I always wanted a brother.
『ライオンキング』は、最初のアニメ版(正確には舞台ミュージカルのアニメ版)しかみていなくて、その後のアニメ版や実写版のスピンオフ篇などなにもみていないのだが、今回、『ライオン・キング:ムファサ』(原題Mufasa: Lion King, 2024)を予備知識なしの吹き替え版実写版でみることに。
ただ正確には実写版ではなくて、実写のようなCGによる映画なのだが、それにしても、予備知識ゼロで観たために、最初は知らない名前のライオンたちが出てきて、物語がつかめなかったが、最後にスカー(アニメ版ではムファサの弟)が誕生し、ムファサがシンバの父親であることもわかり、最初のアニメ版の前日譚であることがはっきりして大団円を迎えることになった。
それはそれでよかったのだが、予備知識ゼロで観たために、監督がバリー・ジェンキンズであることをエンドクレジットではじめて知ることに。バリー・ジェンキンズ、そう、正統派とでもいうべきゲイ映画でアカデミー賞も獲った『ムーンライト』(2016)の監督じゃないか。それがわかると、この映画がにわかにゲイ映画にみえてきた。
最初のアニメ版はシェイクスピアの『ハムレット』の翻案でもあって、兄が邪悪な弟に殺され、その兄の息子が、その兄の弟つまり叔父に復讐する物語だった。シェイクスピアお得意の兄と弟の確執と、弟による兄殺しの世界だが、それは『ハムレット』のなかで言及もされているように、聖書で語られる世界で最初の殺人事件、弟カインによる兄アベル殺しという原型的な兄殺しにもつながる神話的次元をももっていた。アニメ版では、ムファサ(兄)とスカー(弟)の対立である。
ところが今回の『ライオン・キング:ムファサ』(以後、『ムファサ』と表記)では、ムファサとスカーは兄弟ではなくなった。血のつながりはなくなった。アメリカのディズニー・ファンはこの設定の変更を怒っているらしいのだが、ふたりは兄弟ではなく、血のつながりのない他者となった。そしてここにゲイ物語誕生の契機があった。ムファサとスカーは、兄弟未満、友達以上の情愛関係をむすことになるのだから。
ムファサとスカー(スカーは後年の綽名のようなもので、もともとはタカと呼ばれていた)の物語は、川でワニに追われていたムファサをタカが救出するところからはじまる。そう水の物語。
よそ者の流れ者(文字通り「流れ者」なのだが)となったムファサは、タカの父ライオンであるオバシから嫌われ、雌ライオンの群れのなかで暮らすことを命じられる。流れ者になってからのムファサのジェンダーは雄雌の中間に、あるいはトランス的なものとなる。ジェンダー的にも流れ者である。いっぽうタカは父ライオンの後継者として優遇されるが、タカとムファサは、おかれた境遇に関係なく、血のつながった兄弟のように仲が良い幼少期を過ごすことになる【予告編では「兄弟が欲しかった」というセリフが強調されていて、それを語るのがムファサで、新たにできた兄弟は弟のスカーだと思っていた。新しく子供が生まれて弟や妹になる。ところが映画をみると、そう語るのはタカ/スカーのほうであり、これで頭が混乱してしまった】
だがそれも、凶悪なはぐれライオンの襲撃の際にタカが臆病風にふかれたことから、勇気あるムファサに対して優位に立てなくなり、物語が新しい段階に入る。
兄弟のように仲の良い二人は、血のつながった兄弟ではないから兄弟愛というよりも友情関係にあるのだが、おそらくそれを〈兄弟未満・友情以上〉のゲイ的関係とみるのは、こじつけがはなはだしいと批判されるかもしれない。たしかに、映画のなかで幼い二人に明確なゲイ的関係はない。そこには是枝裕和監督の映画『怪物』にあるような小学生どうしの同性愛的関係はない。しかし『怪物』との類似性はある。それが水。つねに諏訪湖のみえる場所で事件は起こり、最後には少年二人が洪水で流されて死ぬという『怪物』の物語は、『ムファサ』とともに水のイメージを共有し、『ムファサ』も『怪物』と同様の同性愛物語であることを暗示してはいないだろうか。水の力で。
実際、『ムファサ』がこれほど水にこだわる映画とは予想だにできなかった。ムファサは洪水によって父・母と別れ、急流に流され滝つぼに落ち、そして救出される。また最後の白いライオン、キロスとの決闘の場面も、水のなかである。これはムファサにとって幼い頃の経験から、水がトラウマになり、水が弱点となっていることによる物語の盛り上げ方とも関係しようが、それにしても水が多い。『ムファサ』の水は、ゲイ的物語を暗示しているのである。
そもそも動物界は、セックスが後背位であることもあって、ゲイの世界である。そしてもうひとつ、アニメ版では声を担当している俳優陣は白人と黒人との混合によって成り立っているが、『ムファサ』では、アフリカのライオンを含むすべての動物がほぼ全員、黒人の俳優が声を担当している。『ムファサ』において強大で邪悪な天敵ともいえるキロスは白いライオンで、その声だけは白人が担当している(マッツ・ミケルセンである)。したがって『ムファサ』における白いライオンとその他のアフリカ・ライオンとの対立は白人と黒人との対立となっている(日本語吹き替え版ではこの関係は再現できない)。
アニメ版から『ムファサ』へと移行する段階で、その世界は、アフリカ系アメリカ人の世界になった。では、セクシュアリティの面で、アニメ版から『ムファサ』への移行において、その世界は、ヘテロからゲイへと変遷ととげたのか。いや、そもそもアニメ版においてもゲイ的要素は濃厚だった。むしろ『ムファサ』ではヘテロ性が強化される――とはいえゲイ的要素は消えることはないのだが。
最初のアニメ版、『ハムレット』の翻案であった『ライオン・キング』では、兄のムファサを殺すスカーは、兄の死後、兄のハーレムを引き継ぐこともなく雌ライオンに興味をしめさず、雄のハイエナたちとの生活を変えようとしない、まあゲイ的要素が濃厚なライオンだった(声はジェレミー・アイアンズが担当)――悪魔化されたゲイ男性というイメージだった。実際、『ハムレット』の場合、兄には大学生になる息子(ハムレットのこと)がいるのに、その兄の弟はずっと独身なのである。そのために考えられることは二つ。ひとつはゲイであること。もうひとつは兄嫁(ハムレットの母)に対する恋慕の情があって、機をみて兄を殺害し、兄嫁と結婚するに至ったという設定。このふたつの設定を『ムファサ』は引き受けているようにも思われる。
『ムファサ』におけるヘテロ化プロジェクトとは、おそらくこうである。ムファサとタカは、子供頃は同性愛のふたりのようにじゃれあっていたのだが(そもそも子供は同性愛者である――フロイト的にいうと子供は多形倒錯期あるいは肛門期にある――要は子供はみんな変態のホモだということである)。やがて、ヘテロの世界へと成長をとげ、子供は大人になる。『ムファサ』において、その契機となるのが、雌ライオン・サラビ(シンバの母)との出会いである。サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係になるのだが、ムファサはつねにタカをたててサラビを譲る格好になるのだが、実はそれがサラビに見抜かれ、サラビとムファサの仲がかえって深まるかたちになる。そしてタカは、ムファサによる盛り上げにもかかわらず、サラビとは結ばれなくなる。
実はこの映画ではタカに差し出される援助の手はどれも悪手となって、彼を不幸な目にあわせてしまう。そのアイロニックな悲劇性が顕著である。そして彼が不幸になるのと反比例してムファサはヒーロー化してゆく。不安定なジェンダーの雄から一人前の王者としての雄ライオンへと変貌をとげる。宿敵の白ライオン・キロスも倒す。そして王者として動物界に君臨する。
しかし、このヘテロ化には裏面がある。雌ライオン・サラビをめぐってムファサとタカはライバル関係にあったのだろうか。たしかに最終的にタカは、サラビをムファサによって奪われるかっこうになる。その恨みが後年、タカ/スカーによるムファサ殺しとなるように思われる。しかし、ムファサとタカは兄弟のように仲が良かったのであって、そこに旅の友として雌のサラビが入ってくることによって二人の疑似兄弟関係にひびが入りはじめる。ゾウの暴走からサラビをまもったムファサのことに対し、タカは、サラビを恨んでいたのではないか。つまりサラビをめぐっての雄ふたりのライバル関係とみえたものの裏には、ムファサをめぐるサラビとタカのライバル関係があったのではないか。前者はつまり女一人を男二人が奪い合うヘテロの三角関係、後者は男一人を男と女が奪い合う、ヘテロとホモとの競争関係となる。
ムファサは、サラビをタカに譲ることによって、タカとのホモソーシャル関係あるいはホモセクシュアル関係を維持しようとする。ところがそれが裏目にでて、サラビはムファサを愛するようになる。そうなるとムファサとタカとのホモソーシャル関係が分断されることになる。ヘテロ関係はホモ関係と絡まり合っているのである。
要は『ムファサ』において典型的なヘテロ物語とみえたものが、その裏面ではゲイ物語でもあったということである。これをムファサの物語とスカーの物語といってもいい。両者は同じ物語を共有している。だがその意味は異なる。ちょうど絨毯の裏と表が同じ図柄を共有しながらも見た印象が大きく異なるように。したがって『ムファサ』は、ヘテロ物語と読んで全然問題ないのだが、同時に、ゲイ物語と読んでも全然問題ないのである。
タカは、キロスからムファサを助けるために顔面に傷を負う。それがスカーという名前の由来になるのだが、ある意味、それは名誉の負傷でもある。しかし、ムファサにとって、それは裏切り者のタカの忌まわしいしるしでもある。しかも傷をもつ者は、物語においては同性愛者であることが多い(現実に、傷のある人間が同性愛者であることはまずない。あくまでも物語のなかでの常套的設定のことである)。スカーは、ゲイのしるしである。それが名誉の負傷のしるしであることが判明することはあるのだろうか。『ムファサ』の後日譚を知っている私たちは、残念ながら、その日が来ないことを知っている。
2025年01月01日
『ライオンキング:ムファサ』
posted by ohashi at 12:02| 映画
|
