映画『ヴェノム』シリーズの三作目(Venom: The Last Dance, 2024)、エディ・ブロック/トム・ハーディとヴェノムの「1年間」の共生関係の終わりを告げる完結編として、満足のゆく映画であったが、しかし2作目から感じていた不満は解消されずに残った。
コミックのほうは読んでいないので、どのような物語展開なのか知らないのだ、が第一作においてエディ/トム・ハーディがジャーナリストであるという点が実に興味深かった。つまりジャーナリストは、社会や政治の不正を暴き、政治家や権力者の真の姿を示すために、みずからならず者にならねばならないという真理を見事についた設定になっていたからだ。辣腕ジャーナリストと人間を食うヴェノムとの共生が。
エディのジャーナリストとしての能力は、ヴェノムとの共生によって、ますます強化されてゆき、エディの功績はヴェノムの危険な支援なくしてありえなかった。
同じくジャーナリストのスーパーヒーローといえば、デイリー・プラネットの記者であるスーパー・マンがそうだが、彼の場合、辣腕記者でも剛腕記者でもなく、人間としては地味なうだつのあがらない記者であり、記者・ジャーナリストとして大きな業績をあげたとも思えない。スーパーマンにとって記者としての姿は、ほんとうに正体をみやぶられないための仮の姿でしかない。
だがヴェノムにしても、第2作以降は、エディとその相棒でもあるヴェノムとの共生・共同活動によって、ジャーナリズム活動が加速化し、社会の闇を暴き、悪人を懲らしめる、公共性・社会性をフルスロットルで全開するかと思ったら、公共性・社会性は、つまりジャーナリストとしての活躍は、後退するばかりで、今回の三作めにおいては、エディはもうジャーナリストでもなくなっている。
公的次元が私的次元へと様変わりするのは、『ジョーカーII』でも同じだったが、『ヴェノム』においても社会・政治問題とジャーナリズムとの切り結びが、スーパーヒーロー物(それは決して荒唐無稽な夢物語ではなく、常にけっこうシビアな世界観・宇宙観を宿しているのだが)のなかでも異色だった。ヴィランのもつ攻撃性がジャーナリズムの攻撃性と共生することで社会を改革する力学へと変容をとげるのだから。
しかし第2作と今回の第3作はヴェノムという愛嬌もあるのだが同時に暴力的で凶悪な面もあるやっかいな相棒(バディ)との共生から生まれる奇妙な友情関係が物語の主流となり、社会性や公共性はどんどん後退することになった。
なるほどバディ物としてみると泣けるところがある。エディとヴェノムの奇妙な友情は、他者といかに共生できるかという、いまでも切実な問題を喚起する。そしてここでの他者とは、おそらく移民のことだろう。
映画『レオン』の最後、ナタリー・ポートマンが、レオンの形見である観葉植物を植木鉢から出して学校だかどこかの敷地に植える。それはイタリア系移民でもあった天涯孤独のレオンの夢の実現であった。アメリカの地に根を張ることになるのだから。ヴェノムは移民を迎えるために作られたという自由の女神をレディと呼び、このニューヨークのレディに会ってみたいものだと語っていた。その夢をエディは最後にかなえてやるのだが、それはアメリカが移民を温かく迎え入れる女神としてあってほしいというヴェノム=移民の夢なのだろう。たとえ今、アメリカの次期大統領が移民がペットを食べていると信じ、アメリカ人の半数は移民をヴェノムの姿として想像しているとしても。
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ちなみにこの『ヴェノム ザ・ラスト・ダンス』、トム・ハーデはイギリス人だが、ほかにもイギリス人は多い。前作から登場しているスティーヴン・グレアム(マリガン刑事)のほかに、有名な俳優なのに名前の読み方が決まっていないChiwetel Eijofor(とりあえずチューウィテル・イジオフォーとしておくが)、そしてジューノ・テンプル(歳をとって女性としての魅力が増したと思ったのだが、まだ35歳であった)もイギリス人、しかもそのうえリス・エヴァンズまで登場するとなると、これはもうイギリス映画ではないか(ちなみに特殊メークで顔がよくわからないのだが、ヌル(Knull)役で、前作では監督も務めたアンディー・サーキスも登場する)。
しかしこれをいうのなら、このイギリス人俳優たちが、みんなマーヴェル系のアメコミ映画の出演者でもあるということのほうが意義深いという指摘もあろう。彼らは他のアメコミ映画の登場人物として、この映画には登場しているわけではないので、他のアメコミ映画とは連続性と断絶性とが同時にあらわれることになる。ここにはなにかあるのかもしれない。
2024年11月17日
『ヴェノム ザ・ラスト・ダンス』
posted by ohashi at 23:01| 映画
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