もっともいっしょに観劇した人に、2016年版のDVDを貸したところ、公演後、帰宅してすぐに見たら、これも面白かったということだったので、まあ、どちらも面白いということだろう。
実際、最初から最後までしっかり笑わせてもらったし、劇場全体が間断なく笑いに包まれていた。評判を聞きつけて急遽観に来た観客もいたと思うのだが、劇場は満席だった。
だから信じられないのが、私の隣に座った巨漢のことである。巨漢と言っても、『キングダム』に登場する大将軍のような大男ではないし、私がその巨体に圧迫されたというような迷惑をこうむったというのではないだが、その男、ともかく始まるとすぐに寝始めたのだ。
まだどんな話かわからないうちに寝るとは。芝居を観てつまらないと思い寝始めることはある。しかし芝居がはじまった瞬間寝ていたということはどういうことなのか。しかも、周りでは舞台に対する笑い声が絶えないというのに、その笑い声に誘われて舞台を観てみようとは思わないのだろうか。とにかく爆笑に包まれた劇場のなかで眠りこけているこの男は、いったい何者なのだ。
病気かもしれないのだが、午後1時から公演なので、ランチを食べすぎて眠たくなったということか。こんなに面白い芝居を前にして寝ているというのは、どういう愚か者なのかと笑うことすらできなかった。
公演にあたって作者・主催者の上田誠は、こんなことを書いている。
「来てけつかるべき新世界」は、大阪・新世界を舞台にしたSF人情喜劇です。くすんだ歓楽街にたむろするオッサンおばはんらの元へ、文字通りの「新世界」がやってきます。ドローン、ロボット、AI、メタバース、シンギュラリティ…。
2016年に初演し、ただならぬ手ごたえとともに、劇団を大きく躍進させてくれたこの作品を、8年ごしに再演します。もう8年か、と思うほどに最近の気分でもありますが、この8年でテクノロジーはまたうんと進化し、SFだなんて呑気に言ってられない状況になりました。ファミレスでハンバーグをロボットが運んでくるに至り、劇が現実に追い抜かれないうちにと再演を決意しました。
着々と新世界は来てけつかりますが、僕らも8年歳をとり、オッサンたちはよりふてぶてしくなりました。加えてえげつない客演陣と、いらちなマナっちゃんが串カツ屋で迎え撃ちます。人類はどこへいくのでしょう。阪神のサイボーグ枠は打つでしょうか。 (上田誠)
この言葉に触発されて、公演前のランチは「ガスト」ですることにした。下北沢の駅前すぐにあるし、並ばなくても入れるのだが、とくにファンというわけでもないのに、入ってみたかったのは料理をもってくるロボットをみてみたかったからである。
上記の文章で上田誠は、「ファミレスでハンバーグをロボットが運んでくるに至り、劇が現実に追い抜かれないうちにと再演を決意しました」と書いてある。実は、「ガスト」だけではないだろうが、ロボットが配膳するファミレスのひとつ、駅前の「ガスト」で、料理を運んでくるロボットをどうしてもみておきたかった(私はこれまで眼前でみたことはない)。
実際、ガストでのランチがよい予告編となった。実際に動くロボットは、今回の『来てけつかるべき新世界』の物語とテーマとに連動して、テクノロジーと文化について、ほんとうにいろいろ考えさせられた。
配膳ロボットをみていると愛おしくなった。これは動物が、あるいは幼い子供が、精いっぱいの努力をして仕事を全うするけなげな姿に対して、愛おしさを感ずるようなもの。とはいえ、これは優越感にひたりながら、上から目線で見下しているという、裏を返せば差別的姿勢そのものである、そう言われればそうである。
しかし、では、親が自分のまだ未熟な子供の行動を温かい目で見守っていることも、優越感に裏打ちされた差別的姿勢なのだろうか。そこには差別的目線を支える憎悪はない。愛がある。いや、そのような愛こそが憎悪と表裏一体化しているのだと批判されるかもしれない。親の愛も、子供が自立したとき、あるいは子供が自立を求めているときには、むしろ抑圧的・暴力的にはたらくことがあろう。だから、その愛はいつ暴力に反転するかわからないことを承知のうえで、それでも、人間が自然に抱いてしまうエンパシーは、ゆるがせにできぬ重大な機能を秘めていると主張したい。
そのような愛とかエンパシーは、抑圧とか暴力とか同調圧力などにいつでも反転しかねないし、未知なるものとの遭遇において、それらは、もっとも危険な対処法であることも十分に承知したうえで、それでもなお、未知なるもの、未知なる世界に相対するとき、敵対的・支配的な姿勢では、たとえ解決につながるかにみえて、それは根本的な解決にはならならず、やはり友愛とか愛情といったものが、未知なるもの他者なるものとの遭遇において基盤となるべきだと主張したい。そうならなければ、私たちはサヴァイヴァルできないのではないだろうか。敵対的・支配的なものはサヴァイヴァルにとってマイナス効果しかないだろう。また愛が敵対的・支配的なものに裏返らないことがサヴァイヴァルの条件である。
ガストにおける配膳ロボットをみて感じた愛おしさは、ロボットを擬人化しているともいえるのだが、おそらく擬人化は人類の歴史の始まりとともにあった。アニミズムである。結局、人間は自然を擬人化することで自然を意識化し、自然と対決したのだが、そうしなければ生き残ることはできなかった。もちろんアニミズムは妄想であり、恵みぶかい自然という擬人化は、近代科学の台頭とともに消え去ったともいえるのだが、人間の事情など意にかえさない冷酷な自然というのも、もうひとつの擬人化である。擬人化からは逃れられないとすれば、擬人化による生存戦略こそ見直すべきであろう。
と、まあ、そんなことをガストの配膳ロボットをみながら考えた。いや『来てけつかるべき新世界』の舞台を観ながら考えた。ここでいう「新世界」とはふたつの意味がある。「ドローン、ロボット、AI、メタバース、シンギュラリティ……」によって変化する新しい世界と、大阪市浪速区恵美須東に位置し、通天閣がみえる庶民的な繁華街、できた当初は新世界だったのだろうが、いまは昭和の名残のある庶民の繁華街、新世界とは似ても似つかぬ旧世界である。この古き新世界ではドローン、ロボットその他はおよそ似つかわしくないのだが、にもかかわらず新しいテクノロジーの波は古い新世界の日常を侵食してゆく。そこにストレスや悲劇も生ずるだろうが、お笑いも生ずる、それが『来てけつかるべき新世界』の世界である。
AIと人情喜劇の合体といってもよい。AIが人間の日常なり人間性を支配する近未来だが、同時に、人間がAIと仲良くなるというよりも人間がAIと情愛の絆で結ばれるような近未来もある。まさにAIと人間との「人情喜劇」であって、そこにAIとの接し方についての、好ましいありようが垣間みえる。そこがなんとも面白くて、そして愛おしい。
お笑い満載で、しかも知的刺激にことかかない、それがヨーロッパ企画の舞台であり、それが作者の上田誠の天才的なところでもある。
できれば配膳ロボットがいるファミレスで食事をしたあと、舞台を観ていただければ感慨もひとしおではないか。ファミレスから舞台へ。おなか一杯になって眠たくならなければ、これが私のお薦めするベストなコースである。