2025年03月10日

『文化と帝国主義 改訳新版』1

2025年2月17日、みすず書房よりエドワード・W・サイード『文化と帝国主義』の改訳新版が出版された。これは1998年に出版された『文化と帝国主義1』と2001年に出版された『文化と帝国主義2』をあわせて1冊にした合冊本である。

この改訳新版の合冊本は8500円(それでも2冊本をあわせた値段よりは安い)と高価な本だし、発行部数もそんなに多くない。爆発的な売れ行きなど誰も期待していないのだが、それでも、喜ぶべきか、悲しむべきか、先のみえないガザ問題もあり、直接、パレスチナ問題を扱った本ではないが、パレスチナ問題の理解につながる本でもあることから、発行後、1か月をたとうとしている現在、本書は、それなりに売れている。訳者としては嬉しいことだが、同時に、ガザ問題がなければ顧みられなかったかもしれないことを思うと、単純に喜んでばかりはいられない。むしろ悲しむべきことであり、複雑な心境でいる。

読者にとって改訳新版というのは、どこまで改訳されたのかは興味のあるところだろう。

2冊本の翻訳を出版したとき、それは私にとって渾身の訳業であって、もうこれ以上のものは望めないという自負もあって、合冊本にしたいというお話をみすず書房からうかがったときには、機械的に合冊にすればすぐに出版できると安易に考えた。

もちろんたとえ渾身の翻訳とはいえ、誤訳とか不適切なところなどもあるだろうが、そうしたものは軽微なものにすぎず、特に精緻な確認を行うことなく、合冊本をつくることができそうだった。

ところが出版が遅れることになった。改訳新版の私のあとがきを読むと、コロナ禍が原因かと思われるかもしれないが、コロナ禍は多少関係しているかもしれないが、もっと大きな事情があった。またそれは私が出版社とトラブったということでないことは明言できる。

そのため2巻本の本文をじっくり読み直す時間ができた。そして……

以下、どういう点に気づいたかを、こぼれ話的に記しておきたい。


第1回は『アフリカ騎兵』

2巻本の翻訳の上巻に
ロチの『スパイ物語』
【p.339右から3行め】

への言及がみえる。なお2巻本の索引は、p.338のロチは拾っているが、p.339のロチは拾っていない。

ロチはピエール・ロチのことである。それはいいとしてロチに『スパイ物語』という作品があるのだろうか。この部分、原書ではどうなっているかというと、p.187にLe Roman d’un Spahiとある。もしあなたがフランス文学とかロチの専門家なら大笑いするところかもしれないのだが、そこは我慢していただき、少しつきあっていただきたい。

いまなら簡単にネットでスマホで調べられるのだが、この翻訳が発行された1998年の頃は、まだそんなに便利ではなかった。データベースも整備されていなかった。そのためとりあえず訳文をつくって、あとでじっくり調べようと思って(あくまでも自分のことながら、推測なのだが)、Le Roman d’un Spahiを『スパイ物語』としておいた。フランス語に堪能ではない私はSpahiが何かわからなかった。発音は「スパイ」だろうから、発音をカタカナで書いて『スパイ物語』とした。あとで調べて確認することにして。

残念ながら「スパイ」は、発音のカタカナ表記というよりは、いわゆる「スパイ」(間諜)のことでもある。そのためロチの小説をとりあえず『Spahi物語』としておけば間違いがなかったはず。それを『スパイ物語』としてしてしまったために、これでよいことになってしまった。完全に私の落ち度である。

今回、ロチにそんな物語があるのかと調べてみて、愕然とした。これはロチの有名な『アフリカ騎兵』という小説である。しかもその翻訳が古くからある。しかも岩波文庫に入っている。しかも、しかも渡辺一夫訳で。

これには参った。自分の無知とバカさ加減に、誰もいないのに一人で赤面した。それにしても渡辺一夫は、どうしてロチの『アフリカ騎兵』を翻訳したのか。私が生まれる前に出版された翻訳(白水社1938年、岩波文庫1952年)は、いまでも手に入るので購入して読んでみた。

お金を稼ぐために翻訳でもしたのかという私の予想は完全にくつがえされた。見事な力のこもった翻訳で、詳細なロチの年譜までついている。この翻訳の存在を知らずに、『スパイ物語』などと間抜けたタイトルを手違いでつけたまま出版していたことについて、出版社と読者にお詫びする次第である。改訳新版には、『アフリカ騎兵』となっている。

ちなみにSpahiについて『アフリカ騎兵』の後記で訳者渡辺一夫は次のように説明している:
……《スパイ》或いは《スパヒ》というのは、ペルシャ語のSipâhi(騎士)という字から轉來したもので、本來は《騎兵》の義だが、特に、佛領アフリカに駐屯するフランス人及び土人【不適切な用語だが過去の文章なので容赦を】の混成騎兵團の兵士を意味する。ヴォルテールも用いているCipayeは、同義語らしいが、インド語系統のものだということである。一八四五年七月二十一日の法令で、このスパイ騎兵隊は公設されたのであるが、既【←原文は旧字】に一八三一年頃からアラビヤ人や黒人の暴動鎮壓のため、自然に結成されていた。(p.317)

なお英語ではスパヒと発音、フランス語ではスパイあるいはスパヒと発音するようだ。

以下はプログレッシブ 仏和辞典のspahiの解説:
spahi /spai/
[男] 〖歴史〗 (かつてフランス陸軍により組織された)アルジェリアなどの先住民騎兵.
posted by ohashi at 12:16| コメント | 更新情報をチェックする