2025年01月25日

満票の思い出 あと二つ

前日の記事のつづき

Nobody’s Perfect.
昔読んだのでタイトルも忘れてしまったし、またいろいろなアンソロジーに掲載されるような有名な作品ではないと思うのだが、小松左京のSF短篇に、航空会社とか鉄道会社などのために、事故を起こす仕事をしている会社を扱った作品があった。事故と言っても軽い事故であり、あえて人為的に起こす事故なので、死傷者などゼロの事故である。なぜそんなことをするのか。

たとえば航空会社が安全運航を心がけ、会社設立から現在に至るまで墜落事故ゼロを誇っているとしよう。これは実際に起っていることである。たとえば新幹線は開業当初から現在に至るまで大きな事故は起こしていないし、事故による死傷者は出ていない。そういう信頼性の高い運輸関係の会社は、しかし、いつか大事故を起こすのではないかという不安が、事故ゼロがつづけばつづくほど大きくなる。定時運行・事故ゼロというのは人員輸送業務にとって理想的であり完璧な状態だが、理想的であり完璧であればあるほど、人間は不安になる。いつか大きな事故が起こるのではないか、と。

そこでこうした不安を解消するために、小さな事故を起こす。たとえば航空機がエンジンから火を噴いて離陸できなくなるだけでなく、機体に火が燃え移って丸焼けになりかねなかった事故を起こす。それで安心をする。航空会社も完璧ではない。整備不良かどうかわからないが、とにかくなにか事故を起こす。そうすると利用客のほうは、やはりこの優良な航空会社も小さな事故は防げなかった、だから安心をする。端的にいって、よいことづくめだと、悪いことがおきないかと不安になるのだ。また過失あるいは瑕疵があることで、会社側に安全意識が高まり、次に事故を起こすことはあるまいと、利用客は安心するともいえる。

(なお人為的に起こす事故が、大惨事寸前の大事故だと、会社に対する不安が高まり、逆効果になるので、あくまでも小さな事故に限られる)。

前回、教授会で私が推薦演説をした人事候補者は満票で選出されたことを書いた。そのときあまり満票が続くので、最後の推薦演説の時は、1票か2票、白票とか反対票が入るのではないかと心配したが、そのようなこともなく、研究室で提案し、私が推薦演説を担当した人事案件はすべて満票での選出に終わったのだが、満票続きだったので私も最後まで満票かどうかほんとうに不安になった。前回と同じことを繰り返すが、候補者に問題があったのではなく、投票する人間が、スイッチを間違えて反対票を入れてしまうようなアクシデントがあるのではないかと心配したのである。またたいてい満票で選出されるので、私の連続満票は偉業でもなんでもなく、ありふれたことであった。

話を戻そう。会社の求めに応じてこうした些細な事故を人為的に起こすのを仕事している会社が生まれるというSFだった。実際に、そんな会社はないだろうが、気持ちはわかる。完璧な状態というのは気味が悪いのだ。欠陥があったり事故があったりすると、それが軽微なものであれば、安心できる。そしてそうした人為的な事故に対する需要はこれからますます増えるのではないかと思う。小松左京のSF短篇にあったのような事態はこれからほんとうに起こるにちがいない。

コンピュータというかAIがいろいろな管理をおこなうようになると大事故は皆無になるだろう。このパーフェクト状態は、慣れるまでには相当時間がかかる。1世紀くらいかかるかもしれない。その間、パーフェクト状態に対する不安は募る一方であろう。事故のない交通機関はおそらくもうすぐ実現するだろうが、事故のない交通機関は人類史上、例を見ない事態であって、なにか事故でも起こってくれないと心配になる。

パーフェクトな状態はパーフェクトではない。これはおそらくAIには理解できない人間の心理なのである。

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満票信仰の呪い

昔、昔、ある学会(学術団体)が、運営方針とか活動内容を決めるときに、全会員出席の総会において、全員が賛成票を投じなれければ、議案を承認しないことをルールとしてした。

その話を聞いたときに、私はなんというバカな学会なのだと思った。総会で一人でも反対したら、議案は否決されてしまい、下手をすると、何も決まらないまま終わってしまうのではないか。

なにか変な満票信仰みたいなものにとりつかれているのではないか。そうでなければ、そんな馬鹿なことをよく決めたものだと、あきれかえった。

しかし、それは学会設立当初に決めたルールであったという。なぜという私の質問に、直接明民主制を導入したかったからだということだった。それはけっこうだが、なぜ多数決の議決にしなかったのかという問いには答えてもらなかった。やはり満票信仰のせいだろうか。私が質問した相手は、すでにその学会を辞めていたのだが。

たとえば理事会(10名前後の理事)で何かを決めるときに全会一致を原則としてもいい。理事会が会員に何かを提案するとき、理事会のなかで意見の不一致があってはたまらない。だから理事会では全会一致の原則を守り、総会では多数決で決める。それならなんら問題もないのだが、総会において全会一致の原則を貫こうとしても無理ではないかと思った。当然の心配だが、学会設立メンバーは、気にも留めなかったようだ。

総会において一人でも反対したら議案は否決されることになる。実にあやうい議事進行であり学会運営なのだが、ただ、常識で考えた場合、一人でも反対したら否決というとき、それでも反対票を投ずるのは相当に勇気のいることである。とくに私以外のすべての会員が賛成している議案に対し、私が確信をもって問題ありと考えたとしても、反対の1票を投ずる勇気はない。したがって総会で全員一致ではないと議案を承認しないというのは、ある意味、全体主義である。そんな規則であれば、自由に反対意見あるいは少数意見を述べることも、反対の意思表示もできないではないか。こんなひどい同調圧力はない。おまえが反対すれば、この学会全体が音を立てて崩れるのだと脅されたとき、異議申し立てなどできるわけがない。

総会における全会一致で議案を承認するという方法は、調和と合意を重んじていながら、実は、ひどい強制である。直接民主制における少数意見の尊重であるかにみえて、少数意見の抑圧である。全会一致でないのなら、自由に反対意見や異議申し立てができる。たとえそのような反対意見は否決されたとしても、それが未来において有効な意見となる可能性は高い。

とにかく、総会における全会一致の原則を考えた学会設立メンバーは全員が善意のバカであり悪意のバカでもあったのだろう。

実際、その学会はどうなったのかというと、総会で必ず反対意見を述べる会員がいて、結局、なにごとも正式に決まらなくなった。それだと学会がすぐにも解体してしまうので、暫定的な決定による運営方式となった。またそれだけでなく、組織・運営が、全会一致の賛成が得られず合意のないまま、考えられる限りのいびつなかたちになって変則性が常態となるという目も当てられないものになった。

私は、あきれかえって、その学会を辞めたが、私が辞めてからほどなくして、その学会も解散した。満票信仰の呪いとしかいいようがない。総会で全会一致で解散に同意したのだろうか。解散の動議は満票で承認されたのだろうか。おそらく満票での同意を得られないまま、解散したのか解散できなかったのか、宙づりのまま、それでも消滅することになったのだろう。いまでそんな学会があったことなど誰も覚えてない。
posted by ohashi at 00:04| コメント | 更新情報をチェックする