メディアの暴力というほど大きな、大げさな問題ではないのだが、またオフィシャルな報道の問題でもない、ごくささいなことなのだが、ある意味、全体を暗示するような象徴性を帯びた出来事だった。
以前、ある大学で非常勤講師をしていた頃のこと。その大学では受験生むけに、プロモーション用のビデオを作製することになり、そのなかに、学生の生活や勉学をぶりを記録する映像を入れることになった。選ばれた学生が、たまたま私の演習を受講していた。そこで授業風景を撮影させてもらえないかと大学側から私に打診があった。
なにも私のような非常勤講師が担当する授業ではなく、専任教員が担当する授業を撮影してはどうかと、最初は断った。その学生が私の授業しか受講していないというのなら、しかたがないが、そんなことはないだろうから、断っても、大学側にそんなに迷惑はかけないだろうと思った。
そこをなんとかと大学側から強く言われた。これは私のような高名な先生の授業だから撮影したいということではまったくない。大学にとって私が高名ならば、翌年、非常勤講師を断ることはしなかったはずである。だから理由ははっきりしないが、大学側から懇請されたので撮影を許可した。
その時、大学側からは授業の邪魔はしないので、普段通りに授業をしてほしいし、それを撮影するのがビデオの目的なのだからと言われた。撮影当日も、カメラクルーがやってきて、責任者と目される人物が、普段通りの授業をしていただければよく、いっさい邪魔はしませんからと教室にいる私たちに明言した。私は、撮影のことをすでに学生に話していた。もし嫌なら当日、休んでもいいし、撮影が終わってから授業に参加してもいいと伝えていた。このことは撮影直前にも学生に伝えた。退席する学生は誰もいなかった。
私は、カメラが移動して授業風景を撮影するだろうから、あとは、そのカメラがそこにないふりをして授業をすすめればいいのだろうと考えていた。しかし、そのような移動撮影が始まるまえに、カメラマンが、すでに着席している学生の数人を移動させたりと、細かく指示し始めた。それまでは丁寧な口調だったカメラクルーがけっこう横柄な口調で学生に指示を出している。私たちは記念撮影をするために集まってカメラマンの指示をおとなしく待っているかのような雰囲気になった。話と違う。授業も始まらない。
これは私がそう感じただけで学生はとくになんとも思っていなかったのではと判断されるかもしれないが、そんなことはない。実際、ひとりの学生が立ち上がって、私に帰ってもいいかと尋ねた。私は、帰ってもいいと許可すると、その学生は憤懣やるかたない顔をして退出していたった。カメラクルーの邪魔や干渉はしないという約束と違う、横暴なやり方に腹をたてた学生が一人はいたのである。しかも、その学生は、その授業では、一番よくできる学生といってもよかったので、私の心は痛んだ。
最終的に撮影は10分くらいで終わったと思うのだが、その後、退席者もいた教室で、なにか気まずい雰囲気のなか授業をした記憶がある。またそのときの授業風景の映像が、どの程度使われたか、あるいは使われなかったかを確かめることはしなかった。
ささいなことではある。またあのときのカメラクルーは質が悪く、それをもってして業界全体さらにはメディアを批判されても困るという意見があれば、それについては真摯に受け止めたいが、ただ、こんなことは日常茶飯事であろう――メディアにとっては。つまり、一定のシナリオがあって、それにあわせて画角が決まり内容が決まる。そしてそれに合わなければなんとしてもあわせる。そのような横暴あるいは暴力は、メディアにとって常態化していないか。
伊藤詩織監督『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』(Black Box Diaries)は、無許可の映像音声使用問題がもちあがり、日本では公開できない状態になっている。詳しい事情についてはまったく無知なので軽率なことは言えないのだが、ただ、ドキュメンタリーとしての説得力あるいは精度を増すために無許可の映像音声を使用したということだとしたら、ジャーナリズムでそれをしてはいけないが、ドキュメンタリーではふつうに行われていることだという意見もあるようだ。
ジャーナリズムだろうがドキュメンタリーだろうが、そんなことはしてはいけないという意見もあるだろうし、私にとっては、ジャーナリズムもドキュメンタリーも同じである。そのような約束違反、契約破りでなければ伝えられない真実があるのは確かだと思う。問題はそれとどう付き合うかである。それをどこまで弾劾し、それをどこまで許すのか。
あなたが被害者であった場合、あなたの被害者としての声を取り上げてくれるジャーナリズムなりドキュメンタリーは、しかし、あなたの声を鮮明にするような枠組みやスト―リーに、あなたを押し込めるだろうし、公開されたくない情報も容赦なく暴露するだろう。これは、もしあなたがジャーナリズムやドキュメンタリーの当事者(取材対象)になった方なら、絶対に感ずる、被害者への暴力である。あなたは、それをどこまで許すのか。その判断の基準は、取材者の姿勢によると私は考える。
ジャーナリズムであれドキュメンタリーであり、その加害性がなければ、有効な取材ができないことは事実である。厚顔無恥で法令無私の悪辣な政治家の真実を暴くには、時には、冒険的な取材や物語の構築も必要であろう。皮肉なことに、巨悪を眠らせないその手法が、被害者に対しても用いられるのであって、被害者の場合は二度被害を受けることになる。
しかしジャーナリズムやドキュメンタリーが二次加害性を意識しているのなら、それはまだ救いがある。真実を突き止める喜びに、真実を構築する喜びが優ってしまうことがある、それがまずいのだ。
隠れた真実を可視化するために、真実を構築することに喜びを感じ、それが二次加害であることを忘れてしまったときに、ジャーナリズムやドキュメンタリーはいまわしい権威主義的なものになりかねない。なりかねないどころか、ジャーナリズムやドキュメンタリーの加害性(被害者にとっては二次加害性)に泣き、また憤っている人がどれほど多いか、私が遭遇したカメラクルーや、ジャーナリスト、ドキュメンタリー作家は忘れないでほしいのだ。
2025年03月11日
メディアの二次加害性
posted by ohashi at 20:40| コメント
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