2025年01月30日

『室町無頼』

映画館で予告編を見る限り、大泉洋の時代劇は、さほど観たいとも思わなかったし、そもそも、あまりよくわからない室町時代が舞台であること。ポジティヴな期待をかきたてる唯一の要因といえば、それは入江悠監督・脚本の映画だということだった。

だから強く観てみたいと思わせるような映画ではなかったが、公開前に、この作品を絶賛しているネット記事にめぐりあったこともあり、どんな映画なのか俄然興味がわいてきた。

そこで公開まもない頃に映画館に足を運んだが、期待にたがわずというか、期待以上の映画であることが確認できた。

大泉洋も、いつもの、よく出会う役柄とはちがっていたし、NHK大河ドラマの源頼朝ともちがっていて、一見何の衒いもなく策もなく飄々と生きているかにみえて、残酷で無策な権力者への怒りを秘めつつも冷静で、敵の眼をあざむく策と用意周到な計略をもってしてことを進めるなど、一筋縄ではいかない端倪すべからざる人間性を誇る、まさにヒーローと無縁であるかにみえて、もっとも正統的なヒーローであった。

ちなみに私の祖母(私に将棋を教えてくれたが決して勝たせてくれなかった)は、剣道の心得などないはずなのに、テレビの時代劇をみてはいつも、俳優の剣の持ち方が悪いとか、腰が入っていないをはじめとして、ありとあらゆる文句をつけていたが、『室町無頼』におけるCGと組み合わされているがCGくささを感じない殺陣には、おそらく文句は言わないだろうと思った。実際、大泉洋をはじめとした演者たちの剣さばきには、映画特有の殺陣の伝統を見事に継承しているように感じた。

物語のなかで、蓮田兵衛/大泉洋の弟子ともいえる才蔵/長尾謙杜の棒術は、クライマックスにおいては地上から屋根の上へと展開する剣戟をみせるのだが、CGと協調するその殺陣は優雅であり力強く、決まった動きと予想外の動きとを見事に合体させて、たとえば映画『八犬伝』(2024)における天守閣の屋根での決闘をしのぐものがあった。

昔、セルゲイ・ボンダルチュク監督のソ連映画『戦争と平和』を映画館でみたとき、戦闘場面(ボロジノの戦いだったと思うが)において、画面の隅々から隅まで戦う兵士たちの動きが認められて大いに圧倒された記憶があるが、12万もエキストラを使った『戦争と平和』に比べれば数こそ少ないものの、強度においてそれに匹敵するほどの一揆の場面が展開していたことは特筆に値しよう。一揆に参加した民衆たち/エキストラたちが誰一人として手を抜くことなく、その絶望と怒りを発散させ、最後には祝祭的な興奮を一丸となって伝えることができていた。

おそらくそこには、黒澤明監督の『七人の侍』にみられたような、勝利をもたらしたのは農民/庶民の力だということの画像的メッセージが意図されているのだろうが、『室町無頼』においては、庶民の力の全面的肯定だけでなく、指導した蓮田兵衛/大泉洋の力もまた等しく顕彰されているように思われた。

『七人の侍』を思い出したついでに、『七人の侍』がアメリカ映画の西部劇の世界をモデルにしていたとしたら、『室町無頼』も西部劇的な世界だが、その音楽からもわかるように、アメリカの西部劇というよりもマカロニ・ウエスタンの世界である(英語ではスパゲッティ・ウェスタンという――こちらのほうが和製英語みたいだが、マカロニのほうが和製英語)。ただ西部劇もマカロニ・ウェスタンも荒野あるいは原野のなかに忽然と姿をあらわす宿場町のようなところが舞台となるのだが、『室町無頼』では、世界は荒野とか原野ではない、ただ荒廃した、累々たる死体の山が連なる地獄のようなところというか地獄そのものとなっている。その意味で、この世界は核戦争後の荒廃した世界を舞台にした『マッド・マックス』シリーズの世界、アフターアルマゲドン的世界に近い。だが、『マッド・マックス』の世界では主人公が戦う相手は地獄の大王というよりも地方の豪族みたいな連中であって、その世界の支配者や国家権力ではない(そもそも『マッド・マックス』の世界線においては国家は崩壊し世界の支配者はいない)。

映画では荒廃した京都が舞台だが、その京都は東山文化の時代ということのようだが、日本文化は御所あるいは幕府の建物以外にはもはや存在しない。これは中心部にだけ文明化されていても、その周囲にひろがるのは荒野でしかないという世界、そう映画『グラディエーターII』がみせる古代ローマ(紀元後の世界だが)の世界を強く連想させる。ただし『グラディエ―ターII』が貴種流離譚であるのに対し、『室町無頼』の蓮田/大泉は、あくまでも無頼の徒である。無頼の徒が実は将軍の落胤だったというような設定ではないところがよい。

ただし『室町無頼』から強く連想される最近の映画は、方向性が正反対で敵と味方が真逆でありながら、どこか似ている『はたらく細胞』である。戦争アクション映画はローテクであればあるほど迫力をます。そこに肉弾戦の要素が入るからである。ハッカーが戦争を起こし、ハッカーが戦争を防ぐという現代の戦争に映画的みどころは存在しない。『はたらく細胞』は、人体における生理的・化学的反応をすべて擬人化しているため、白血球も、キラーT細胞も、NK細胞もどれも、細菌をナイフで殺す――飛び道具は使わない。そしてそれは『室町無頼』における剣を使うアクションと何ら変わりない。

ただ、『はたらく細胞』との比較は、『室町無頼』の世界を照らすというよりも、『室町無頼』によって『はたらく細胞』の世界のイデオロギー的限界があぶりだされるのであって、この点は深追いしないでおくが、ただ、『はたらく細胞』と『室町無頼』は、両極にあるというか、同じ図柄を共有している絨毯の裏と表という関係にあることは明記しておきたい。

【たとえば室町幕府からみれば、一揆は、ガン細胞の増殖みたいなものである。しかし、がん細胞がいくら増殖して人体をのっとっても、人体をコントロールする力はない。それどころか人体を破滅させるしかない。一揆勢力はそれをわかっているから、国家権力に歯向かうとはいっても、農民や庶民を苦しめる証文を破棄するというかたちでとどまっている。国家転覆を目指しているわけではない。】

一揆という反乱は最後には祝祭となって終わる。庶民や農民の歓喜の踊りがそこにある。しかしまた犠牲者も多い。無血革命ではなく流血革命である。そしてそこには責任問題も生まれる。もちろん現実には、そのような成功した革命の指導者あるいは成功したテロのリーダーが責任をとらないことは多い。イスラエルの首相にもなったメナヒム・ベギンは、キング・デイヴィッド・ホテル爆破というテロ行為やデイル・ヤシーン村での虐殺事件などに関与した過激派のシオニスト=テロリストだったが、1978年にノーベル平和賞を受賞している(過去の違法なテロ行為を反省したからではない)。

文学・演劇・映画では、そのような非道を許すことはない。あるいは許さないからこそ、文学の存在価値がある。これは勧善懲悪とは違う。人を殺したら、自らもその責任をとらねばならない。いわゆるPoetic Justice(詩的正義)の問題である。ハムレットがあやまって人を殺したとき、ロミオが友人を殺した人間を激昂して殺したとき、この主人公たちは、同情に値する優れた人間であるけれども、劇の最後には死ぬのだろうと観客は予想し、そのとおりになる。だが、死による代償を払うことによって、その行為は高貴さと崇高さをまとうことになる。

『室町無頼』でも、多くの死に関係する者たちがのうのうと生き延びることはしない。生き延びてほしい人物も含めて、関係者には死の代償が訪れる。だが、それによって、行為(一揆)が無駄であったということではなく、むしろ一揆の精神が魂が後世に生き延びて行けるのである。その意味でも、けっこう正統的な時代劇であった。

【追記:私がはじめて読んだ本格的時代小説は、井上靖の『風林火山』だった。その作品が収録されている本には、さらにもうひとつ井上作品(長編)が収録されていて、それが『戦国無頼』であった。『風林火山』には史実に基づく人物が登場していたが、『戦国無頼』の主要人物はすべて虚構の人物だった。彼らの愛憎劇が主流であり、そのため子供の私にはあまり面白くなかった。またこの『戦国無頼』は映画化されていた。私が生まれるまえに制作された映画(1952年、稲垣浩監督、三船敏郎、三國連太郎、山口俶子ほか)で、いまでもDVD とか配信でみることができるのかどうかわからないが、この小説あるいは映画と『室町無頼』は関係あるのだろうか。まあ、関係ないようだが。
『国民の文学20 井上靖 風林火山 戦国無頼他』(河出書房)】
posted by ohashi at 12:08| 映画 | 更新情報をチェックする