2025年02月18日

『Broken Rage』

アマゾン・プライムヴィデオで配信中の北野武監督・脚本・主演の映画『Broken Rage』は、Wikipediaによる紹介を引用すると
概要
殺し屋の男"ねずみ"は謎の男『M』からの依頼で闇金経営者・大黒、暴力団組長・茂木をはじめ、数々の暗殺を重ねていた。しかし、依頼を受ける喫茶店を警察に押さえられ、刑事・井上、福田らから取調べを受ける。

”ねずみ”は暴力を交えた苛烈な取り調べを受けるが、頑なに背後関係を吐かない。そこで、井上、福田らから過去の罪を全て揉み消し、新しい身分、住居と死ぬまで困らない報酬を保障する代わりに覆面捜査官となって麻薬組織への潜入を持ちかけられる。

刑事らの手引きにより、対象の麻薬組織のボス・金城の前で強力な腕っぷしを披露し、組織に引き入れられて即座にボディーガードに抜擢される。更には金城を狙った暗殺者を拳銃を抜く暇も与えず射殺し信頼を得る。

しかし、肝心の薬物取引の現場を押さえる機会がなかなか訪れず、焦れた刑事らによって、混ぜ物入りの麻薬が縄張り内で発見されたという偽情報を”ねずみ”から金城に報告し、内部不和を招く。組織内で薬物をパッケージ化する田村へ疑いの目が向けられ、金城による直接かつ大規模な取引が行われるように仕向けることに成功したのだった。

そして当日、遂に刑事らは多数の警官と共に取引現場に押し入り、その中で”ねずみ”は手筈通り、刑事により射殺されたように見せかけ、自由を手にするのであった。

……という内容を、前半はバイオレンスドラマ、後半ではセルフパロディのストーリーコントとなり最後に前半では語られなかったネタバらしがある。

ちなみに、Wikipediaのこの項目には、「この作品記事はあらすじの作成が望まれています。 ご協力ください」と間抜けな注意書きがある。概要という見出しなのだが、これはりっぱなあらすじで、これ以上、何を付け加えるというのだろうか。またこの↑概要は、多くのねたをばらしている。

前半30分がシリアス編、後半30分がセルフ・パロディのギャグ・コメディ編となるが、前半と後半で同じ物語を共有しているので、絨毯の裏表ともいえるのだが、ただ、それをいうなら前半は、あるいは最初は、悲劇(実際にはハッピーエンディングのシリアス劇)、二番目は茶番でということになろうか。

この茶番の部分は、正直言って観ていてつらく恥ずかしくなったし、多くの視聴者もそう感じたようだが、ただ、観ているうちにあまりのくだらなさで大笑いしたことも事実。ひとつひとつのギャグは面白くもなんともないのだが、それを何度も畳みかけるとおかしくてたまらなくなるというやつだろうか。

ただ同じ物語の反復というのは興味深かった。いわゆる、今流行りともいえない前から流行っているタイム・ループ物に属する映画だとみたらどうだろう。

ただし、タイム・ループ物では、同じ事件、同じ物語を繰り返されるとき、当事者は、前の回の記憶がある。つまり同じ事件が展開しているという記憶がある(たとえそれは全員ではなくても、主人公あるいは重要人物には出来事が反復していることが認識できる)。

しかし『Broken Rage』においては登場人物は、前半と同じ物語、同じ事件を反復しているという意識はまったくない。となると、これはタイム・リープ物というパラダイムでは把握できない構成であるとわかる。

同じ事件、同じ物語を反復したのである。なぜ、そんなことをするのか。

ホン・サンス監督・脚本の『正しい日 間違えた日』(2015)は、同じ出来事を前半と後半で反復する、ある意味、異色作。

映画監督の主人公が観光地で女性と出会い、大学で少人数の学生やファンを相手に講演をするといった出来事(ホン・サンス監督の映画ではおなじみの私小説出来事)が、前半と後半で繰り返される。ただしまったく同じではなく、後半では、登場人物と展開は同じだが、カメラアングルやカット割りを変えたり、新たなエピソードを加えたり、出来事の時間も長くして、前半よりも掘り下げた内容となっている。ということは前半だけでは物足らなくて後半を取り直した。後半はセカンドテイクなのである。

どちらが「正しい日」で、どちがら「間違った日」なのかははっきりしないが、ふつうに考えると、最初のテイクがよくなかったから、つまり完成に達しなかったから、もう一テイク撮ったということになろう。2回目が、反復回が、完成もしくは完成に一歩近づいた回ということになろう。

もちろん映画撮影の場合起こりうることだが、最初撮ったシーンが気に入らない、あるいは失敗とみなされ、何度も、撮り直してみて、結果的に最初のシーンが一番よかったということもあろう。繰り返せば繰り返すほどよくなる場合と、反対に繰り返すごとに悪くなるということもある。

そのような可能性を常に念頭に置きつつ、一般的には、繰り返す以上、後続回のほうが改善されているとみるべきだろう。ゲームのようにリセットしてやり直すことでよい結果がでるとみることができる。

だが『Broken Rage』では、完成された30分の短編映画(北野監督のこれまでの映画の集大成というか簡約あるいは凝集版)という前半に対して、同じ物語を提示する後半は、改善された向上したというよりも、改悪、悪化したようにみえる。完成された前半を後半で覆したかのようだ。前半が間違えた日、後半が正しい日となってハッピーエンディングとなるというよりも、前半は完成した正しい作品、二番目つまり後半は間違った茶番というほうがぴったりくる。

しかし反復の理由は結果はどうであれ完成への挑戦であり、前半はまちがった日であり後半は正しい日であるという意味付けは残る。『Broken Rage』では、まちがった失敗でもあるような後半が、前半の改善版ともいえる。なぜか。

いまはもう読まれなくなったと思うが、私が英文科の学生の頃に読んだオルダス・ハクスリーのエッセイに、「悲劇と全体的真実」というのがあった(‘Tragedy and the Whole Truth’, Music at Night(1931)所収)。

私などこれを読んだ最後の世代ではないかと思うが、このエッセイのなかでハクスリーは悲劇というのは定められた破局的結末にむかってすべてが収斂するよう、夾雑物を一切排除した展開をするのに対し、喜劇は、夾雑物や筋とは無関係な要素を積極的に取り入れ脱線をもいとわないルースな展開をする。

だから喜劇は未完成な劣悪な芸術というのではなく、実はそこが喜劇の素晴らしいところであって、喜劇は、悲劇では表象できない人生や世界の不確定要素を表象できる。悲劇が純粋かつ狭小な真実の提示をめざすとすれば、喜劇はあらゆる可能性を考慮する全体的真実を提示するのである。

たとえばとハクスリーはシェイクスピアの『オセロー』を例にだす。オセローの妻となったデズデモーナが、あとから別の船で到着した夫オセローを出迎えに桟橋を走ってくるときに、よもやつまずいて、倒れ、スカートがめくれあがってパンツまるみえという、はしたない姿をさらけだすことはないだろう。そんなアクションなり描写があれば、悲劇作品がだいなしになる。

ハクスリーが念頭に置いているのはフィールディングの『トム・ジョーンズ』である。そこでは主人公の恋人が再会に駆けつけるもののけつまずきパンツ丸見えになる。しかし喜劇的要素満載の『トム・ジョーンズ』ではその描写で作品世界がゆらぐことはない。さらにいえば、転んではしたない姿になるということは現実には起り得る。しかし悲劇は、そうした可能性を取り入れることはできない。悲劇のほうが現実に対する間口が狭いのである。それに対して喜劇的なものは、あらゆる可能性を吸収できる。喜劇は全体的真実に開かれているのである。

こう考えると、『Broken Rage』は、完成度の高い、それゆえ夾雑物や不純な要素を排除している前半部に対して、排除された可能性、作品の完成を阻止するような否定的可能性を積極的に取り込んだ後半部をぶつけてきたといえるだろう。前半部は現実の多様な可能性を排除し、後半部は現実の多様な可能性をとりいれている、つまり後半部は全体的真実に迫ろうとしているのである。

実際、『Broken Rage』では主人公は何度もけつまずく。座ろうとする椅子が壊れていて、壊れたテーブルごとひっくりかえる。そのひとつひとつが茶番的笑いの種かもしれないが、同時にそれは、前半部でかっこいい殺し屋を作りあげるために排除された、かっこわるい可能性(ただし現実には常に起こりうる出来事)の一コマなのである。

『Broken Rage』の後半は、あるいは二度目は全体的真実が開示される場である。となると、初回をパロディ化し、初回の完成度を揺るがすような第二回は、その実、全体的真実への作品を開き、初回の完成度を上回る全体的真実への開かれを実現しているのである。

実際のところ、第一回で謎なまま取り残された要素(Mとは誰か)が、第二回の最後で判明する。第二回は、正しい日、真実が開示される日でもあったのだ。

posted by ohashi at 12:13| 映画 | 更新情報をチェックする