2024年12月15日

『夏の夜の夢』1

彩の国さいたま芸術劇場で、シェイクスピア『夏の夜の夢』(吉田鋼太郎演出、小田島雄志訳)を観る。今回の公演は、実は数日前に観た新国立劇場中劇場のブルガーコフ『白衛軍』(上村聡史演出、小田島創志訳)と同様に、小田島家の翻訳ということではなく(いやそれも共通点だが)、ともに「文化庁劇場・音楽堂等における子供舞台芸術鑑賞体験支援事業」である。そうした支援事業の意義は大きいと思うし、それによって公演が可能になるのはよいことだが、そのぶん今回のさいたま芸術劇場の公演のように、一般観客の観劇日が減るのはしかたないとあきらめるべきか、どうか。

というのも今回の吉田鋼太郎氏演出の『夏の夜の夢』は、前作の『ハムレット』ともども、これからの日本におけるシェイクスピア演劇のスタンダードを確立したという思いを強くしたからである。この公演は、日本各地を回ったら素晴らしい結果を残すと思うし、たとえすぐにでもなくてもよいが、いつか再演してほしいと願ってやまない公演である。

スタンダードというと、標準版ということで、平均的な出来と思われては困る。むしろこれは規範みたいなもので、これからのシェイクスピア劇上演の真価が、この吉田版を超えているか、あるいはそのレベルに到達しているかによって判断されるということである。けっして平均的ということではない。それだと独創性があまりないと思われがちだが、今回の公演は独創性を事欠くことはけっしてない。そうではなくて、独創性の立ち上げ方の標準あるいはモデルとしても今回の公演が重要な役割をはたすということである。

今回の公演は、高校生を中心とした若い観客に向けてもつくられているので、そこのところがどうかという不安もないわけではなかったが、実際の舞台は、これぞ『夏の世の夢』の、新たなる可能性と、過去の演出・翻案の集大成とでもいうべきものとが合体していて、高校生向けだからということではない、つまり手を抜かないし手を緩めない、見事な演出となっていた。

その最たる例が水を使う演出で、舞台の最初から最後まで、大きな水槽が置かれ、それが最初から最後まで重要な役割を担っていた。ただ水につかっていたり、水槽に投げ込まれたり、水槽の水をかけあったり、水槽のなかでころげまわったりと、これは水が主役の舞台というのは、いいすぎと思うのだが、水が、もう一人の出演者・登場人物である。水が、まちがいなく舞台に豊かな表情をあたえていた。

そしてもうひとつが階段(それに梯子)。まあ、水の使用も、昭和を感じさせる演出でもあるのだが、階段と梯子も、舞台空間を立体的に使うというか、舞台を三次元的に拡張するものである。と同時に、それらは演技を超絶技巧化する重要な装置ともなっていた。超絶技巧? そう、階段を登ったり下りたりしながら台詞を発することは、一度に二つのことをする(階段の上り下りと発声)ため、常人では簡単にできないことであり、演ずる者たちのすぐれた能力なしではなしえない。

そしてそうした技巧性や技術性を前面に出しながら、また舞台空間を余すところ活用しながら、最前列付近の観客に水がかかってもかまわない壮絶な水しぶきをまき散らし、そして水のしたたる裸体を何度も見せる俳優たちによって構成される舞台。演出家の、ある意味、わがままなというか盛りだくさんの要求に見事にこたえている俳優たちの努力に誰もが深い感銘を受けるにちがいない。

これは高校生にぜひ見てほしい舞台だし、高校生だけに見みせるのは惜しい、誰にも見てほしい舞台だった。
posted by ohashi at 23:14| 演劇 | 更新情報をチェックする