーシューズに下辺がかかっている。こんなぎりぎりにダンサーの足を描かなくてもいいじゃないのか。自分でしっかり位置取りとバランスを計算して描けよと、思ってしまう。写真じゃないのだから。
そう、写真じゃないのだから。
言い換えると、ドガの絵は、まるで写真のように現実を切り取っている。その絵画の四辺は、画家が現実を再構成したものを収めるための境界ではなく、写真のフィルムが現実の世界に押し付ける強制的な四辺という枠組みを再現したものなのだ。
ドガの絵画のリアリティは、画家が現実の光景を再構成してキャンバスに収めたことで生まれるのではなく、演出できない、再構成できない現実を、そのままに描くこと――そのため枠にうまくおさまりきらない細部をつくりだすこと――から生まれている。芸術写真あるいは映画というよりもスナップ写真のような絵画が、ドガの絵画のリアリティを保証する。
ここでは悪役を演じさせられている、いや実際に悪役だったと思うのだが、そのカメクルーは、画角に入りきらない人物を、わざわざ移動させることで、整った絵をつくることはできたとしても、現実を改変し演出したのである。ありのままの授業風景を撮るというのなら、画角からはみ出るものが多くあるいびつな画面のほうがリアリティがある。つまりはリアルなものに敬意を表することになる。
ところが、このカメラクルーは、撮影技術が未熟だととられることを恐れ、また被写体を構成・演出することは暗黙の前提であり、それに律儀に従ったために、現実を演出し改変したのである。だが、この小心者のカメラクルーに後悔の念はないだろう。むしろ現実を再構成し演出しえたことの無反省な喜びしかなかったはずである。
このカメラクルーは、ジャーナリズムあるいはメディアの別名でもある。
posted by ohashi at 11:01| コメント
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