2025年03月15日

みのもんた追悼

みのもんた追悼のネット記事の最後に、こんな紹介があった。記事そのものに問題はないので記事に触れることはしない。また記事に対して反論するつもりなどないので、どの記事かは明示しない。
みのさんは立教大卒業後、1967年に文化放送に入社。69年に「セイ!ヤング」の初代パーソナリティに抜てきされ、ディスクジョッキーの先駆けとなり、深夜放送ブームをけん引。79年に退社後、83年にフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー」のナレーションを担当するなどテレビの世界に進出し人気を博した。

この最後の紹介は、誤解を招くというか、詳しくない人間が伝聞情報で書いた欠陥紹介文である。みのもんたが、「セイ!ヤング」の初代パーソナリティに抜擢されたのは事実だが、深夜番組の「セイ!ヤング」のパーソナリティは日替わり。そのため初代パーソナリティは、みのもんだ以外にも5名いた。またその頃の深夜放送、ラジオ放送のパーソナリティのことを思い浮かべると、みのもんたと同じ立教大学卒業で、みのもんたの先輩にあたる土井まさるの存在が大きかった。当時はみのもんたは、土井まさるの二番手という位置であった。もちろん、すぐに人気がではじめ、人気という点で土井まさるをしのぐようになるとしても。

文化放送退社後は、コミカル系サブ司会者あるいはナレーターという感じで活躍していたが、1989年『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ)の司会で大ブレーク。以後人気を不動のものにしてゆく。

21世紀に入ってからは報道番組の司会も多くてがけるようになったが、2013年以後、セクハラ騒動、次男の不祥事などで、報道番組を降板することになる。ただ、ふたつの事件、どちらも事件とも言えないほどの疑惑程度のものであり、次男の不祥事も「窃盗未遂」という、敏腕弁護士なら簡単に論破してしまうような案件だった。

報道番組を通してのみのもんたの姿勢は、とくにリベラルということもなく、どちらかといえば保守的だったと思うし、コメントも無難なものが多かったようだが、ただ、福島の原発事故以後、反原発、原発再稼働反対の姿勢を強めていたという記憶がある。かなりシリアスに反対していたことは確かで、国民的人気を誇る司会者であるがゆえに、狙われたのだろう。陰謀によって司会者をやめるところまで追い詰められたと私は思っている。というか、そう思うのは私だけではないだろう。

みのもんたは、保守陣営との付き合いのほうが多かったので、体制側にとって決して危険人物ではなかったはずだが、反原発の姿勢は、人気のある司会者であるがゆえに、危険すぎたということか。

ただ、本来的にリベラルであろうが、にわかリベラルであろうが、その反原発の姿勢には支援者や賛同者が現れてしかるべきだったし、支援者・賛同者に守られていれば番組降板ということもなかったはずである。繰り返すが次男の不祥事は不祥事ともいえないものだった。ではなぜ支援者は現れなかったのか。

それは毎晩、銀座で豪遊しているような、報道番組の司会に似つかわしくないオフにおける言動が災いしたとしか思えない。べつに報道番組の司会者だからといって銀座のクラブに行くなということではない。しかし、行き過ぎると、司会者としての資質に疑問が生じはじめる。バラエティ番組のMCの色が抜けなかったみのもんたは、自身もまた、その色を強調することで、報道番組の司会者像と乖離していったのではないだろか。いくらリベラルでも銀座のクラブで夜ごと豪遊している司会者に援助の手を差し伸べる人間はいない。

実際、報道番組の司会者という自分に似つかわしくない役割にストレスがたまり、毎夜、銀座で豪遊していたとも考えられないこともなく、ならばなおさらのこと、支援者があらわれることはなかったともいえる。

もちろん、みものもんたは年齢とともに番組も少なくなり人気にも陰りができていくだろうから、不祥事があってもなくても、番組降板は、必然的にやってきただろうとはいえる。しかし、みのもんたのシリアスな反原発の姿勢が体制側からの報復をもろに受けたということは憶測以上の、ほぼ確実なことともいえるだろう。彼は反原発の大義のために身をささげた。ある意味、反原発の殉教者である。あるいは反原発を強く主張し抹殺された英雄である。

いつかその汚名がそそがれ、名誉回復の日があることを、真剣に望みたい。


posted by ohashi at 15:21| コメント | 更新情報をチェックする