いや、投票入場券は届いているのに、それに気づかなかった私が捨ててしまったのではないか。老人になると、どんな粗相をしでかすか、わかったものではない。私ももうろくして重要な書類を気づかずに捨ててしまったのかと、かなり落ち込んだ。
もちろん居住している自治体のほうの手違いで私に送られてこないとか、郵便局の誤配送ではないだろうかと、あれこれ可能性は考えた。
まさか急な総選挙の決定に自治体のほうで準備が間に合わず郵送が遅れたなどとは思いもよらなかった。
というのも、投票入場券が届いていないことを、知人に話したのだが、居住している自治体にいる知人ではなく、私のところからは遠い神奈川県に住んでいる知人に尋ねてみた。そうすると投票入場券は、とっくに届いているという返事だった。そのためやはりアクシデントがあって私のところにだけ届いていないか、あるいは私が気づかずに捨ててしまったのではないか、この二つの可能性しかないと思い込んでしまった。
同じ自治体に住んでいる知人にたずねてみれば、届いていないという返事だったはずで、そうなると悪いのは私のほうではなく、送付する側かもしれないと考え、様子をみる、自治体の役所に問い合わせてみる、あるいはメディアで調べてみたりするかもしれなかったのだが――実際にネットでは投票入場券が届いていないという記事があったし、本日、テレビでも、その話題をとりあげていた。だから自分がもうろくして重要な書類を捨ててしまったと思い込まなくてもよかったのだが、神奈川県の知人に尋ねたのが運の尽きだった。
とはいえ、投票入場券がなくても、投票できることを知っていたので(メディアでも、このことは伝えていた)、投票日には、投票入場券をなくしたと申告して(昨日まで自分がなくしたものと思い込んでいた)投票すればいいと、そんなに心配はしていなかったのだが。
自虐的で心配性の私は、もし自分であやまって捨てていなくても、私の投票入場券が奪われて使われてしまうのではないかと、心配した。
映画『人数の町』(日本映画2020年9月に公開。荒木伸二監督。主演:中村倫也)は、こんな物語である。
借金取りに追われ暴行を受けていた蒼山は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男に助けられる。その男は蒼山に「居場所」を用意してやるという。蒼山のことを“デュード”と呼ぶその男に誘われ辿り着いた先は、ある奇妙な「町」だった。
「町」の住人はツナギを着た“チューター”たちに管理され、簡単な労働と引き換えに衣食住が保証される。それどころか「町」の社交場であるプールで繋がった者同士でセックスの快楽を貪ることも出来る。
ネットへの書き込み、別人を装っての選挙投票……。何のために? 誰のために? 住民たちは何も知らされず、何も深く考えずにそれらの労働を受け入れ、奇妙な「町」での時間は過ぎていく。
ある日、蒼山は新しい住人・紅子と出会う。彼女は行方不明になった妹をこの町に探しに来たのだという。ほかの住人達とは異なり思い詰めた様子の彼女を蒼山は気にかけるが……。【映画の公式ホームページより】
この映画の物語紹介のところに、別人を装っての選挙投票とある。私の奪われた投票入場券を使って誰かが投票していたらと思うと、投票で自分の意志を反映することができなかった悔しさと同時に犯罪に巻き込まれた怖さも感じられて複雑な思いにとらわれた。しかし、投票入場券がなくても投票できるのだから、期日前投票で、偽造の身分証明書さえあれば簡単に投票できてしまうことにも思い至った。つまり投票入場券を奪わなくても、なりすまし投票ができる。
もちろん、そんなことが実際に行なわれているかどうか知らないが、今の日本社会、このような犯罪に使われる人数要員は、闇バイトなどもふくめて、無数にいると考えても、あながちまちがいではないだろう。心配性の私は、結局、投票入場券が送られてきても、心配は終わらない。