2025年02月26日

『敵』

筒井康隆『敵』が出版されたのは1998年1月で、75歳の元大学教授の日常を描くこの作品を、出版当時はさして読みたいとも思わなかったのだが、今回、映画化されたのを機に読んでみた。気づくと私自身が主人公の75歳という年齢に近づいてきた。元大学教授というのも同じ境遇である。

吉田大八監督の映画『敵』(2023年製作、一般公開2025年)と、筒井康隆の小説『敵』とは、原作と映画化作品という関係ではあるものの、それぞれ独立した作品として、どちらがオリジナルで、どちらがアダプテーションかを考えることなく、ふたつのパラレルワールドを展開する同等の作品としてみても面白いのではないかと思う。

映画では主人公を78歳としているが、おそらくこれは主役を演ずる長塚京三の映画撮影時の実年齢にあわせたのだろう。

細かなことをいえば、小説では主人公が要求する講演料は最低でも20万円なのだが、これは相当の売れっ子の元教授でないともらえない額である。おそらく筒井康隆は50万とか100万あるいはそれ以上の講演料をもらっているのだろうから、まあ大学をやめたしがない元教授だから20万円くらいかと考えたのだろうが、高い。実際、映画では10万円以下の講演は引き受けないということになっているが、それでも高い方だと思う。ちなみに私は、私ごときの一回の講演に10万、20万円だすというような依頼は絶対ひきうけない。安ければ安いほど引き受ける。それが老人の美学である。もし私が安い講演あるいは無料の講演依頼を断ったとしたら、それは講演料が安いからではなく、体力の問題であったり、準備期間が少なすぎるとか、講演内容に問題があるからにすぎない。ただし私に講演依頼などくることはめったにないのだが。

あと1997年の小説だと、ネット環境がいまと違いすぎていて、敵がやってくるという情報は、いったいどこで話題になっているのか、私はしたことがないのでよくわからないのだが、いまでいうオープンチャットルームみたいなものか。ラインとも違うようだけれども。

映画版ではさすがに小説出版時の1998年の時点でのネット環境の再現はあきらめて、あやしげな迷惑メールとして「敵」情報が伝えられるにすぎない。

また主人公はパソコンで原稿を書いているので、出来上がった原稿は、そのまま編集者にデータファイルとして送信すればすむのだが、映画では、わざわざ主人公宅まで編集者が原稿をとりにきて、その場で目を通す(小説にはなかった場面であるが)。私自身の場合でも、いまでは編集者に一度も直接会うこともなく翻訳本を上梓するのはふつうのことになっているので、あれは一昔前の時代のことだとノスタルジックな思いすらしてしまった。

映画のなかで鍋料理の場面は、ひとつのクライマックスみたいになっていて、その場に、設定上、参加できなかった俳優が残念に思っていたというトークをネットかなにかで観たのだが、小説のほうは、「ああいう不条理にどこまで耐えられるか、自分を試しただけだよ」と主人公に言わせているのだが(「珍客」の章)、映画のほうは、そこまで不条理ではないが死人が出て、小説よりも深刻な事態に発展する。

というのも小説のほうは、そんなに人は死なない。主人公の妻はすでに死んでいるが、主人公の教え子たちは、鍋料理の場で死ぬ一人を除いて、みな健在である。映画のほうは、主人公の知人が死んだりいなくなったりする。そのため死の影が小説よりも大きい。また映画のほうがホラー的要素が強くなっている。

ちなみに小説では、鍋料理の場で、ほんとうに人が死んだのかどうかわからないともいえる。小説もこの段階で、現実か妄想か、主人公にも読者にも区別がつかなくなる。映画のほうも、どこかの時点で、これは妄想らしい(とくに敵に関するエピソード)と観客も気づくことになると思うのだが、現実と妄想、虚構と事実、外界と内面との境界があいまいになって……。そして映画の最後を迎えることになる。

小説も同じで、現実の中で事件化される敵の存在は、ネット上でのフェイクニュースみたいなものと思えてくるのだが、それがいつしか主人公の内面から湧き出てくる恐怖の存在となってゆく――というか、それは映画のほうか。敵の襲来によって難民となった人々が主人公の家のなかに黒く汚れた群衆となって到来するのだが、それはまた一瞬の幻覚ともなっている。

映画のほうは、現実の背後にある死の世界が次第に存在感を増してゆき、主人公のおだやかで変哲もない日常がそこにとりこまれていくという展開をするが、小説のほうは、死に直面した主人公が息を引き取る前に、その毒を精神内から出し切るという、デトックス物語ともなっている。そしてそのデトックス過程で主人公の思いがさく裂。いうなれば、後半は主人公の脳内劇場となってゆく。

小説ではボブ・フォッシー監督の映画『オール・ザット・ジャズ』について触れられるが、死が迫る演出家がみずからの人生を振り返るとき、それがミュージカルの場面となって去来するというこの映画は、この小説の世界と通底している。小説でも死を覚悟する主人公の頭のなかでは、教え子や三人の女性(死んだ妻、恋愛感情を抱いた教え子、そしてクラブ「夜間飛行」を手伝っている女子大生)への性的妄想がさく裂する――まさに『オール・ザット・ジャズ』の世界のように。さらにそれは脳内劇場へと変貌をとげて、戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台に主人公たちを出演させるのだ。このへんは小説を読んでいて圧巻なのだが、映画ではその方向にはすすまない。小説では、『オール・ザット・ジャズ』のロイ・シャイダーのように主人公は愛する人たちに別れを告げる。

正確に言えば、また会いたいという思いをいだきつつ、主人公は死んでゆくのだが、映画ではこの再会の思いを引き受けることになって、主人公は死んでも死なないというか、別モードで生き延びる。いっぽう小説のほうでは、主人公は死ぬ。というか、小説では、死を描くことは容易だし、実際、多くの小説は死を描いてきたし、そもそも文学は死を描くためにこそあるといってもいいのだが、しかし死について描く文学自体は死ぬことはない。そもそも文学あるいは小説は、どのように死ぬのか。

有名な例だが、演劇の場合、舞台で登場人物が死んでも、それは死を演じているだけで、演じている俳優が死ぬわけではない。もし事故とか病気で、舞台で俳優がほんとうに死んでも、観客はそれを演技としてうけとめるだけである。舞台では俳優がほんとうに死んでも、ほんとうに死んだとは受け入れらない。ならば、演劇において虚構とか演技ではない死はどのように表象するのか。

そんなものは表象しなくていいといえばそれまでだが、逆にいうと、俳優は舞台では死ねない(たとえ現実には公演中に亡くなる俳優は多いし、舞台で死ねれば本望という俳優も多いのだが)。なにをやっても演技と思われるだけである。ならば俳優にとって死は、干されて劇場に呼ばれなくなること、あるいは劇場を後にしてどこかへ消えることである。

実際、物語の世界をすべて劇場での出来事に置き換えたジョー・ライト監督の『アンナ・カレーニナ』では、ヒロインの死は、蒸気機関車に轢かれるというメロドラマティクの死ではなくて、出番が終わったので、先に失礼するというかたちで劇場を後にするヒロイン役の俳優の行動によって示されていた――なんというアンチクライマックス、しかし、そうでもしないと〈人生は芝居、人間は俳優、世界は劇場〉というこの映画のコンセプトのなかで死を表象できないのである。

小説の場合はどうか。簡単に理論化できるわけではないので、『敵』に即して考えれば、まずこの主人公の元大学教授は、自分の死を、自分でコントロールしようとしている。ふつうなら、あるいは私が想定している自分の死は、事故などによる不慮の死でなければ、病気で死ぬことだろうが、この主人公は病死の可能性をリアルに考えていない。そこが不思議なところ。主人公が望むのは自死である。その方法なども考えている。

しかし小説では、主人公は予行演習はするものの、その後、とくに病気もケガもせずに、いつのまにか意識が遠のいていって死んでいる。その間、敵に関する記述が多くなる。また映画でも同様に後半になって敵による影響が現実あるいは主人公の意識に入り込んでくる。そのために、どうやら主人公は身体的な病気とか体力の衰え以前に認知症をわずらって死んでゆくのではないかと思われる。敵の存在におびえるのは認知症の徴候である。また認知症になったら先は長くないともよく言われる。

だが若年性の認知症にならなくても、人は死ぬときには誰でも認知症になる。現実と幻想との区別がつかなくなる。過去と現在が入り混じる。自分が生きているのか死んでいるのかもわからなくなる。そうして意識が混濁するなか死を迎える。私自身、そうして死んでゆくだろうと思う。認知症になったから死ぬのではなく、死ぬから認知症になるのである。

筒井康隆氏は新書『老人の美学』(2019)の中で、『敵』を出版した頃、森毅氏と対談したときのことに触れ、森毅が、モダニズム小説というのは過去と現在をいったりきたり、現実と幻想との区別がないような書き方をしていて、認知症的だというコメントをしたことを伝えている。

そういわれてしまえば、まさにその通りなのだが、認知症的世界の客観的相関物は、モダニズム小説だけではない。フローリアン・ゼレール戯曲『Le Père 父』(2012)は日本でも翻訳上演されたと思うが観ていないのだが、ゼレール自身が監督した映画『ファーザー』(The Father, 2020)もコロナ渦で映画館では観ておらず配信で観たのだが、その映画において、認知症になった高齢男性の視点からみた世界は、モダニズム小説というよりも不条理演劇いやホラー映画そのものだった。強度な認知症になれば被害妄想のなかで苦しむことになり、出口なき覚醒なき悪夢の世界に閉じ込められて死んでゆくとしても、誰もが死の直前には認知症的になるとすれば、待っているのは悪夢の世界だと思うと気が滅入る。

『敵』は小説版ではモダニズム小説、映画版ではホラー色の強い作風になっているのは、ともに、認知症的世界の表象の二形態ということになるのだろうか。

ただし映画版では主人公は死んでも死ななない。どいうことかは映画を観てのお楽しみということになるのだが、小説版では、主人公は死ぬ。三人称の小説だが、基本的には疑似一人称の小説である『敵』は、主人公の内面を描いているので、死の瞬間も外面ではなく内面から描いている。そのため死は外的に、あるいは臨床的に死にましたと描けないのだが、そのぶん、まさに死を内側から描くという挑戦的な文学的試みが実現する。

それは『敵』の文体とも関係する。この文体をどういうふうに考えてはよいのか、私自身、正直なところよくわからないのだが、先の対談を回顧するなかで筒井氏はエンターテインメント小説ではなく「モダニズム小説」を、純文学を書こうとしたと述べている(「『敵』はモダニズム文学の美を狙っていると同時に主人公渡辺儀助の老人としての生活の美を描こうとしているのだ」)。そのため、その文体は癖ではなく意図的にこしられたものだろう。では、その特徴は何か。

読点(、)が極端に少ない文章となっている。読者が読み間違ったり読み取れなくないように最小限の読点はあるが、句点(。)以外、読点は極端に少ない。人間の意識の流れのなかでは単語の流れや羅列はあっても読点はない。そのため読点のない息の長い文章はそれ自体で主人公の内面のつぶやきの直接的な表象かもしれず読者としても自分が主人公の内面に入り込んでそのつぶやきをじっくり聞いているようなあるいは自分で言葉を内語として発しているようなそんな思いにとらわれるのかもしれない。もちろん、それ以外の効果もあるとしても、今は思いつかない。

もうひとつは擬音語とか擬態語がすべて漢字で示されている点も特徴のひとつだろう。たとえば「雨が使徒使徒と降る」というように書かれている。実際、見慣れない漢字の羅列に出会うと、それを音読みして、なんとか意味が分かる場合もあれば、音読みしてもなんの擬音語か擬態語かわからないところもある。

よくわからないということをお断りをしたうえで、私見を述べれば、これはワープロとかパソコンで原稿を書いているときの過剰な変換や誤変換をそのまま再現しているのではないだろうか。もちろん私のパソコンは「雨が使徒使徒と降る」という誤変換はしないが、ただいかにもワープロ・パソコンで書いたときのような文章らしさを醸し出しているのではないだろうか(先に触れたように映画では主人公はパソコンで原稿を書いている)。

これはパソコンでうまく文章を返還できない(あるいは初期のパソコンの限られた文章作成能力)へのパロディではなく、なにか非人称的な力が、主人公渡辺儀助の意識のなかで、あるいは作家自身のなかで働いている、もしくは侵入しているのかと思われる仕掛けではないのか。

いまでいえばAIあるいは生成AIによって書かれた文章という趣がある。ことわっておくが、主人公がAIに乗っ取られているとか、主人公など最初からいなくてAIが書いているだけというホラーを考えているわけではなく、なにか文章の一部が勝手に漢字変換されてしまうことで、非人称的な力が顕在化したことが感得されるということだ。そしてその非人称的な力とは、言語の力かもしれないし、無意識の力かもしれないし、自我がコントロールできない老いや老齢による変化かもしれないし、究極的にはそれは死への譲渡過程のはじまりなのかもしれない。

この小説において敵は、北方から侵略してきて日本人の多くを難民化する脅威的存在だけではなく、名指されぬものとして存在している。主人公を死へと追いやる、すでに主人公の内面に侵入している名もなき敵がいるのだ。

ところで主人公がいつから認知症になって死を迎えるのかについて、敵についての妄想がひどくなったことと認知症の進行とがパラレルになっているという暗示から、認知症、衰弱、死という連関が想定されているように思われるのだが、今回、映画を観ながら別の可能性も考えた。

これは私の認知症的妄想といわれれば反論もできないが、映画のなかで、主人公が自死の予行演習をしたとき(小説でははっきりと書かれていないとはいえ)、あのとき事故でほんとうに死んでしまったのではないだろうか。予行演習以後の出来事は、死の直前に主人公に記憶や情感や欲望や希望が入り混じったもの(all that jazz)が去来したことの記述ではなかったか。

ニコス・カザンザキスの小説『最後の誘惑』(映画化もされたが)では、十字架にかけられたイエス・キリストは、十字架から降ろされ、ひそかにマグダラのマリアに助けられ彼女と結婚をして子供や孫に恵まれいままさに大往生するときに、そこで我に返って、これまでのことは死の直前に悪魔がみせた誘惑の偽りの人生であったことを悟り、誘惑に勝って死ぬという内容だが、『敵』でも主人公は薄れゆく意識の最後の瞬間に目覚め、予行演習ではなく真の死に直面し、確実に死ぬことを悟るのではないだろうか――もちろん、それで悪あがきをするのではなく、おだやかに死を迎え入れるのだが。

とはいえすべてではないとしても、一部を、AIが書いたような文章は、主人公の死をどのように表象するのか。それは言語と文章表現の崩壊というかたちをとる。実際、小説『敵』は、主人公の日常と所感とを、きちんと、ほぼ同じ字数の章で展開する、整った、まさに端正な小説である。そこにあるのは淡々とし平穏な日常の報告の身辺日記的エッセイであり、また決して深入りすることはないが同時に浅薄でも通俗的でもない知的なエッセイである。しかし、それが最後になると、たとえば、AIがみずからの文章の情報データを放出するかのように、これまでの文章のキーワードをすべて列挙しはじめる――もちろんこれは、主人公の混濁した意識が生み出す記憶の断片としても読めるのだが(さらにいえば、脳内に潜む敵をすべて吐き出すデトックスの試みとも読める)。

そしてやがてページに大きな空白が生まれ、雨の「使徒使徒」という、擬音語だが擬態語だかしれない漢字のみが、白いページの中に、さならが一粒雨のように印字されることになる。

言語表現が、あるいはエクリチュールが息絶えようとしている。主人公の意識/書き手の文章に侵略して一部を乗っ取ろうとしたAIも、主人公/書き手が、死んでしまうとき、宿主が枯れてしまうとき、なにも生成できずにみずからも消滅するしかないようだ。

ただ、この末尾のイメージは、先ほど触れた映画『ファーザー』の主人公(アンソニー・ホプキンズが演ずる)の最後の述懐を思い起こさせる。認知症になった主人公は、木々の豊かな葉が枯葉となって落ちてゆくように、自分のなかからすべてのものが失われてゆくともらす(主人公はそこで死ぬわけではなく、また映画は、病室の外の木々の豊かな緑を映し出しているが)。『敵』のなかで主人公がみる光景は雨あるいは雪がしずかに降る光景である。それはまた喪失と消滅の、瞬時に消えるのではなく、ゆっくりと存在を喪失してゆくという光景であり、それは光景をみているあるいは幻視している主人公の意識と同期している。

死を扱った映画、このブログでもふれた『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(ペドロ・アルモドバル監督2023年)では、ジョイスのDubliners(『ダブリン市民』『ダブリンの市民』『ダブリンの人びと』『ダブリナーズ』などの訳題あり)のなかの「死者たちThe Dead」から二度ほど引用され、ジョン・ヒューストンの映画化作品の一場面が実際に映画のなかで引用される。映画をみていたとき、「死者たち」のどこにある引用かわからなかったが、調べてみてというか思い出して、最後の一節だとわかった。

雪がかすかに降っている音が聞こえる。最後の時の到来のように、生者たちと死者たちすべての上に降っている、かすかな音が聞こえる。
ジョイス『ダブリンの市民』結城英雄訳、(岩波文庫2004)「死者たち」(末尾)より

この光景(ジョン・ヒューストンの映画の最後の場面でもある)は『敵』の終わりを彷彿とさせる。筒井康隆『敵』は、死の表象をめぐる挑戦的試みでもあると同時に、死の表象の忘れかけていた鉱脈を掘り当てくれた貴重な作品であるように思う。

私も雨か雪の降る景色を眺めることができればいいな。
posted by ohashi at 19:50| 映画 | 更新情報をチェックする