ちなみに以下の記事では
『落下の王国』4Kレストア版、9月MUBIが世界配信 (2024年7月16日)
『落下の王国』(2006)【アメリカや日本における公開は2008年】、“映像の魔術師”と称されるターセム・シン監督が構想27年、CMやミュージックビデオ制作で稼いだ私財を全投入して作り上げた渾身の一作。
【中略】
カルト的人気を誇る作品だがストリーミングサービスには上がっておらず、現在は鑑賞が非常に困難となっている。
今回の4Kレストア版は来月開催されるロカルノ国際映画祭でワールドプレミア上映された後、MUBIでの配信が始まる予定だ。日本でも配信、もっと言えば劇場公開されることを願いたい。(編集部・市川遥)
とあるが、日本での配信は今のところない(DVD、ブルーレイ廃盤)。ちなみにこの映画のDVDを持っているのだが、現在発掘中。そのため以下の記述ではこの映画を見直すことなく書いているので、誤解・誤認・記憶違いがあると思うので、そこは容赦されたい。
ストーリー【Wikipedia】
1915年のロサンゼルス。無声映画のスタントマンをしていたロイは、撮影中に大怪我を負い半身不随となる。挙げ句の果てに主演俳優に恋人を奪われ、自暴自棄になっていた。
そんなとき入院中の病室に現れたのは、オレンジの収穫中に木から落ちて腕を骨折して入院していたルーマニアからの移民の少女アレクサンドリアだった。ロイは、動けない自分に代わって自殺するための薬【モルフィネだが】を少女に盗ませようと思い付き、アレクサンドリアに作り話を聞かせ始める。それは一人の悪者のために、愛する者や誇りを失い、深い闇に落ちていた6人の勇者達【正確には5人の勇者に最終的に1人加わり6人となる】が力を合わせ悪者に立ち向かう物語。【以下略】
あっさりした紹介だが、病院で大けがをしている二人(若者と少女)が出会し、青年が―少女におとぎ話を語って聞かせる―しかも、その物語は言葉で語られるだけでなく、映像化もされる。となるとなにか心温まるファンタジーあるいは童話的世界を強く予感させるのだが、この二人が病院で出会うこと自体に夢のカリフォルニアのアメリカン・ドリームの破綻が透けて見えることになる。
青年は映画のスタントマンで落下スタントに失敗して大怪我をしたことになっている。おそらく再起不能で、人生に悲観しているところ、仲良くなった少女に、モルフィネを盗ませ、それで自殺しようとする。
一方、少女のほうは、腕を骨折したようで添え木をして腕を吊っているのだが、元気で、病院内を走り回っている。おてんば娘が木登りをして遊んでいて落下したのだろうと思っていると、そうではなく移民の子の彼女が果樹園で危険な労働に従事させられた結果、そうなったのだとわかる。おそらく子供だから身が軽いと思われ、オレンジの木に登らされて果実の収穫作業のさなか足を滑らせて落下したのだ。これがわかると観ている者は慄然とする。
そうドリーミング・カリフォルニア、今年ワールドシリーズに優勝して世界一(実際にはアメリカでナンバー・ワンにすぎないのだが)になったドジャースの本拠地のあるカリフォルニア、そのカリフォルニアを支える代表的二大産業、オレンジ(フルーツ)産業と映画産業の闇を二人が体現している。
斬られ役なくして日本の時代劇が存在しないように、スタントマンなくしてハリウッドのアクション映画は成立しない。そして労働基準法などなかった時代に危険な作業に駆り出される幼い子供たちなくしてオレンジ産業は成立しない。いや、もっといえば、けがをしたスタントマン、けがをした幼い子供たちが、映画産業を、オレンジ産業を支えているのだ。いやさらにもっと言えば死者たち(死んだスタントマン、移民労働者の死んだ子どもたち)の闇によって産業が光り輝いているのだ。今、その犠牲者たちが病院で相まみえる。
スタントマンだった青年は、木から落下した少女に、悪人退治のファンタジーを語って聞かせる。そのファンタジーの部分も驚異的な映像と映像美で映画のなかに挿入される、というか病院や病室での青年と少女のやりとりと、青年が語る悪人退治物語とが交互に示される。そう、これは映画『八犬伝』(2024)と同じ構成ではないか。
いま悪人退治物語と述べたが、正確には、それは、5人(のちに1人加わり6人)の戦士たちが、それぞれに「総督」の暴虐の犠牲者であり「総督」への恨みによって結集しているのであって、この「総督」への復讐物語となっている。こうなると彼ら5人(のちにさらに1人参加)は、スーパー戦隊物の典型的なチームである(たとえ彼ら5人が、その無国籍でシュールな衣装によって統一感あるいはチーム感を出してはいないとしても)。そしてスーパー戦隊物(5人が基本)のルーツは『南総里見八犬伝』にあるとも考えられているとすれば、『落下の王国』は、スーパー戦隊物を介して『南総里見八犬伝』ともつながるのである。
【なお青年が少女に話をきかせるという『落下の王国』の構図は、『八犬伝』にもあらわれる。馬琴が北斎に『南総里見八犬伝』の内容を語るというかたちで。】
ただ違いもある。映画『八犬伝』では(べつにこの映画でなくてもいいのだが)、八犬士の活躍は、曲亭馬琴の頭のなかでつくられたファンタジーとなっている。馬琴から物語の概要を聞かされる北斎は、その想像力の荒唐無稽で大胆な飛躍に感心するのだが、登場人物に感情移入するわけではない。いっぽう『落下の王国』では、5人の戦士たちの復讐物語を語る青年自身、その物語の中ではリーダー格のスーパーヒーローとなるし、聞き手の少女も物語のなかでは、そのリーダーの娘となって活躍する。また病院関係者たちが物語の登場人物となってゆく。語り手や聞き手は、物語をわがことのように受け止めるのであって、そこが馬琴や北斎の、八犬伝物語に対する姿勢と大きく異なる点である。
【実際、この種の〈物語・中・物語〉形式では、語られる内容に、語る側の現実や状況が入り込むのはふつうのことである。つまり『落下の王国』では病院関係者たちが作中に登場するというのは、よくある趣向なのだ。ターセム監督は、ブルガリア映画『Yo Ho Ho』(監督ザコ・ヘスキジャ、脚本ヴァレリ・ペトロフ 1981年)から着想したということだが、『落下の王国』は、『Yo Ho Ho』のアダプテーションであり、残念ながら『Yo Ho Ho』をみていないのだが、そこでは聞き手は男の子で、病院関係者が語られる物語に数多く「出演」するらしい。なお『落下の王国』で女の子によりにもよって「スーパー戦隊物」のような物語を聞かせるというのも、この『Yo Ho Ho』から来ているのだろう。とはいえセーラー・ムーン・フランチャイズとかプリキュア・フランチャイズのようなものと考えれば、女の子だからというジェンダー偏見は無意味かもしれないのだが。】
『落下の王国』では、語り手の青年は、どうやら半身不随となって再起不能であるとわかって、自殺を考えている。その自殺用の薬を手に入れるために、少女を利用しようとしている。彼が物語を語って聞かせるのは、少女を手なずける手段でもある。だから悪人退治の復讐譚も、青年が人生をはかなみ、恋人も去り、映画会社からも見限られると、陰気な暗い話になってゆく。ヒーローたちは悪を打ち負かすどころが敗北を余儀なくされる。リーダー格のヒーローも物語当初の活力を失い負け続ける。まさに物語は、フォールする(負ける)物語へと闇落ち(フォール)する寸前までゆく。そしてそれを聞いている少女が抗議する。
ヒーローたちが悪をやっつける話が聞きたいのだと。スタントマンを使い捨てにする映画産業、子どもを危険な作業に従事させその人生を奪っても悔やむことのないフルーツ産業、非人間的な産業社会、資本主義の暗黒面。物語が、この巨大な世界悪と戦い勝利する物語でなくして、なんの物語か。ヒーローが巨悪に勝つ、あるいは巨悪を退治する物語がなければ、弱い立場の犠牲者たちは希望を失い破滅するだけである、弱い立場にある者たち、使い捨てにされる者たちは世界悪を克服する希望を完全に失うしかない。物語は、いつか世界悪は滅びるというユートピアの約束でなければならない。
もちろん少女は、もっと直接的な言葉で青年に物語のつづきを、それもヒーローが勝利する物語のつづきを求める。青年と少女のおかれた苦境、そしてふたりの絶望を知る私たちにとって、この部分はほんとうに涙なくして観ることができない。
『落下の王国』は驚異的な映像と物語/語りの形而上学(絶望とその裏返しのユートピア願望)によって圧倒される映画である。これに対し、同じような構成をとりながら映画『八犬伝』は、そこまでの感動はない。
たとえば馬琴が芝居小屋の奈落(地獄の意味ではなく舞台の下の空間のこと)で鶴屋南北と対決する場面は、おそらく誰が観ても、この映画の思想的核心である。馬琴が紡ぎ出す勧善懲悪物語は、鶴屋南北的な観点からすれば、社会的矛盾を想像的に解決するイデオロギー装置である(もちろん映画のなかで南北は「イデオロギー装置」とは言っていないが)。これに対し、そうしたイデオロギー装置を脱臼させるのが南北の怪談であって、忠臣蔵(八犬伝に通ずる集団復讐劇)という忠義・仇討・名誉など武士道と儒学的イデオロギー満載のキャノン的作品を反転させる裏忠臣蔵の世界を構築することによって、怪談という超現実的あるいは非現実的なジャンルをとおして、きれいごとではない現実の再現を目指したといえる。ただし、南北とは異る馬琴の現実的アプローチは、現実のあるがままの再現ではなく、現実は勧善懲悪であらねばならないという理想を求めるものである。そしてその理想が非現実的にみえるとき、現実そのものの仮借なき残酷さ、限りない不合理が逆に暗示させられるのである。となると南北も馬琴も、非情な現実のありようを再現しようとしている点で、建前では伝えられないリアルを出現させようとしている点で、たとえそのアプローチは異なっても、同じ現実をみすえていかことに変わりないのではないか。
そして『落下の王国』で劇中劇のように映画の中で語られるもうひとつの映画もまた、正義と善を希求している点で、馬琴の勧善懲悪物語(つまり『南総里見八犬伝』)と同じといえよう。だが『落下の王国』では、あれほど涙を誘った犠牲者たちのユートピア願望が、『八犬伝』からは感じ取れないのはなぜか。
映画『八犬伝』においては、『南総里見八犬伝』を語る者(馬琴)と聞く者(北斎)が、ふたりとも老人であって、『八犬伝』物語の登場人物と年齢がはなれていること、そしてまたふたりは、弱者でもなければ犠牲者でもないし、八犬士のように復讐、正義の鉄槌を求めているわけでもないし、ルサンチマンをかかえているわけでもない。忠義や孝行や人徳の欠如によって苦しんだ馬琴が、願望充足として勧善懲悪物語を書いているわけでもない。馬琴と物語との関係は希薄なのだ。すくなくとも勧善懲悪という面からみるかぎり。
おそらくこの映画における闘争は、矛盾に満ちた社会や暗黒の社会と理想的な勧善懲悪の社会との対立から生まれているというよりも別の要因から生み出されたように思われる。
戦域は勧善懲悪問題ではない別のところにある。つづく