2025年01月05日

将棋は誰に教わる

昨年のことだが、しかし、昨年の12月のことで、まだ1か月はたっていない。昨年12月9日、日本経済新聞のネット・ニュースによれば
第72期将棋王座戦(日本経済新聞社主催、東海東京証券特別協賛)五番勝負を制し、初防衛を果たした藤井聡太王座(22)の就位式が9日、東京都内のホテルで開かれた。
【中略】
今回の五番勝負で藤井王座は永瀬拓矢九段(32)の挑戦を3勝0敗で退け、初めて王座を防衛した。8つあるタイトル戦全てで防衛に成功した初の棋士となった藤井王座は壇上で「初防衛を目指す立場だったが、気持ちのうえでは再び挑戦者として、前期よりよい内容の将棋を指せればと対局に臨んだ」と語った。
 「初防衛の藤井聡太王座が就位式 「再び挑戦する気持ちで」将棋王座戦」2024年12月9日、日本経済新聞の記事より

王座就任式に私はなんの関係もないのだが、この記事によれば、就任に対して祝辞を述べたのが若島正(京都大学名誉教授)氏であった。『日刊スポーツ』の記事によれば、
祝辞は、詰め将棋作家の若島正京大名誉教授【これでは漢字が多すぎて、どこで区切ったらよいかわからないと思うので、区切りを入れると、「若島 正」「京大」「名誉教授」である】が述べた。藤井は詰め将棋が得意で、小さい頃から数多く解いており、それが実戦の終盤力としていかされている。

若島教授は、「詰め将棋は、将棋の中に潜む可能性を引き出す。詰め将棋を通して、子どもの頃から将棋の奥深さを実感されている。さまざまな記録を塗り替えて、新手や藤井手筋を編み出して、将棋を奥深さを訴えてもらいたい」と期待していた。
『日刊スポーツ』2024年12月9日より

この若島 正・京大名誉教授と、12月10日に、ある会議に出席することになった。有名人好きの私としては、それこそサインでも貰おうかとか、いっしょのところを写メに撮ってもよいかと頼もうとも思ったのだが、あいにく、そのチャンスは訪れなかった。

ただ前日のネット記事では、藤井聡太――肩書というかタイトルをたくさんもっている藤井氏に対しては、どうお呼びするのがよいのか、若島先生にお聞きしようかと思ったが、これもその機会を逸したのだが、記事にならって藤井聡太王座としておくと、藤井聡太王座の話とともに、祝辞を述べた若島先生のことも、藤井王座が尊敬する詰め将棋作家として話題になっていた。

若島先生は高名な英文学者なので昔から会えば挨拶するくらいのつき合いはあるのだが、また将棋やチェスに強いということも有名だったが、詰め将棋作家でもあること、藤井王座が尊敬していることは知らなかった。

最近では、リチャード・パワーズの『黄金虫変奏曲』というたいへんな翻訳を上梓されたことは知っていたが、2024年に『詰将棋の誕生 『詰むや詰まざるや』を読み解く』(平凡社)を上梓されたことは知らなかった。したがって2024年12月9日、ネット上にあらわれた若島先生の将棋・チェス関係の功績に関する記事をいくつか興味深く読ませてもらった。記事のなかで、将棋を祖父から習ったということが私の関心をひいた。

祖父から将棋を教わったということを、ずいぶん前に若島先生から直接うかがったことはある。だから新情報ではないのだが、藤井王座も祖父母から将棋を習ったとWikipediaの記事にある。
幼少期
5歳であった2007年の夏、母方の祖父母から将棋の手ほどきを受けた。藤井の祖母は、3人の娘のところに生まれた孫達に囲碁と将棋のルールを順番に教えていた(祖母自身はルールを知る程度)。藤井は瞬く間に将棋のルールを覚え、将棋を指せる祖父が相手をしたが、秋になると、祖父は藤井に歯が立たなくなった。同年の12月には瀬戸市内の将棋教室に入会する。

藤井九段も祖父母から将棋の手ほどきを受けた。これを奇しくもというか、あるいは昔の人は孫に将棋を教えること、将棋の上手い下手は別にして、将棋が基本的教養になっていたのか、そこのところはまったく無知なのだが、ただ、藤井九段、若島正といった将棋の天才のほかにも、祖父母から将棋を習った人間を私は一人知っている。それは私である。

父方の祖父は、私が生まれたときには他界していたのだが、父方の祖母から私は将棋の手ほどきを受けた。祖母は、将棋のルールだけでなく、定石などもいつくも知っていて、実際に子供の私を相手に将棋をさした。残念ながら、私の祖母は人でなしというか人間のクズというべきか、まだ幼い子供を相手に将棋を指すときにも、負けず嫌いで、絶対に負けないのである。時には子供に勝たせて、成功体験を植え付け、将棋や勝負事にも関心を向けさせる、あるいは子供に自信をもたせようなどいう気持ちは皆無で、サディスティックに子供つまり私が負けるのを喜んでいた。祖母との対戦で、いくつかの定石も学んだ。定石が使える局面へと私を追い込み、定石によって完膚なきまでに子供の私はやっつけられたので。鬼婆であった。

定石は学んだが、それは屈辱的な敗北とともに学んだために、むしろ忘れたい記憶としてとどまるしかなかった。当然、子供の頃の私は将棋には興味を失った。一度も勝ったことがないので、将棋には近づかないほうがいいと学んだのである。

私の祖母がもうすこし寛容で子供に勝ちを譲るほどの心が広くてやさしい人間であったらなら、私は、藤井十段とか若島正氏ほどではないとしても、ある程度、将棋をさせる人間になっていたかもしれない。すべては鬼婆、いや私の祖母、ろくでなしの祖母、鬼婆が悪いのである。

将棋にまつわる子供の頃の嫌な思い出がよみがえったので、この正月に、妹に、このことを話してみた。すると妹も祖母から将棋の手ほどきをうけたという。妹は祖母や父と将棋をさして、勝ったことがあるという。

勝った? あの鬼婆と将棋で勝った?

嘘だろう。あの鬼婆は子供頃の私に一度も勝たせてくれなかった。

いや、間違いなく勝ったことがある。父親とも将棋を指して勝ったこともある、と妹。

……

……

私の祖母は鬼婆ではなかったのかもしれない。偏屈で負けず嫌いの祖母のせいで、将棋に勝たせてもらえず、将棋が嫌いになったというか、将棋への関心を失ったのだと、私はこの歳になるまでずっとそう考えていた。だが、そうではなかったのだ。私が将棋に弱かったのだ。祖母は私に勝たせよとしたのかもしれないが、私が勝手に負けていたのだ。つまり私の頭が悪かったのだ。藤井十段、若島正氏と肩をならべていたかもしれないというのは、なんという思いあがった愚かな妄想なのだろう。私は妹よりも頭が悪かった。自分の頭の悪さを棚にあげて、祖母を、人でなし、人間のクズ、鬼婆とののしっていたのだ。私は、なんという恥ずかしい人間なのだ。正月早々めげた。

posted by ohashi at 22:47| コメント | 更新情報をチェックする