明治大学シェイクスピア・プロジェクト(MSJ)の公演(明治大学駿河台キャンパスアカデミーコモン3Fアカデミーホール)を観ることができた。演目は、シェイクスピアの『お気に召すまま』。昨年の『ハムレット』公演、観劇予定はあったのだけれども残念ながら急用で行けなかった。ただYouTubeでの無料配信でみることはできたのだが、今回、いつものアカデミーホールで観ることができてよかった。
やはり演劇は配信ではなく劇場でみるべきということは一面の真理をついているのだが、おそらくそれだけではない。今回のMSJの公演をみて、演劇がフェスティヴァルであることをあらためて痛感した。
もちろんMSJのシェイクスピア劇公演は質の高いものであって、開幕、人物の第一声を聞くだけでも、これはアマチュアの学生演劇のレヴェルを超えたものであることは誰もが納得することだろう。実際、上演は、まぎれもなくシェイクスピア劇、まぎれもなく『お気に召すまま』であって、無料の配信を通して、シェイクスピア劇のよさを日本中が知ることになるのはすばらしいことである。
私がMJSの公演について知ったのは、明治大学で非常勤講師をされていた某先生からで、毎年、ホールで観劇するということをお聞きし、いっしょに観劇させてもらった。演ずる学生たちの演技の質の高さや公演のために一丸となって行われる周到な準備にも感銘をうけた。大学からも後援をうけてというか明治大学主催なのだが、りっぱなパンフレットも無料で提供され、いまでは公演のみならずその配信も無料でみることができる。
私は大学教員時代にシェイクスピアの講義担当していたとき、extraの課題として、シェイクスピア劇を劇場で体験することも課題に加えた。チケットの半券そのものもしくはコピーと、簡単な感想をレポートに添付することを要求した。もちろんこれは正規の課題ではない。この課題を提出しなくても、通常のレポートで評価するので成績に影響はないし、ましてや単位が出ないこともない。ただ、せっかく演劇に関する講義に出席しているのだから、劇場に足をはこんでみてはどうか。毎日、毎週、毎月、劇場に行っている学生は、むしろこの課題は提出しなくてもいい。これまで一度も劇場に行ったことがない学生、シェイクスピアに限らず演劇舞台を観たことがない学生、そして大学卒業してから死ぬまで劇場に行くことはないかもしれない学生向けの課題である。これは提出しなくてもいい課題だから、教員とか大学のための課題ではなく自分自身のための課題だと説明した(なおシェイクスピア劇の映画あるはビデオの鑑賞はだめと伝えていた)。
ただし授業のために余分な出費をともなうものだから金銭的に切迫している学生には負担が重いかもしれないという反論も予想して、素人劇団のようなところが、安くあるいは無料で上演することもある。あるいは学園祭で学生によるシェイクスピア劇上演など一般に公開されていて無料で観劇できるものもあると伝えて、そのような例として明治大学シェイクスピア・プロジェクト(MSJ)によるシェイクスピア劇上演を推薦しておいた。
その結果、MSJの上演をみて観劇記を提出した学生がけっこういた。無料だからということもあったのだろうが、同じ学生による上演ということに対して好奇心なり親近感を抱いた学生たちも多かったように思う。そしていずれの観劇記もMJS公演に高い評価を与えていた。
なぜ劇場体験にこだわるのかについては理由はいろいろとあろうが、劇場体験の短所もある。劇場中継とか録画では俳優の表情など細部がはっきりとわかる。劇場に足を運ばなくても配信でみれば十分に満足できるし、劇場で観た場合と配信で観た場合で評価が大きく異なるとは思えないし、配信のほうが解釈にも深みが出るようにも思う。もちろん劇場中継録画とか配信ではカメラによって視界が固定されカメラの解釈に左右されてしまうという欠陥もあるが、それをいうなら劇場では前の観客の肩や頭で舞台がよく見えなかったということはしょっちゅうある。舞台映像というか動画おいて、見えにくい、一部が切り取られてしまったということはない。ではなぜ劇場での観劇にこだわるのか。
今回(私にとっては何度目かの)明治大学シェイクスピア・プロジェクトを観させていただいて、その答えがなんとなくわかったような気がした。先に学生たちの演技のレベルがプロ並みであるようなことを述べた。それについて変更はないのだが、同時にそのパーフォーマンスには、プロの俳優たちの洗練されたあるいは先鋭的な舞台にはならないようにリミッターが働いているような気がする。MSJの舞台が守っている伝統とは、学生演劇的要素を失わないこと、(たとえプロからの助言や援助があるとしても)プロとは違うアマチュアの手作り感を失わないことであるように思われる。
そしてこれはいまや教育の場から学芸会がなくなり、学生演劇も以前に比べれば少なくなっている昨今において貴重なことではないかと思われる。
小中学校などで学芸会を行うようになったのは、生徒が将来俳優になるための準備としての「学習発表会」ではない。演劇を教育の場に取り入れることに意義があることが前提とされていたのではないだろか。その前提が見失われたとき、そしてまた教員が指導できなくなったとき、自然と学芸会が消えていったのでは。
【『おいしい給食 Road toイカメシ』(2024)におけるように、中学校の学芸会のために脚本を書き自分で演出・演技指導できる甘利田幸男先生(市原隼人)のような先生は稀だろう。そもそも学芸会がなくなっている】
演劇を教育の場にとりいえることの意義は、作り手の側からすると、生徒や学生が一丸となって上演をめざして共同作業を行うことで、うまくいけばそこになんともいえない一体感や達成感が生まれること、その体験は生徒や学生の将来によい影響をあたえるということだろう。それが作り手側からみた意義ならば、受け手の側からすれば、芝居の上手い下手は関係なく、演劇を観ることの祝祭感は他の何物にもかえがたい得難いものとなる。実際に、学園祭の一環として演劇上演が行なわれてきたし、また小学校や中学校の学芸会は、学芸会だけでひとつのお祭りであった。
さらにいおう。学校というのは、厳めしい(イカメシではない)教育の場としてのみ存在しているのではなく、その隠れた本質が、共同体の祝祭の場であることを私たちは忘れている。その本質を、ハレの場、ハレの舞台としての年に一回の学芸会あるいは体育祭が垣間見せてくれる。フェスティヴァルを学校は排除しているようにみえて、フェスティヴァルほど学校に似つかわしいものはない。生徒・学生や先生は、みんな役者。教室は舞台。授業は戯曲もしくは戯曲のためのリハーサル、教育活動は、日々くりひろげられる演劇活動であり、学校生活はドラマ、学校はひとつの世界、大宇宙のミクロコスモスなのである。
今回の明治大学シェイクスピア・プロジェクトの公演は、これまでのように、上演に関わる学生諸君の家族や知人・友人だけなく、明治大学の学生や卒業生にも開かれていること――祝祭的であること――そして同時に、私たちのような一般観客にも開かれていること――祝祭的雰囲気のおすそ分けをもらっていると同時にまぎれもないシェイクスピア劇を鑑賞できること――、その二重性が、プロ並みの演技とアマチュア感の横溢した舞台の二重性と響きあっているように思われる。
『お気に召すまま』そのものについて語るのを忘れてしまった。次回は作品について。