新国立劇場中劇場でブルガーコフ原作の戯曲『白衛軍』(演出:上田聡史、翻訳:小田島創志)を観劇(本日ではない)。
演劇研究者ならブルガーコフの演劇作品を持っていたり読んでいたりして当然で、私も次の英訳をもっている。Mikhail Bulgakov, Six Plays (Methuen Drama,1991)。私がもっているのは1998年版なのだが、いつ購入したのか不明。たぶん21世紀に入ってからだろうが、けっこうきれいな状態というか、新刊と変わりない状態なので、読んでいないことがばればれなのだが、しかしThe Last Playsは読んでいる。問題は、なぜそれを読もうとしたのか、あるいはなぜこの英訳選集を購入したのか。
とはいえ今回の上演で、『白衛軍』の英訳を読むことができたのはよかった(The White Guard, translated by Michael Glenny)。これを機に、ブルガーコフの他の残りの作品も読んでみたくなった。
今回の上演は、英訳で読んで抱いていた作品のイメージを、ふくらまし、また精緻にすることはあっても、決して裏切らない演出で、すぐれた舞台であることはまちがいない。
ブルガーコフの演劇的強度に満ちた展開と、俳優たちの演技の多様性と統一性の共存によっても、芝居をみる喜びをあたえてくれた。
ポスターやチラシなどには雪原を進軍する白衛軍の騎兵が描かれているのだが、雪原での戦闘シーンはなく、白衛軍が兵舎として使っている学校の一室での戦闘はある。また場所が白衛軍の駐留地とか、ゲトマン軍、ペトリューラ軍それぞれの司令部とか、あちこちと飛ぶ。しかしまた第一幕と第四幕(終幕)はトゥルビン家の居間が舞台となる。この居間でのやりとりをみると、この『白衛軍』はチェーホフの芝居を髣髴とさせる。遠くの砲声によって戦闘が暗示されるが、あとは、暴力とか死が入り込まない居間での出来事となる。実際そうなのだ。劇の幕切れ近くにチェーホフが引用される。英訳で読んでいたときには、チェーホフの引用がどこからきたのかわからなかったのだが、小田島創志氏の翻訳のセリフを聞いていたら、あああれかとすぐにわかった。『ワーニャ伯父さん』の最後のソーニャのセリフ。新しい時代の到来に対する喜びはなく、ただ不安と忍耐しかない。それが『白衛軍』の幕切れとなる。
【ただし、今回の演出あるい英語台本では、チェーホフ的なところは出さないようにしているようにも思われたのだが。】
今回はアンドリュー・アプトンの英訳の台本にもとづくとある。アプトン版をもっていないし、ブルガーコフのこの作品には日本語訳もあるのだが、それももっていない。私のもっている英語訳でなんとかなるだろうと思っていた。たしかに、何とかなったのだが、同時に、いろいろなことに気づくことになった。
なお小田島創志氏の翻訳は、実に見事で、耳で聞いていても、違和感とかわかりにくいとことはなく、完成度の高いというか、完成された翻訳であり舞台台本としても優れていることは確認しておきたい。氏の最近の目覚ましい仕事ぶり(その若さでの)には感服するしかなく、バーナード・ショーの翻訳(初めて知った作品だったので、手持ちのほこりにまみれたショーの全集を引っ張り出して読んでみた――ショーの作品の常で、序文が作品よりも長くて疲れたのだが)は驚いたけれども、ブルガーコフを翻訳するとも思わなかった。氏が今度、どんな作品の翻訳をするのか(たとえそれが頼まれた仕事ではあったとしても)目が離せない。
【ちなみに、劇場で、小田島創志氏からは挨拶されてしまった。私はマスクをして一般観客にまぎれていると自分では思っていたのだが、それでも私の独特の体型とか姿勢とか歩き方とか、顔がでかいとかいった身体的特徴のせいで結局は目立ってしまったのか、あるいは小田島氏のすぐれた観察眼のせいか、先に見つけられて声をかけられた。まさか劇場のホワイエで出会うとは全く予想していなかったので驚いた。とっさに、たまには招待券ちょうだいとおねだりしようと思ったのだが、あまりにいやらしいので、それは語らずじまいだったのだが……。なお万が一、このコメントが小田島創志氏の眼にとまったり、あるいは耳に入ったりしても、絶対に、招待券を送ることはしないように。私が軽蔑するどこかの県知事みたいなおねだり体質と思われるのは、ほんとうに嫌なので)】
つづく