2025年01月02日

『正体』

監督:藤井道人。2024年11月29日公開
【冤罪とか警察の捜査方法とか死刑制度などについて、この映画をめぐっていろいろ語られているので、ここでは映画の様式あるは形態に集中して語ることを許していただきたい。】

映画の冒頭近くで、脱獄した死刑囚・鏑木慶一/横浜流星を追ってきた刑事・又貫征吾/山田孝之が、脱獄後の鏑木/横浜流星と接触した数人と対峙する場面がある。左側に刑事/山田、右側に関係者が位置して、対峙するふたりの横顔が画面を占める。鏑木/横浜と接触した数人は、鏑木/横浜が嘘をついていた、あるいは何も語らなかったので、脱獄し指名手配された人間とは気づかなかったと口をそろえて証言する。いらだちを隠せない刑事/山田の顔が、最後に、正面から映し出される。それは取り調べたこの数人の特定の誰かではなく全員に語りかけている、あるいは全員に同じことを語りかけているという印象をあたえるのだが……。あなたたちは、彼の正体を見破れなかったのですか、と。そして次にタイトル「正体」の文字が大きく画面にでる。

私たちと言ってもいいのだが、つまり私と同じような平均的な知力をもつ平均的な観客、私たちは、ここで脱獄囚が、その逃亡生活のなかで、こうした人たちと接触し、彼らをもののみごとに騙しおおせたのだろう、そういう物語の映画にちがいないと予想する。そしてさらに予想する、彼が、その狡知によって、いかに正体を見破られずにすごしたのか、それが映画の醍醐味となるだろう、と。

だが映画の最後になって、刑事と関係者が横向きで対峙するこの冒頭の場面は、最初とは異なる意味合いを帯びることに気づくことになる。

これは私が勝手に、あるいは気まぐれに、冒頭の場面を思い出したということではない。映画の最後のほうでも、この対峙の場面がもう一度出てくるのだ。対峙する右側の人物(つまり彼と接触していた人たち)は同じであり、左側の人物だけが異なる。左側の人物は、刑事ではなく鏑木/横浜流星であり、彼は収監され、いま面会室でガラス越しに対峙しているのである。そして彼と接触している人物たちはみな口をそろえて、彼の無実が立証されることを信じ、彼を励ますのである。

【ここですでにネタバレを一つ。原作では鏑木は最後に殺され、生きているうちに冤罪を晴らすことができなかった。映画では彼は銃で撃たれるものの一命をとりとめ、収監され、裁判に臨むことになる。なお、以下、ネタバレを含む記述となるので注意。】

この最後の場面、正確には裁判で判決が言い渡される前の収監中の鏑木と、関係者が対峙する場面は、冒頭の同じような対峙の場面(おそらくは警察の取調室での)を思い起こさせるものであり、冒頭の対峙場面の再考を観る者に迫るのである。

冒頭で、刑事・又貫征吾/山田孝之は、彼の正体が見抜けなかったのかと咎めるように言い放す。だが、映画を観終わったか、観終わりそうになっている観客にはわかる。彼らは正体を見抜いていた。鏑木慶一/横浜流星が、指名手配されている脱獄囚であることを、そして彼が人殺しなどしない無実の人間であることを。そうこの映画は、狡猾な脱獄囚が出会った人びとを騙して逃げおおせる話ではなかった。彼と出会った人々が、騙されるのではなく、彼の正体を知るようになる話だと。そして彼の正体を知るようになった人びとはみな彼を愛するようになるのだ、と。誰一人としてだまされてはいなかった。誰一人として正体を見失うことはなかった。

この冒頭の場面は、こうして最初の印象とは異なるものとなるのだが、異なるのはそれだけではない。刑事/山田孝之は、彼の正体を見破れなかったのですかと問うのだが、その問いは、刑事自身にもはねかえってくる。刑事は、鏑木/横浜の正体をほんとうにわからなかったのか。いや、ひょっとしたら刑事/山田自身、鏑木/横浜が無実であることを最初からわかっていたのではないか、彼は正体を見破っていたのではなかったか。

かくして冒頭の対峙する場面は、無知をテーマにしているかにみえて、実は、洞察をテーマとした場面へと反転する。

これが冒頭の対峙場面の正体である。

無知を装った洞察、あるいは洞察を語れない沈黙といってもいい。鏑木慶一/横浜流星が逃亡するときの方法が壮絶なのだが、彼は独房でガラスの破片かなにかで自分の口の中を、舌を傷つける。口腔内からおびただしい出血をする。それを吐血と思わせることによって、彼は救急車で刑務所から病院へと運ばれる。その途中で救急車から逃げ出すのである。

この、ある意味、狡猾な、そしてその命がけの脱出方法には感動すら覚えるのだが、同時に、そこにはアレゴリカルな意味も込められている。口を舌を傷つけることは、彼が無実を主張しても聞き入れてもらえなかったこと、声を言葉を失ったも同じ状態であったことを、私たちに強く印象付けるのである。

となると冒頭の対峙場面における彼と接触した人びとの無知(思われるもの)も、彼の無実を主張したい声を封じられていたことのアレゴリーともとれないことはない。実際、彼と接触した人びとは、やがて連帯し、彼の無実を主張する運動を起こすまでになる。声を奪われていた彼に声をあたえる人びとがあらわれてくるのである。

無知から知へ、無音・無声・沈黙から音と声そして主張への変遷は、映画の最後の判決申し渡しの場面でも繰り広げられる。

いま変遷といったが、反転といったほうがいいのかもしれない。冒頭の対峙場面が無知から知へと反転する。この場面の刑事の問いかけが、問いかける者つまり刑事へと反転する。問う者が問われる者になるという反転。

ここで思い出されるのが鏑木慶一/横浜流星が、ジャーナリストの安藤沙耶香/吉岡里帆の住居に隠れていたところ刑事たちに踏み込まれ窓から街路へと飛び降りて逃げ出すシーンである。住宅街か商店街かどちらともつかないところだが、人通りの多い場所を彼は必死で逃走する。ワンテイク・ワンシーンで撮られていたと記憶するが、迫力のあるこの逃亡シーンにおいて、街の人びとは彼の行く手を阻む敵でもある。おそらくは全員エキストラなのだろうが、観ている側からすると、一般人を巻き込むゲリラ撮影をしているとしか思えず、道行く人びとが、彼の逃走経路上の障害物にしかみえず、ごく普通の庶民ともいえる人びとが凶悪な妨害者・通報者・監視者にもみえてくるというパラノイアを観客は主人公と共有できてしまう(なお彼は川に飛び降りて逃げおおせるのだが)。

逃亡者である彼にとって、妨害者・通報者・監視者でしかない人びとの群れは、映画の最後のほうには、反転して、彼を冤罪事件・誤認逮捕の被害者として再捜査を求める声をあげる人びとへと変わってゆく。敵とみえていたものが、味方へと反転する。それは鏑木/横浜流星が事件の真相を追い、自己の無実を証明するために奔走するなかで多くの人と接触してきたことによって、彼の支援者たちをはぐくむことにもなったからである。

その行程は、一方で彼の存在を警察に通報することになっても、他方で、彼の支援者をつくりだした。敵と味方とが、不分明にまざりあり、それが最後には、味方だったとわかる。敵と即断することなく味方であることを見極めよ。あるいは敵が味方となることはある――これが最後の判決言い渡しの場面に劇的なかたちで反復される。

裁判所で判決が言い渡されるとき、傍証席にいる安藤沙耶香/吉岡里帆の顔が大きく映し出されるのだが、判決が言い渡されているとき、音が消える。無音で映像だけとなる(心理的に解釈すれば、判決を聞く前の彼女の極度の緊張状態から、茫然自失となり周囲の音が聴こえなくなったということだろうか)。彼女の周囲の人は判決を聞いて興奮している。なかには拍手している傍聴者もいる。だが無音なので、判決内容がわからない。拍手している人は彼が無罪を勝ち取ったことに対して拍手しているのか、凶悪な死刑囚の逃亡犯にこれでようやく正義の鉄槌がふりおろされ極刑が言い渡された、このことに拍手しているのかわからない。無音のまま、私たちは、傍聴席の人々の顔やふるまいをつぶさに観察することになる。そして彼の支援者が満面の笑みを浮かべて拍手している様をみて、確信する。無罪判決だったのだ、と。と、このとき音が戻る。無罪判決に沸き立つ傍聴席、そして笑顔をみせる横浜流星。エンドクレジットがはじまる。

この判決言い渡しの場面が、映画全体の集約となっていることは詳しく語る必要はないだろう。またそれは奇をてらった演出ではなく、映画のロジックの延長線上に確固たるかたち位置づけれる映像表現であることは、どれほど強調しても強調したりないのであるが。

結局、正体とは、死刑囚の逃亡犯の無実の正体であっただけでなく、彼の正体を見抜き、彼を支援する人たちを集わせる社会のありようでもあったのだ。凶悪な犯罪者の正体は、無実の無垢の高校生だった。誤認逮捕した刑事や警察はまた再捜査を決断する真相究明者でもあった。凶悪殺人犯を糾弾した世論はまた冤罪事件を糾弾する正義の声でもあった。敵の正体は、敵ではなかったかもしれない。あるいは敵の正体が味方であると信ずること。そしてその化学変化を、そのプロセスをみきわめること、それがこの映画の映像表現の賭けだったのだ。
posted by ohashi at 22:58| 映画 | 更新情報をチェックする