ただ、それにしてもKAI-YOUの記事、誰にでも「さん」付けしていているのはいかがなものか。偉い人は呼び捨てが原則。偉い人に「さん」をつけると、逆にバカにしているように思われるのですよ、KAI-YOUさん。【織田信長のことを、織田信長さんとは言わない(近所のおじさんじゃないのだから)。紫式部さんとも言わない(近所のおばさんじゃないのだから)。)
ガルシア=マルケス『族長の秋』が文庫化 大ヒット『百年の孤独』に続く長編第2作
KAI-YOU によるストーリー 2024年11月6日
新潮文庫が、コロンビアの小説家であるガブリエル・ガルシア=マルケスさんの小説『族長の秋』を、2025年2月28日(金)に刊行する。訳は翻訳家の鼓直さん。
この小説は、2024年6月に刊行され36万部を突破した『百年の孤独』文庫版に続くガブリエル・ガルシア=マルケスさんの長編第2作。
長らくハードカバーしか存在しなかった前作の文庫化は大きな話題に。発売前から重版が決定し、海外文学として異例の売行きが続くだけに、第2作も大きな反響を集めそうだ。
【『百年の孤独』についての紹介。略する】
悪行を繰り返す独裁者を「自身の写し鏡として描いた」【小見出し】
新たに文庫化される『族長の秋』は、1967年の『百年の孤独』刊行から8年後の1975年に発表された作品。
幼年時代に、独裁者の奇妙な評伝を憑りつかれたように貪り読んだというガブリエル・ガルシア=マルケスさんが、悪行を繰り返す独裁者の素顔を複数人物の語りによって描く。
ガブリエル・ガルシア=マルケスさんによれば、『百年の孤独』の冒頭から登場する主要人物である「アウレリャノ・ブエンディア大佐のその後を描いた」とも、「自ら自身の写し鏡として描いた」とも語られている。
筒井康隆【原文のママ。「さん」付けしていない】も「おれのお気に入り」と強く推薦【小見出しだからさん付けしないというわけのわからないルール】
日本では1983年に、鼓直さんの翻訳により集英社から刊行されていた『族長の秋』。
【中略】
また、新潮文庫での『百年の孤独』の文庫化の際には、書き下ろされた解説で小説家・筒井康隆さんが『族長の秋』について言及。
「カストロと親交のあったマルケスならでは」と評価した上で、「実はおれのお気に入りは、マルケスが本書の八年後に書いた『族長の秋』なのである。文学的には本書の方が芸術性は高いのかも知れないが、その破茶滅茶度においてはこちらの方が上回っている」と、強く推薦している。
(以下引用)
「百年の孤独」を読まれたかたは引き続きこの「族長の秋」もお読みいただきたいものである。いや。読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。筒井康隆 - 新潮文庫『百年の孤独』解説より
(以上引用)
なお、海外文学を巡っては、2024年8月に作家のジェイムズ・ジョイスさんによる『フィネガンズ・ウェイク』の邦訳版が刊行。難解さと奇天烈さで“文学の極北”と評される作品が待望の復刊を果たすなど、世界文学は大きな盛り上がりを見せている。
私は集英社版の『族長の秋』を読んだことがある。それこそ『百年の孤独』の翻訳を人物の相関関係図とか系図を本に書き込みながら読んだ興奮冷めやらぬなか、このラテンアメリカ固有の「独裁者物語」を読んだ。
何が起こっているのか曖昧模糊として理解不能なところも多かったのだが、予備知識なしの状態で力まかせに最後まで読んだ。読了した達成感はあった。だが、その満足感はすぐに後悔にかわった。
『族長の秋』は、ガルシア=マルケスの他の小説(中編も含む)とはまったく違っている。『百年の孤独』とも違う。『百年の孤独』を念頭に置きながら、この小説を読むと困惑するだけである。つまり『族長の秋』は、ガルシア=マルケス版『フィネガンズ・ウェイク』であって、読んでもわからない。そもそも読み通せない。
読めない小説である。その読めない小説を読んでしまった私はいったいどういう愚か者なのだ。
筒井康隆のような手練れの読み手が、その独特の感性をもってこの作品に接すれば、面白く読めると思うのだが、それは例外的な事態で、ほとんどの読者にとっては、ただただ面食らうか、時には憤慨するしかない作品である。少数の賢明な読者、あるいは理解力のある読者、そしてどんな小説でも読んできた読者なら、ある程度読んだら、その先を読むのをやめるはずである。読み進めないことが正しい選択である。
それをただ淡々と読み進めた私はただのど阿呆である。たとえていえば、ひらがなしか読めない私が馬琴の『南総里見八犬伝』のめんどくさい文章を、当時の原文には漢字すべてにふりがながふってあるので、漢字の意味はわからなくても、最後まで読んだというようなものである。つまり読んだことにならない。『族長の秋』は、読めない、読もうとして挫折したというのが、正しい読者であって、私のように読んでしまった読者は、ただただはずかしいだけである。
まあそれでも『族長の秋』が、独裁者の没落物語りであることは読んでわかった。最近、ラテンアメリカではなく北アメリカに誕生したトランプとかいう独裁者のこれからの愚行とその狂気の内面と自滅とを予言しているような作品といえなくもないだろう。