2024年11月17日

『グラディエーター II』

Gladiator II(2024)
前作『グラディエーター』から24年ぶりの続編で、スケールの大きなスペクタクル大作ということもあってのぞいてみた。

前作の時は、主要な人物は、オリヴァー・リード、デレク・ジャコビ、リチャード・ハリスを除くと、ラッセル・クロウ、ホアキン・フェニックス(ジョーカーの)、コニー・ニールセンで、彼らは、いまでこそ超有名になったが当時としてはあまり名の知られていない、誰?という俳優たちだった。それが新鮮でもあったのだが。

今回、主役のポール・メスカル。誰? しかし、この問いは私にとってはあってならない問だった。なぜならポール・メスカル主演の前作『aftersun/アフターサン』(22)と『異人たち』(23)は映画館でみているのだから。ただそれにしても『グラディエーターII』で、いかにも古代ローマの彫刻から抜け出てきたかのようなポール・メスカルの彫り深いその顔をみていると、彼が『aftersun』とか『異人たち』で、どんな顔をしていたのか、まったく思い出せなくて困った。私の中では『グラディエーターII』のポール・メスカルが、それ以前のポール・メスカルを上書きし消去してしまったようなのだ。

ちなみに『aftersun』でも『異人たち』でも、ポール・メスカルが演ずるのはゲイの男性であった。ただ『グラディエーターII』では、ゲイ的要素を払拭するような夫婦愛が強調されている。とはいえ戦死した弓の名手としての妻は、女性性よりも少年のような魅力をたたえていて、夫婦関係はクィアであるといえなくもない。そもそも裸の男性の肉体美を鑑賞するためにギリシアの貴族が考案したといわれる古代オリンピックから抽出できるゲイ的要素は、もちろんグラディエーターの戦い場でのコロッセウムや闘技会からも抽出できるだろう。

そもそも男臭いドラマにはゲイ的要素はつきものなのだが、いっぽうでゲイ的要素を隠匿しようとする力学もはたらく。

つまりゲイ的要素を嫌うホモフォビアの観客にも賄賂が用意されているのだ。男女の夫婦愛という賄賂が。

主人公のルシアス/ポール・メスカルがその死を悼んで絶えず記憶のなかに喚起する死んだ妻アリシャトの存在。あるいはルッシラ/コニー・ニールセンと夫でありローマの英雄アカシウス将軍/ペドロ・パスカルとの夫婦愛(アカシウス将軍というのは、史実には登場しない架空の人物)。まさにこのような賄賂(適切な用語ではないとは思うが)を渡すことで、ホモフォビアの観客からゲイ的要素の搬入を見逃してもらおうとしているのである。

なにしろゲイ的な要素はけっこう多いのだから。

デンゼル・ワシントン演ずるマクリヌスは、カラカラ帝暗殺後に帝位に就く皇帝マクリヌスをモデルにしたようだ。もっともマクリヌス皇帝はよくわからない人物のようだが、この映画のなかで示される奴隷商人とか武器商人、剣闘士のプロモーターではなかったようだ。このマクリヌスに、ゲイ的要素が濃厚に付着する。イアーゴー的な口八丁・手八丁の悪人で剣闘士好きということ自体、本人がゲイであることを暗示しているし、事実、独身である(彼が男性と接吻しているという場面があったらしいのだが、最終的にカットされたとのこと。もともとゲイもしくはクィア的人物として設定されていたのだが、あからさますぎる場面は削除したということだろう)。

もちろん、それだけではない。またこのことを指摘すれば、またかと嫌がられる、いやあきれられるかもしれないが、この映画、水の映画である。最初、ローマの軍船が海に面した砦を攻略する。主人公が海に落ちたり、海岸に戦死者が打ち上げられたり、主人公の夢の中で死んだ妻が浜辺から黄泉の国へと旅立つ。そして闘技場での最大のスペクタクルは、闘技場に水(海水)をいれて行われるサラミスの海戦の再現である(水中にはサメがいる)。この超絶スペクタクルのあと、最後の戦いがどこだか映画を観た人は思い出すだろう。そう、川の中。これほど水の場面が印象に残る映画はない。それはまたこの映画が、異性愛の物語と並行してゲイの物語でもあることを強く暗示している。

【ウィリアム・ワイラー監督『ベン・ハー』(1959)ではベン・ハー/チャールストン・ヘストンと幼馴染のメッセラ/スティーヴン・ボイドの間にゲイ的関係が仕組まれていた(ヘストンには知らされていなかったらしいのだが)ことを『セルロイド・クローゼット』(1995)ではじめって知って驚いたのだが、しかし、そのような設定がなくとも、『ベン・ハー』のようなローマ時代(イエスの磔刑の時代でもあるのだが)の男性の闘争物語にはゲイ的要素が横溢していることは指摘するまでもない。】

極めつけは映画のなかでの双子の皇帝かであろう。共同統治したゲタ皇帝とカラカラ皇帝は、史実では双子ではないのだが、双子でなくとも共同統治ということはこの時代よくあったようだ。なぜそうなったかはよくわからないが(『グラディエーター』と『グラディエーターII』は共同皇帝の時代の出来事となっているが、それは史実にのっとっている)。この(双子)兄弟皇帝の愛憎なかばする関係は、ゲイ的要素をはらむクィア的なものである。前作『グラディエーター』においてコンモドゥス/ホアキン・フェニックスは、ゲイの人間にもみえるし姉に対してインセスト感情を抱く倒錯者でもあった。これはこの映画シリーズがクィア的というよりも、当時のローマ帝国がクィア的だったことの再現でもあるのだろう。

古代ローマがクィアなのは、ヨーロッパ文明の源流でありながら、アフリカやオリエント世界との交流のなかで、どこかしらオリエンタリズム的異国情緒を漂わせているからではないだろうか。一方で映画的スペクタクル、つまりepicという形容で語られる壮大なスペクタクル映画にこそふさわしい題材の宝庫である古代ローマは、近代ヨーロッパとは隔絶した異国それもアジアアフリカとのコンタクトゾーンであるがゆえに、そこにクィア性が横溢するということができる。

今回の映画でも、古代ローマの宮廷や貴族の華麗な生活がリアルに再現されているが、それをみると、「オリエンタリズム」という言葉が感想として口をついてきそうになったが、よくみれば、そのリアルさは、ジェロームのオリエンタル絵画のそれではなく、アルマ=タデマの世界という思いが強くなった。
ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836年1月8日 - 1912年6月25日)は、イギリス、ヴィクトリア朝時代の画家。古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵を数多く残し、ハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えたと言われる。

このオランダ出身の19世紀の画家は、フランスで印象派の画家たちが毛嫌いしたアカデミー絵画に近いもので、リアルだがそのけれんみたっぷりな画風は、はっきりいって俗悪の一歩手前というところがだが、リアルだけれども異国情緒あふれるその絵画は、題材としている時代や場所(古代ギリシア・ローマ、エジプト、地中海世界)からしても、クィア性でむせかえるほどのものである。私はその俗悪さとクィア性ゆえにアルマ=タデマの大ファンである。画集をもっているだけではない。その絵画をプリントしたマグカップとお盆と、カレンダーすらもっているのだ。

そして上記のWikipediaの記述にもあるように、その絵画は、初期歴史映画にも影響をあたえた。アルマ=タデマ、ハリウッドの歴史スペクタクル映画、そして『グラディエーター』の世界、その相乗効果に、私だけかもしれないが、酔いしれる。

なおネタバレになるので詳しくは語れないが、この『グラディエーターII』 をみて得た教訓がひとつある。イーロン・マスクには、アメリカ人、ほんとうに気を付けた方がいい。
posted by ohashi at 00:00| 映画 | 更新情報をチェックする