2024年10月28日

『八犬伝』1

曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』ならびにその翻案(小説、映画、アニメなど)については、まったく無知で、子供向けのダイジェスト版を読んだ記憶もない。そのため今回の映画『八犬伝』(曽利文彦監督2024年)については、無知なるがゆえに新鮮な驚きに開かれている映画鑑賞者として接することになった。

おそらく私だけでなく、私と同様の予備知識のない観客は、馬琴が28年もかけて完成させた『南総里見八犬伝』というのは、こんなあっさりした単純な物語なのかと唖然とするかもしれない。ただし、プレス機でぺしゃんこにされスクラップ処理された自動車だったものの塊を前に、圧縮される前はどんな姿だったのだろうと推測する苦悩と楽しみはある。

今回の『南総里見八犬伝』パートは、ダイジェストの度合いを超えて、しかも翻案の域も超えているように思えるのだが、それは、滝沢馬琴と葛飾北斎とのからみのパートと平行して示される八犬士の物語が、あくまでも物語の一部、見所的なものの断片的紹介というかたち(つまり語られざる多くの部分があることを暗示する)ではなくて、独立し完結する一連の物語の流れを重視するかたちで提示される(つまりつなぎ合わせればダイジェスト版あるいは全体の要約となる)ために、八犬士のパートが薄っぺらくならざるをえなかったのではないか。ただし、その分、『南総里見八犬伝』というのは、ほんとうはどういう物語だったのか読んでみたいという知の欲望を掻き立てるのなら、それはそれで予期せぬ副次的効果が生まれたといえなくもない。

と同時に、今回思ったことは、曲亭馬琴は長い物語を書きすぎた。どのような要約でも、あるいはダイジェストでも、数多あるエピソードの妥当な再現はむつかしい。そのため翻案が常態化する。いや翻案というよりも改変が常態化する。そもそも、全編を読破した読者は少ないだろうから、どこがどう違うなどの指摘などできない。そうなると変えたい放題、翻案天国である。実際、今回の映画版に限らず、これまでの映画版すべてを、もし曲亭馬琴が見たら、原作とのあまりの乖離に抗議のために切腹してもおかしくないだろう。馬琴にとって翻案は地獄である。

『八犬伝』のなかで、鶴屋南北との奈落における対決は見せ場のひとつだが、その議論の内容は別にして、劇作家なら翻案に対する許容度は高い(そもそも『東海道四谷怪談』自体が、映画のなかで示されているように『忠臣蔵』の翻案であり、『忠臣蔵』を反転させた『裏忠臣蔵』でもある)。また翻案をいうのなら、戯曲の舞台化そのものが、まさにその戯曲の初演という起源そのものが、翻案、それも数多ある翻案の可能性のひとつにすぎないのだから。劇作家は、ひどい翻案に対しても抗議の切腹は絶対にしない。

芸術作品の評価は、受容の歴史と切り離せない。そのため翻案の百花繚乱(とはいいすぎかもしれないが)が『南総里見八犬伝』を今日至るまで永らえ続けさせてきた原因ともいえるのである。

ただし『南総里見八犬伝』の翻案は翻案でもないだろう。たとえば『ハムレット』を現代社会の出来事に置き換えた場合、オリジナルのどこをどう修正したのか補完したのかを通して翻案の意味が明確になるし、逆にオリジナルの特徴もまた明確になるのだが、『南総里見八犬伝』の場合、翻案が、オリジナルのどこをどう変えたのか専門家でないとわからないし、逆に翻案がオリジナルに光を当てることもない――オリジナルが何かわからないのだから。

たとえば『水滸伝』を基にして長編小説を書くとしよう(というか実際にたくさん書かれてきた)。その場合、べつに現代化をおこなわなくても、翻案となるし、そうみなされるのだが、同時に、その翻案を通して読者は名のみ有名なオリジナルの内容を想像する。そしてそれが、オリジナルを生きながらえさせる契機ともなる。

【ここでは議論を単純化している。『水滸伝』の場合、オリジナルは二種類ある。またさらに厳密に考えるとオリジナルが増える可能性もあろう。複数あるオリジナルというのは、本来、オリジナルではない。ただそもそもオリジナルという考え方自体が、複数多様性を一本化する抑圧的なものであることを忘れてはならないのだが】

だが古典とはそういうものだろう。古典は敬意を払われるが、同時に、古典はどんどん書き直される。『水滸伝』は原典として存在している、同時に、その数多くの書き直し(中には劣悪な書き直しさらには揶揄的な翻案もあろう)もまた『水滸伝』ユニヴァースを形成し、それ自体が、オリジナル『水滸伝』と切り離せない一部となる。

『南総里見八犬伝』も、オリジナルを無視したかたちで、あるいは改変・改悪したかたちで書き直され翻案される(コミック、アニメ、絵本にまでなる)のだが、それは『南総里見八犬伝』が、『水滸伝』と同じような古典の地位を獲得したからだといえないこともない。そうであるなら馬琴も腹を切らずに済むかもしれない--とはいえこの理屈を石頭の馬琴が理解できるとも思えないのだが。

翻案の百花繚乱なくして古典は存在しない。これはまた翻案という二次創作が独り立ちをして独創性を発揮してオリジナル化する可能性を包含している。

たとえば『南総里見八犬伝』における終盤、「関東大戦」(Wikipediaの表記)が起こる。
関東大戦
文明15年(1483年)冬、犬士たちを恨む扇谷定正は、山内顕定・足利成氏らと語らい、里見討伐の連合軍を起こした。里見家は犬士たちを行徳口・国府台・洲崎沖の三方面の防禦使として派遣し、水陸で合戦が行われた。京都から帰還した親兵衛や、行方不明になっていた政木大全も参陣し、里見軍は各地で大勝利を収め、諸将を捕虜とした。【Wikipedia】

という説明になる。映画『八犬伝』では、八犬士をひとつにまとめてはならないという「玉梓」の予言に逆らうかたちで八犬士が一丸となってラスボスのような化け猫(玉梓の化身)を倒すのだが、上記の「関東大戦」の説明からすると、オリジナルはそのような物語になっていない。

八犬士は三方面に別れて関八州の連合軍と相対する。里見側の陸戦部隊の陣容は、行徳方面では犬川荘助大将、犬田小文吾が副将となり、8500人を率い、敵側は2万人。いっぽう国府台方面では犬塚信乃が大将、犬飼現八が副将となり、9500人を率い、敵側は3万8千人。このほか水軍もあるのだが、この陣容をみると、映画『八犬伝』とは様子が異なる。

力を合わせて戦う八人の犬士物語は、秘密戦隊ゴレンジャーからはじまるスーパー戦隊シリーズの元祖だともいわれているのだが、馬琴が終盤の関東大戦で描こうとしているのは、八人の刺客のような八犬士ではなく、指揮官、武将としての八犬士である。関東大戦の直前に壮絶な仇討ちをおこなった犬坂毛野は、関東大戦では軍師である(「智」の球を持っている)。馬琴の念頭にあるのは、スーパー戦隊物ではなく、中国の水滸伝や三国志にあるような壮大な合戦とそこで活躍する将軍とか軍師の姿である。

となると馬琴の『八犬伝』に近いのは、スーパー戦隊物ではなく、コミック・アニメ・映画の『キングダム』である。中国の春秋戦国時代末期を舞台に展開するこの作品こそが、馬琴の『八犬伝』終盤の世界に通じているともいえる。

実際、信乃、現八、荘助、小文吾らは、『キングダム』風にいうのなら、先頭に立って戦う三千人将、五千人将いや将軍かもしれない。軍師毛野は、李牧や昌平君といった天才軍師の面影がある(彼らは知略の士だとしても、同時に有能な戦士でもある)。中国の大平原や山領の和風版である関東平野と周辺の山地で戦闘が行われる。里見家の領地に侵入する関八州の連合軍は、これはもう連合軍というよりも「合従軍」というべきものだろう。実際、馬琴に「合従軍」という名称を提案したら、おそらく喜んでその提案を受け入れたにちがいない。

だが中国の古典における戦記に似せて八犬士と合従軍との戦いを描くというのが、馬琴のオリジナルな意図だとしたら、次に考えるべきは、そこには無理があり、物語とか全体の設定からしても似つかわしくないということだろう。八犬士たちは、やがて里見家の八人の姫たちと結婚して城主となるとしても、それまではスーパー戦隊のメンバーとして活躍してくれたほうが、五千将であるよりもはるかに面白い。個人としての活躍から、一挙に、五千人将になるような馬琴の描き方には、違和感が拭い去れない。

八犬士が力をあわせて強大な敵を倒すというような、『八犬伝』ユニヴァースで定着している物語のほうが、オリジナルよりも面白いし説得力もある。まさに翻案がオリジナルを補完しつつ、あらたな可能性を広げ、しかも完成形を指示したといえるのである。つづく
posted by ohashi at 20:16| 映画 | 更新情報をチェックする