2025年02月20日

『エマニュエル』

オドレイ・ディワン監督 2024年 フランス映画

前作『エマニュエル夫人』の原題は『エマニュエル』で今作も前作と同じ『エマニュエル』。「エマニュエル夫人」というのは日本で勝手につけたタイトル(もっとも「夫人」であることはまちがいなかったが)。

ただそれにしても1974年の前作に登場したシルヴィア・クリステルは当時21歳。清純さのなかにエロスをにじませるまばゆいばかりの若いエマニュエルの面影は、今回の35歳のノエミ・メルランのエマニュエルにはない。ノエミ・メルランの顔はきつい。シルヴィア・クリステルにあったあどけなさは(たとえそれが淫乱さの引き立て役であったとしても)、ノエミ・メルランには望めない。彼女はむしろ禁欲的なイメージ、エロスとは対極にある存在であるかにみえる。

実際、『燃える女の肖像』(セリーヌ・シアマ監督2019)のノエミ・メルランのほうが、ずっとよかったというか、そこでは彼女は同性愛的感情に覚醒するのではなく覚醒させる側だったのだが、またそこではレズビアン映画の古典ともいえる格調のたかさが際立っていたのだが、今回の『エマニュエル』において、彼女はエロくないし、そもそも何をやっているのかよくわからない。彼女は誰を愛しているのかわからないし、誰から愛されているのかも不明。

最初から結論をいえば、ノエミ・メルラン版の『エマニュエル』は他動詞的ではなく自動詞的である。自慰的といえばそうかもしれないし、また自律的といってもいい。とにかく愛しもしないし愛されもしない。ただ欲望を開花させるだけである。まあそこが、人工中絶のために奔走する主人公を扱う『あのこと』の監督オドレイ・ディワンの真骨頂というべきかもしれない。相手がいないのである。

もうひとつ今回の『エマニュエル』では、すべてが脳内劇場のできごとであるとみることもできる。冒頭のシーンで香港へ向かう旅客機のトイレでのセックスは、いきなり奔放なエロス全開かと思うのだが、機内における彼女の性的妄想にすぎないのではという可能性が残る。実際、彼女のその後の言動は、妄想の沼にはまるようなところがあるというか、すでに沼にはまっているところがあり、香港に向かう旅客機のなかではじまっていたと推測できるのだ。

彼女の妄想癖は二つの要因によって加速する。ひとつは性的欲望の抑圧による反動によって。そもそも彼女は香港のホテルのステータスのランクが下がったことの原因を突き止めるために派遣された監査官のような立場にあり、本部の指示に従って、香港のホテル支配人(ナオミ・ワッツ)の問題点を探ることになる。支配人のホテル運営にとくに難があるとは思われないが、支配人はエマニュエルに対し、ホテルという空間をエロティックでリラックスできる祝祭的な場として演出していると語る。おそらくそれがホテルの評判を下げた原因ではないかと思われるし、本部もそのことをエマニュエルに確認させようとしている。エマニュエルは、いうなれば、スーパーエゴの指令によって、エロティックな欲望のありかをつきとめることで、性的欲望の抑圧に加担しているとでもいうべきか。

最終的に彼女は、ホテル経営に何ら問題はないと報告するのだが、おそらくそれは本部の意向にそぐわない報告であり、ホテル支配人ではなく彼女自身が解雇されるだろうが、同時にそれはスーパーエゴの支配を離れ、彼女が無意識の性的欲望を解放したことも意味している。

それがある意味、彼女の脳内における精神的変化であるとすれば、いまひとつは彼女をとりまく環境から発散するエロスである。彼女の性的欲望が周囲の環境と同期するか、もしくは周囲の環境が彼女の性的欲望を喚起するといってもいい。

香港という東洋の神秘とエロスの場。1974年の『エマニュエル夫人』もそうだったが、アジア(タイのバンコクだったか)がオリエンタルなエロス解放の場となったように、いま香港の高級ホテルだけでなくその路地裏もまた危険なエロスを発散する。あるいはもっと正確にいえば、オリエンタリズムによって東洋が、実際はどうであれ、西洋の眼からすると危険な死と隣り合わせのエロスの場となる――と、そのように妄想されるのだ、ちょうど、危険きわまりない遊びが行なわれている秘密のクラブと西洋からの訪問客たちが考えている場が、実際にエマニュエルが危険を承知で行ってみると、ただの雀荘だったというエピソードが如実に示しているように(なおこの雀荘は裏で売春斡旋業をしているようなのだが)。

そしてホテルそのものもまた、すでに支配人の言葉どおりに、エロスの解放の場となっている。嵐の夜、ホテルの地下が浸水して水浸しになるエピソードが濃厚に漂わせているように、ホテルの身体は下半身がうずき濡れているのである。

こうした二つの要因――抑圧的な使命に対する反発と、エロティックな環境――によってエマニュエルは徐々に自分の性的欲望を解放するのだが、しかし、同時にそれは直接的な肉体的経験というよりも、雰囲気に酔っているというか、あるいは自慰的な妄想にひたることでしかない。

彼女は神秘的な日本人の男性ケイ・シノハラ(ウィル・シャープがいい味を出しているのだが)に惹かれてゆくのだが、彼が宿泊しているホテルの部屋のバスルームで、彼女は不在のケイ・シノハラ/ウィル・シャープを思いひとり浴槽に入る。おそらくそれは彼女の片思いというよりも妄想によるマスターベーションということだろう。

エマニュエルがケイ・シノハラと結ばれることになって映画はクライマックスを迎え終わるのではという予想は、ある程度、的中して、彼女はケイ・シノハラの手引きで香港の夜の性的世界に導かれ、そこの若い男性と肉体的に結ばれることになる……。いや、ケイ・シノハラとではないのか。彼は、エマニュエルを香港の男性との性行為へと導くことで消えてゆく消滅する媒介者ということだったのか。

いやそうではなく、エマニュエルと香港の若い男性とがセックスをするその場に、ケイ・シノハラは消えずに残っている。それだけでなく、ケイ・シノハラは、エマニュエルと香港の若い男とのセックスの指南役として、あれこれ指示を出すのだ。なんだ、これは。

結局、エマニュエルが、香港ではじめてセックスをする見知らぬ男性は、その場にいて二人のセックスを見守っているケイ・シノハラの身代わりなのである。彼女のセックスは、ケイ・シノハラを念頭においたマスターベーションにすぎない。そしておそらくこれが、この映画が到達するひとつの洞察なのである。エロスは、遠いもの、手に入らないものへの妄想によって最高の強度の達するのだということ。マスバーベーションほどエロティクなものはないと洞察。

ケイ・シノハラは、ほんとに存在したのかどうかわからない。彼女の妄想のなかだけの存在だったのかもしれない。最後の場面、彼女と見知らぬ男とのセックスの場にいるケイ・シノハラは彼女の妄想のなかだけの存在かもしれない。おそらく、香港のホテルも、香港も、そしてアジアも、オリエントも。

そしてこの妄想をエマニュエルが仕切っている。彼女が構築している。彼女は欲望を利用されるのではなく、欲望をみずから発見し操縦している。自動詞的な欲望は、誰に利用されるわけでもなく、誰に奉仕するわけでもなく、自由なのである。それが女性にとってのひとつの望ましい欲望のかたちである。禁欲的な欲望と自由奔放な欲望との合体。それがこの映画が到達する第二の洞察ではないだろうか。
posted by ohashi at 13:07| 映画 | 更新情報をチェックする